肌を突き刺す冷気が痛覚を思い出させる。脇腹の裂傷、頬の創傷…戦闘に支障は無い。無いが、頬に受けた傷から割れた鬼の面へと容赦なく入り込んでくる冷たい空気が否応なく身を震わせる。
「…私の、父と母を…殺した悪魔の名。これまで一日とて忘れたことは無い。カイザー、装甲に覆われた極めて特異な存在。いつかの戦争で武人と呼ばれた悪鬼」
バサバサと吹き荒ぶ寒風に紺色のローブと藍色のマフラーをはためかせ、非正規英雄の女は握る厚刃の大剣を正面に構える。
「楽しかった?これまで私を嘲笑ってた?こうなるまで黙っているつもりだったの?海座弓彦、貴方は…貴様、はッ!」
「―――リザ」
言葉と共に前へ伸ばした手。指先から腕、肩。全身を覆い尽くす白銀の装甲を視界に収めて、今自分は悪魔としての姿形でこの場に立っていることを思い出す。
言わなければならない。信じてもらえなくても、言い訳だと斬り捨てられても。
「違う。私は君を」
「黙れェ!!」
激昂する彼女から放たれる怒気と殺意が奔流となってちらつき始めた粉雪を吹き飛ばす。
その身からは魔力と呼ばれる特殊なエネルギーが漏れ出ていた。間違いなく、彼女は英雄としての能力を覚醒させている。それも、随分前に。
何故気付かなかったのか。
後悔しかない。どんな顔をしているのか自分でもわからない。今だけは表情が鬼面に覆われて隠されていることに安堵すら覚える。
駄目だ、黙っていては。空回りでもいい、とにかく喋れ。
「事実は、確かにそうだ。私は君の両親を殺した。まだ幼かった君のことも、その時見た。…一度、私と君は顔を合わせていた」
「そうだ…その忌々しい鬼の面!それを頼りに私は探し続けた。ようやくだ、ようやく見つけた…!」
あの夫妻は殺さなければならなかった。リザは知るはずもないことだが、あの二人は。
「落ち着いて聞けリザ。君の両親を殺しておきながら、何故その時部屋に入って来た君を私が殺さなかったか考えろ」
武人、装甲悪鬼カイザーは無類の強さを誇る頂点の一角だ。悪魔の誰もが彼を畏怖し、畏敬する。彼の手によって葬られた者は数えきれない。
だけど、そんな彼にも信条とすることがあった。
それは必要以上の殺戮を行わないこと、またそれを周囲で引き起こさせないこと。無害な存在には手を出さないこと。
向かって来る英雄は殺すこともあるが、状況次第では同胞の悪魔とだって相対するし殺すことだってあった。しかしただの人間だけは絶対に手に掛けることはしないと誓ってもいた。
ただの人間には。
「君は無償の愛を受けて父母に育てられたと思っているだろう。私もそれを否定することだけはしたくなかった。だからこれまで黙っていた!」
彼女の心を抉った傷にこれ以上触れない為に、それが最善だと信じて黙秘してきた。それすら失ってしまったら、きっと彼女は二度と立ち直ることも気力を蘇らせることも不可能だと察してしまっていたから。
「貴様が私の両親を語るな―――!!!」
両手で握る柄からは力み過ぎから血が滴り、それすら啜るおぞましき英雄の剣に吸収されていく。
あの神聖武具のことは知っている。使わせるわけにはいかない。自らに迫る危機を排除する為ではなく、それを使うリザ自身の為に。
「吸え、喰らえジークフリード。私の生命を貪って、怨敵を殺し切れるだけの力を、力を、力を……ッッ!!」
「やめろリザ!!それを、そんなモノを使うな!」
殺されてもいいと考えて生きてきた。いつかこうなる時が来たら、そしたらそうしようと。
だが、まだ駄目だ。
前回の大戦で天神の動きは封殺することに成功した。これによって情勢は悪魔に傾いている。世界のバランスは大きく揺らいだままだ。次を、次を成さねば。
それが約束だったから。唯一無二の親友、あの英雄との最後の誓い言だったから。
まだ死ねない。彼女も死なせない。
神速の抜刀にて腰に提げられた銀の刀を引き抜く。ジークフリードは発動させない。
恨み続ける限り、憎み続ける限りあの娘が生きる理由になるのなら。それでいい。
カイザーは単体にして強大な戦力として君臨する。いつか来たる二度目の大戦を勝利で終わらせるまで、三柱の座にて刻を待つ。
医者と患者が過ごした時間を過去に捨て、青年と少女が幸福を噛み締めた蜜月は記憶の彼方に。夫と妻という関係すらもはや枷だと斬り裂いて。
彼と彼女が、長きに渡る装甲悪鬼と大英雄の因縁を結ぶに至った、これが最初の冬のこと。