Neetel Inside ニートノベル
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――光に届かない地下13階の研究室。臓物から吐き出された血がこびり付いた診察台の上で菱村真一は目を覚ました。

 深海の奥に身体ごと沈んでいるような鈍痛漂う気だるさを感じながら鰐口状に変形したままの自分の右腕を顔の前に掲げる……記憶が失われる前の一番最後の光景。俺はまた『英雄』に命を狙われてなすがままに身体を切り裂かれ敗北を喫した。

 そして今、この不衛生極まりない台の上、無造作に転がされている。裸電灯がぶら下がる薄暗い部屋の奥からは汗が染み込んだままの白衣を着た中年の男が鼻歌雑じりで自分と同じように診察台に並べられた死体から奇麗な色をした肝臓を切り出している所だった。

 広いとは言えない部屋中立ち込める異臭から完全に麻痺した鼻を鳴らして菱村は診察台から身体を起こす。そっと脈を打つ心臓に手を置いた。自分はまだ、生きている。いや、生かされているのだ。この男の手によって。

「おや、目を覚ましたかい。菱村くん」

 汚れたトレイの上にメスを投げ捨てるように手放すと返り血として浴びた血糊が柄のように染み込んだ白衣の襟を正して、菱村を『修復した』久慈友和が不揃いの前歯を見せて振り返った。

 死体を意のままに操る能力を持つネクロフィリアは外科医としての才も有るらしい。

「なぜ助けた?」

 一番シンプルかつ不可解だった疑問を投げかけてみる。このマッドサイエンティストに身体を診てもらうのは以前、悪魔としてシオンの細胞を身体に取り込んで以来二度目。ぐっと目の奥に鈍痛が響いて俺は患部に手を重ねた。自分を襲った相手が誰だったか。ぶちぶちを音を立てて引き裂かれる意図と糸。此処への記憶が繋がらない。

「おまえさんはもう、戦わない方がいい」

 久慈が元の遺体に向き直って俺に背を向けながらこもった声で呟いた。乱れた髪と意識を振り払って俺は血染めの世界地図に視線を向ける。再び手に取ったメスを後ろ手で揺らしながら久慈は俺に言った。

「この短期間に英雄相手に二度の敗戦。おぬしのような人間と悪魔のハーフであるイレギュラーでなければ普通に死んでおる。なぜワシが取り付けてやった離脱用ブースターを使わなかった?」

 菱村は診察台の上に片足をもたげてその踵に目を落とした。人体で一番堅く創られているその箇所には強烈な圧縮ガスが仕込まれており、以前参加したデビルタワー襲撃の件ではそれを使ってバハムートの『槍』日部梨王を相手に追い詰められながらも離脱に成功。その戦いで三十秒以上足止めとしての時間を稼ぎ出した。相手との能力相性としての適正もあったが天と地程の実力差がある相手に対し、新参者ルーキーが成し遂げた緒戦としては考えられない成果である。だが、その敗走は生まれながらの成功者であった菱村の自尊心を大いに傷つけた。


「どうせ自分も石動や四谷のように立ち回れると思っとたんじゃろ」

 己の浅はかな考えが見透かされて菱村は重く濁った息を吐く。淀んだ口調で久慈が言葉を吐き続ける。

「あやつらの持っている能力は特別じゃ。まさか馬場夢人の首を討ち取るとは口には出さんかったがアライアンスを組んでた連中も誰も思わんかったじゃろうよ。あまりにもうまく事が進みすぎて気味が悪いくらいじゃ。まー、敵側にもなんかしらの思惑が蠢いていたに違いないがの」

「助かった。とりあえず礼を言おう」

 話を打ち切るように床に足をつけると再び鈍痛が頭の中へ訪れて菱村は巻かれた包帯の間に指を捻じ込む。思い出したように久慈が間の抜けた接続詞を宙に浮かべた。

「あー、それとおまえさんは社会的に死んだ事になっている。裏から手をまわして葬式ではワシが海外から取り寄せたおぬしに背格好の似た死体を焼かせた」

「…もうあの家に戻るつもりはない」

 靴を履いて台の上から身体を持ち上げる。能力を放出したままだった右手を解くと菱村はその手の甲をいとおしげに反対側の手で撫でた。自分の身体に取り込んだ結原紫苑の柔らかな横顔を浮かべて思いを馳せる。同時に自らの父である武蔵の歪んだ笑い声が照り返された。

 自身が経営する企業の拡大化とは言え、裏では相当に汚れた仕事を請け負っていた。その声は準悪魔として生きる今も内耳の奥に焼きついてる。

「さっき俺に戦うなと言ったな。どういう意味だ」

 自然と語気が強まる。菱村が久慈の背中を睨みつけると黒ずんで縮小された肺が久慈の弄くりまわしている死体の身体から別離された。解剖の手を止める事無く久慈がぶっきらぼうに言い放つ。

「言葉の通りじゃよ。おまえさんはあまりに世界を知らな過ぎる。親が敷いたレールを歩いて教科書通りのおべんきょを学んで退屈しのぎに女の尻を追いかけて悪魔に身を墜したんじゃろ?
この世は一筋縄では行かん事が多すぎる。経営に医療分野。悪魔として生きて行く。それは別に英雄と闘う事だけではない。おまえさんはまだ若い。悪魔としてどうあるべきか、生き方を学ぶべきじゃ」

「…社会不適合者による有り難いお説教だ。参考にするよ」

 不毛とも思える話を切り止めて菱村は衣文掛けられた自分の上着を身に着けて地上に繋がるエレベーターのボタンを押す。

「世話になったよ久慈先生。もうたぶん、あんたと会う事はないと思う。達者でな」

 思いがけない言葉に久慈はふん、と鼻を鳴らすと手を止めて視線を壁の先に泳がせた。

 地上に繋がるドアが開く。眩しい光に目がくらむ。菱村真一は死んだ。悪魔の娘を身体に宿したひとりとして菱村真一は準悪魔として生きていく。

 その道の通ずる先は神でさえも知らない。




第二十七話 完


       

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