第十二話 英雄を引退した結果 (後藤健二)

「ふぅ…」
 堅悟は残ったスーパードライの500ミリ缶ビールを飲みながら、ハイライトを吹かせていた。
 とりあえず忘れたかった。酒や煙草で気を紛らわせて落ち着きたかったが、様々な者たちからの様々な思惑が頭の中を駆け巡り、便器にこびりついた糞のようにしつこく張り付いている。彼が便器掃除をするようなタイプに見えないのは賢明なる読者諸君もご存知の通りであり、普段からろくに手入れもされていないため、第十一話までの怒涛の展開に処理が追い付かず、ムーンライト伝説ばりに思考回路はショート寸前だった。
「俺はどうしたらいい?」
 と、翼ちゃんに聞いても答えは出ないのは分かっていても、思わずそう呟きたくもなる。
 ゴーストバスターズ。
 準悪魔の穏健派、過激派、反逆軍といった様々な派閥。
 そして「天使と悪魔の戦いを終わらせる」と言っていたカイザー。
 世の中、堅悟のあずかり知らぬところで様々な動きがあるらしい。
 まったく訳の分からないことだらけだ。
 分からないと言えば、目の前ですやすやと寝息を立てている佐奈のことも分からない。
 彼女の胸がDカップなのか、それともEカップなのか。
「ううーん…」
 寝返りをうつ佐奈が、無防備に仰向けに寝転がる。
 たゆんと響く肉の荒波。
 でかい。
 3.11ばりにでかい。
 しかもまさかのノーブラ…!
(ううむ、これは少なくともD以上は確実なところだ)
 激しい戦闘から辛うじて生き延びた高揚感からか、種の生存本能からか、堅悟の暴力的なまでに溢れ出る情欲パトスが、彼に佐奈の胸へ手を伸ばすよう命じた。リザ人妻鹿子JKとお近づきになれるチャンスは潰えたが、好奇心旺盛でオカルト好きな佐奈JDも悪くはないではないか。
 その美味そうな肉をまさに鷲掴みにしそうに……というところで、土俵際で堅悟の理性がうっちゃり、がっぷり寄り切ろうとした情欲を押し戻しました。おおっと、これは大番狂わせですね。デーモン閣下!
 ちらりと堅悟が後ろを振り返ると、冷たい視線を向ける翼がいた。
「堅悟様」
 翼は冷たい視線のまま呟く。
「天界の枷を断ち切られた私には、もう以前のような心を読んだり姿を消すような力はありません」
「あ、そうなの?」
「その代わり、英雄や悪魔へも干渉…つまり、殴れるようになりました」
「え?」
「お望みとあらば…こう、ばちーん!とひっぱたけますよ」
「そりゃ痛そうだ」
「ええ。女性の敵には特に容赦なくばちーん!としますから」
「へいへい」
 堅悟は手をぷらぷらとさせ、佐奈の胸を揉みしだくのを諦めた。
「よろしい」
 うんうんと頷く翼は、実はちょっとほっとしていた。
 天使というのは父なる神の手から生まれるので、生殖行為といったものは必要ない。ゆえの無性だったが、見た目だけは個々の天使により男っぽかったり女っぽかったりする。翼は女性的な容姿なので、任務に忠実なクールビューティーとして感情を露わにしないよう装っていたが、内面はかなり繊細というか女性的で、堕天してからは更に強く女性を意識していたのだ。
(私もどうしたらいいのか…)
 翼もまた、思い悩んでいた。
 堅悟の聖剣エクスカリバーによって断ち切られた天使としての首輪。
 それから解き放たれた今、かといって天使としての生き方しか知らなかった身にとり、今さら人間として生きろと言われてもどうしたらいいのか分からない。天使でもない。人間でもない。天使としての魔力を備えたまま自由だけを得た元天使。
(そういえば、数百年前、今の私と同じような身になったという元天使がいたような……確か、力天使で……名前はウリエル様。あの御方は今どこで何をしておられるのだろうか)
 まさか近所のスーパーで週5フルタイムで働いていたりはしないだろうが。
「さて」
 堅悟がくしゃりとハイライトの包みを握りしめる。もう酒も煙草も尽きたが、頭の中の悩みは尽きない。
「今後の身の振り方をどうするか、一度しっかり考えねぇとな……」
 堅悟がそう呟くのを、翼もこくこくと頷く。
「それなら! 丁度いい相談相手がいるよ!」
「うおっ」
 突拍子無く──。
 いきなり明るい声を掛けられ、堅悟と翼は驚かされる。
 酔い潰れていたはずの佐奈がケロッとした顔で起きていた。
「ふふーん。飲み会慣れしたイマドキのJDを甘く見ないで欲しいね。飲みサーの猛攻も跳ね返してきた鉄の胃袋は、この程度のアルコールじゃ潰れないのさ! 仮面ライダーが話しにくそうにしていたから寝たふりをしていたんだけど……。いや~~堅悟君が私のおっぱい揉みそうになってた時は引っぱたきそうになるのを笑いをこらえながら我慢していたよ(笑)でも、しっかり聞かせてもらったからね! なになに、あの超面白そうな話は! まさかあの仮面ライダー自身がUMAみたいな存在だったとは! 堅悟君もそうなんだね!? いやぁ、天使だの悪魔だの、うちの編集長が聞いたら喜ぶだろうなぁー! あ、その相談相手ってのがうちの三文オカルト雑誌の編集長をしている阿武さんってオジサンなんだけど、この人が中々良い目のつけどころをしていて───」
 おっぱい揉もうとしていたところまで気づかれていて、気まずいやらなんやら。
 一分間で数百発も撃てる機関銃でも何千何万発と撃てば銃身も焼き付くが、佐奈の機関銃マシンガントークはそれぐらいではびくともしなさそうである。
 堅悟と翼はなすすべなく撃ち抜かれるままで、何か返事をする暇も与えられない。
 佐奈は話の途中にもスマホを取り出してどこかに電話したかと思えば、すぐにその阿武某というオカルト雑誌の編集長に会う段取りまでつけてしまった。この安アパートの場所もただちに伝えられてしまい、阿武某とやらも深夜だというのにすぐに駆けつけてくるというではないか。
「……何てやつだ」
 ますますややこしいことになりそうだが、佐奈はカイザーと堅悟の会話をスマホで録音しており、逃げ場はなかった。
「まぁまぁ、本当に阿武さん頼りになるんすよ! 騙されたと思って相談してみましょーよ!」
 にこにこと無害そうに笑う佐奈に、堅悟は深々と溜息をつく。
 やっぱりこいつ、苦手だ…。
 斯くして、堅悟の借りたばかりの安アパートには、深夜にも関わらず三人目の客を招くこととなる。






 阿武熊五郎あぶくまごろう
 名前と酒だけは強そうだが…。47才、眼鏡をかけて頭髪もだが幸も薄そうな顔つきをしたひょろりとした痩躯。左手薬指に結婚指輪をしているが、ヨレヨレのスーツはまったくアイロンの形跡がなく、いかにも生活に疲れきったサラリーマンというか、恐らく恐妻家ではないかと思われる。こんな深夜までスーツ着て仕事していることからもブラック勤めが予想され、実にお疲れ様ですといったところだ。
「ふぅん……なるほどねぇ……」
 佐奈のマシンガントークによる天使と悪魔の抗争がこの町で行われている!という、実に荒唐無稽か誇大妄想の極みのような状況説明に対し、阿武はうんうんともっともらしく頷きながら静かに聞いていた。
(本当に分かってんのかこのオッサン)
 と、当事者の堅悟でも思うし、傍から聞けばやはり現実味の薄い話だ。信用されなければそれはそれでいい。佐奈が相手にされずこの話はおしまいになり、そろそろ夜も更けてきたことだし、色々ありすぎて今夜は疲れた。もう休ませてもらいたいところだと考えていたのだが。
「そりゃあ大変だったね。堅悟くんとやら? 実は……何を隠そう、この僕も元は非正規英雄だったんだけどねぇ」
 さらりと驚くべき事を言われる。
 曰く、阿武さんの人生もまた壮絶なものであった。
 見た目通り、中小企業に勤める冴えないサラリーマンだった阿武さんだが、会社の稼ぎだけでは家族を養うのが大変だということで、会社に内緒の副業としてコンビニバイトを始めたのだという。それも世間は狭いもので、時期は違っていたが堅悟や佐奈と同じコンビニで働いていた。
 マイホームのローンは地獄の35年で定年まで働いてもまだ先がある。妻は家でごろごろしているだけの専業主婦。中学生の息子は反抗期で悪い友達と毎晩のように出歩いていて家に寄り付かない。会社では営業成績が振るわず上司に詰められ、薄給でサービス残業の日々。
 そんな中、糊口をしのごうと始めた深夜のコンビニバイトで、ヤンキーどもが煙草を買いに来ていた。明らかに未成年であり、売るわけにはかない。反抗期の息子の顔がちらついた。このヤンキーを息子と思えと、阿武さんの正義の心が囁いた。
「───ね、年齢を確認できる身分証をご提示頂けないなら、お売りできません。君たち、見たところ中学生ぐらいだろう? こんな時間に出歩いて、親は何も言わないのか!」
 喧嘩を売られたことはあれど売ったことはない。
 だがその言葉はヤンキーどもには煙草ではなく喧嘩を売ったと認識される。
 恫喝され、ごつんと殴られ、それでも必死に首を振る阿武さん。
 やがてコンビニオーナーが警察を呼んでくれて事なきを得て…。
 災難が去り、正義を守った阿武さんに、例のごとく天使がスカウトに来た。
「それでね、コンビニバイトを辞めて、英雄というバイトを始めた訳だけど───」
 残念ながら、アーティファクトを得ても阿武さんの対準悪魔討伐件数は芳しいものではなかった。
 当然のごとく、担当天使に「何やってんですか」と詰められる。
 もっと討伐件数稼いでくださいよ。
 今月あと何体の準悪魔を倒すんですか?と。
「そこで気づいたんだね。英雄といっても天使株式会社の歯車なんだなぁと。正義といってもそれは天使側の正義であって、私にはちっとも合わないなと」
 何もかもが馬鹿らしくなった阿武さんは、英雄を引退することにした。
 英雄を引退する場合、与えられたアーティファクトを天使に返上しなければならないルールがある。
 が、阿武さんの担当天使は割と怠慢だったらしく、阿武さんも成績が芳しくないので監視が緩かった。
「……あ、話が長くなっちゃったね。ごめんごめん。そこのコンビニで缶ビール買ってきたんで飲もうか? 佐奈ちゃんも、堅悟君も、一本どう?」
「お、話せるねオジサン」
「いただきまーす」
 プシュ、とプルタブを開ける音が三つ。
 酒も入り、阿武さんの話はまだまだ続いた。
 アーティファクトを預かってくれる人物がいるらしい。それも人間で。
 苦労して調べた末に、阿武さんはその人物にアーティファクトを預けてしまう。
 おかげでいざとなれば戦えるという含みを持たせたまま、天使たちと決別することができたという。
「僕が引退するって言った時、もうアーティファクトは無いよって知った時の担当天使の顔って言ったらなかったね! 傑作だったよ。あれはスカッとしたなぁ」
「やるねぇ、オジサン」
「ハハハハハハハハ」
 どことなく、その笑い方がカイザーに似ているな、と堅悟は思う。
 なぜだろう。元精神科医でエリートっぽい身のこなしの海座弓彦と、うだつの上がらないサラリーマンの阿武熊五郎。どこにも接点は無い筈だが、どことなく似た雰囲気があった。
 天使と悪魔の戦いを止めようとしているカイザー。
 天使と悪魔の戦いを馬鹿らしいと投げ出した阿武さん。
 ある種、両者は似ているのかもしれない。
「その後、僕は会社も辞めた。とんでもないブラック会社だから元々辞めたくてしょうがなかったしね。それにアーティファクトを手放したといっても、少なからず魔力は体に残っていた。天使と悪魔の戦いがあれば、その魔力を察知することができるし、観測できる。それを活かしてオカルト雑誌の出版社に転職したのさ。それで色々と面白い記事を書くことができて、半年と経たず編集長になった。まぁ、小さな出版社だから給料は前職に比べてもそんなに増えた訳じゃないけどね、楽しく仕事をやれているよ」
「なるほど……」
 堅悟は大いに共感した。
 そういう生き方もいいな、と。
「堅悟君、どうかな?」
「え?」
 阿武さんは穏やかに笑う。
「君も、英雄なんて引退しちゃって、僕と一緒にオカルト雑誌の編集者にならないか? 僕でもやれたんだ。君だってやれるさ」
 阿武さんの牛乳瓶のような眼鏡の奥がきらりと光った気がした。
 俺は少し温くなったのどごし生を飲み干した。
 阿武さんが買ってきてくれたのはビールはビールでも第三のビールってやつだった。本物のビールに比べるとちょっと味気ないが、値段の割に悪くない。
 デビルバスターズ、反逆軍、カイザーと続いた「仲間にならないか?」的なスカウトが、まさかここまで続くとは思いもしなかった。ストーブリーグでも開催されているのかこの埼玉で。一体どうして俺なんかにみんな注目するのだろう。それとも戦力になれば儲けものとばかり、ドラフト最下位で指名しているような感覚なのだろうか。いや、恐らくきっと間違いなくそうだろう。
 が、阿武さんは「戦いをやめた元英雄」であり、別によその組織と対決するために仲間に勧誘している訳ではない。カイザーの勧誘も「戦いをやめさせるため」に仲間にならないか?というものだったが、それよりも更に一歩引いた立ち位置というか──三文オカルト雑誌の編集者にならないかというのは、どちらかといえば普通の就職斡旋に過ぎない。プロ野球志望ではなく、いきなり球団職員にならないかというような提案だ。そして、今の俺に一番しっくりくる提案でもあった。
 空になったのどごし生の缶をくしゃりと握り潰す。
 第三のビール、いや第三の道か。
「バイトで良ければ」
 と、俺はまたしても定職につかずブラブラする夢追い人のような回答をした。
 そうなのだ、俺はずっと非正規職……アルバイトを続けてきた。正社員というものがもっと魅力的に映る世の中であれば違っていたと思う。だが現実、阿武さんが勤めていたような中小企業のブラック営業マンぐらいしか無いのだ。俺のような学歴も資格も無い若者が潜り込める正社員の道というのは……。だから、諦めてずっと惰性でアルバイトを続けてきた。正社員になるのが怖いというか、希望が見いだせない。これと定められる道が見つかるまでは、暫定的に、気楽なアルバイトでいいじゃないか。
「勿論、バイトでもいいよ。歓迎する」
 阿武さんは穏やかに笑うと、胸ポケットから名刺を取り出して渡してくれた。編集長・阿武熊五郎の名前と共に、オカルト雑誌「月刊アトランティス」を発行している「中立出版株式会社」の住所や電話番号などが書いてある。ちょっと待て。三文オカルト雑誌というが、俺でも知っているような結構有名なオカルト雑誌だぞこれは。飄々としている阿武さんだが、アトランティス編集長とは……実はかなり有能なのでは?
「今夜はもう遅いし……そうだな、明日の正午に事務所に来てくれ」
「分かりました。ところで中立出版って言えば相当大きい会社じゃないですか? 上場企業だし……」
「いやー雑誌ごとに別々の出版社、子会社って感じなんだよ。中立の本社は確かに大きな自社ビルだけど、アトランティスを発行してる事務所はごくごく小さなところさ。古い雑居ビルの一室だしね。事務所のメンバーも正社員は僕だけで、あとの編集者や事務員はみんなバイトさ」
「本社の目の届かないところで、割と自由にやらせてもらえそうな雰囲気……?」
「ご明察。僕が編集長だし、かなり裁量を任されているよ。バイトの一人ぐらい簡単に雇うことができるし……勿論、記事も自由に書いている。例えば、この間のさいたまスーパーアリーナの事件も、天使や悪魔の存在を少し匂わせながら書いていた。テレビ、新聞、ネットニュースなんかは信憑性が薄いとして殆ど出ないが、アトランティスだけにはその手の情報は載る。まぁ、読み物として面白いという理由で売れているが、一部の非正規英雄や準悪魔も買ってるかもしれないな」
「なるほど……」
「オカルト情報に関しては昔から有名な雑誌だけど、もしかしたら僕が編集長になる前から、僕のような存在がアトランティスを作ってきたのかもしれないね」
「へー、面白いですね」
「きっと気に入ると思うよ。ところで、アーティファクトはどうする? 僕のように人に預けてしまうか?」
「いえ、それは少し考えさせてください」
「そうか。アーティファクトを持っていれば、天使と悪魔双方の陣営から目をつけられるのだが……まぁいいだろう。だが引退したくなったらいつでも僕に相談しなさい」
「分かりました」
 アーティファクトについては考えがあった。
 引退という道も魅力的ではあるが、一人でそう決めてしまうのも無責任だと思ったのだ。俺は翼ちゃんの鎖を断ち切ってしまった。一人の天使を堕天させてしまったのだ。その翼ちゃんのためにも、この天使と悪魔の戦いの決着までを見届ける責任がある。
 未だ、俺は俺自身の正義を見つけられないでいる。その正義を翼ちゃんに求めるのは酷だろう。
 結局、天使も悪魔も奴ら自身の正義に基づいて戦っている。今のところ、どの勢力にも与するつもりはないが、ニュートラルな立場が取れるなら、どうするのが俺にとって正しい道なのか見定めたい。
 幸い、カイザーが「石動堅悟はカイザーによって殺された」というデマを流してくれているらしいし……。
 黒崎たち反逆軍とリザたちデビルバスターズの目はそれでごまかせるだろうし……。
 考える猶予ができた。
 その間に阿武さんの仕事を手伝えば、今後の身の振り方も見えてくるかもしれない。
「よろしくな、堅悟君」
「こちらこそ」
 俺は阿武さんと握手を交わす。
「堅悟君が一緒の職場になるなんて! 私も楽しみだよっ! また一緒にがんばろーね!」
 佐奈が一人で盛り上がっている。
 そうだった、こいつとも一緒に働くってことになるのか。
 騒がしい日々になりそうだ。






 それからたちまち数日が過ぎた。
 阿武さんのアトランティス事務所での日々は慌ただしいものだった。
 最初、小さな事務所は雑然としていて、オカルト関係の書籍や資料が山のように積み重なっていた。だけでなく、カップ麺やコンビニ弁当の空き容器が散乱して、冬にも関わらずゴキブリがカサカサと音を立て……まぁとにかく酷いゴミ屋敷だった。
「ひ、酷過ぎる……!」
 悲鳴を上げたのが翼ちゃんだった。
「え? そう?」
 きょとんとした顔の阿武さん。この人、家庭でも蔑ろにされているらしいが、自宅も相当ゴミ屋敷になってんじゃないだろうか……。
「よく皆さん平気ですね!!!!」
 何事にもきっちりしていないと気が済まない翼ちゃんが、「こんな職場環境では調べものなどできません!」と張り切り、俺たちはまず事務所の大掃除から始めねばならなかった。
 俺もそうだが、阿武さんや佐奈や事務所の他の面々もまったく掃除や整理整頓には無頓着な方で、翼ちゃんの見事な家事能力に事務所員一同は唸らされた。一日がかりですっかり室内が綺麗に片付いた後、阿武さんは翼ちゃんにも一緒に働かないかと持ち掛けてきた。堕天して天界から追われる身となった翼ちゃんを匿うにはちょうどいいし、事務所常駐の事務アルバイトとして雇われることとなる。
「掃除やお茶汲みぐらいしてくれたらいいから」
 と、阿武さんは鷹揚に言う。
 どうせお給料は本社が出すので、阿武さんの懐は痛まない。オカルト雑誌「アトランティス」の売れ行きさえ良ければ、アルバイトを数人増やしたところでとやかく言われないらしい。
「職務には忠実です。お任せください」
 天使でなくなった翼ちゃんは、気持ちに整理がついたのか、新しい生活に張り切っていた。
 その翌日以降は、阿武さんにアルバイト編集者としての仕事の基礎知識などを教えてもらう。カメラの使い方や、記事の書き方、社会人としてのマナーなど。基本的すぎて余り面白いものではないが、雑誌編集者なんて仕事は俺も初めてだから新鮮ではあった。
 慣れない仕事というか勉強の日々だが、割と穏やかで平和な時間が流れた。
 真面目に掃除をこなし、事務所メンバーのためにお茶を入れてくれる翼ちゃん。
 新しいオカルト情報を仕入れては興奮して騒ぎ立てる佐奈。
 身なりや身の回りには無頓着だけど、鋭い視点を持って興味深い話をしてくれる阿武さん。
 俺は、何だか久しぶりに人間らしい日常ってやつを味わっていた。
 だが、こんな日々を偽りの平和と思っているやつもいるんだよな…。反逆軍の黒崎、やつとの約束もすっかりブッチしてしまっているが……。まぁ最初から行く気なかったからいいけど。
 今この時も、天使と悪魔の陣営は激しい戦いを繰り広げているのだろうか。
 アトランティスの事務所にいると、様々なオカルト関係の情報が入ってくる。
 「UFOを見た」とか「幽霊を見た」とかいった類のもので、大抵は勘違いとか明らかなウソの情報ばかりだが、中には真しやかな情報もある。高速道路を車と同じくらいの速度で疾走する三つ首の大きな犬(ケルベロス!?)を見かけたとか、怪しげな力を使うスーパーの店員がいるとか、中学生ぐらいのヤンキー集団がホームレス狩りをしているとか。
「ヤンキーのホームレス狩り? これは警察か学校に持ち掛けられるべき話では…?」
「いやそれが、その狩られたホームレスがかなり残虐なやり口で殺されていて、まるで大きな獣に食われたかのような死体がいくつも発見されているっていうんだ」
 阿武さんが顔をしかめている。
 彼も中学生の息子が反抗期で悪い友達と連れ歩いているというから、他人ごとではないのだろう。
「その大きな獣というのが、明らかに……」
「準悪魔の仕業ですね」
「この街には、こういう事件がゴロゴロしているのさ」
 取材対象には困らないという訳か。
 ふん、望むところだ。
 穏やかな日々も悪くないと思ったが、そろそろ飽きてきたところだ。
 俺は、心のどこかで戦塵を望んでいた。






第十二話 完
sage