Neetel Inside ニートノベル
表紙

非正規英雄(アルバイトヒーロー)
第十三話 私は共存を求むと言った (混じるバジル)

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 降りしきる雨の中、雑居ビルの間の路地に一人の男が倒れている。齢18にも満たないその少年はアスファルトに仰向けになり、世界を覆いつくす重い曇天をその瞳に眺めていた。

 男を追ってその場に現れた影がふたつ。暗がりから姿を現した目深にフードを被った少女の姿を見上げて少年は観念したように俯く。

「気をつけろ。まだ何か手を隠してるかもしれんぞ」

 後ろに立つもうひとつの影からの忠告を受け少女は注意深く地面に倒れこんだ少年の姿を見下ろした。

 彼は瞳を閉じて肩を大きく揺らして深く呼吸を繰り返し、破れたシャツの下からは大きな打撲痕が見られ、腕と脚の腱は的確に断たれていた。

 むせこんだ口から吐き出された血溜まりが彼の襟首を伝って首元に流れ込む。小刻みに震えているのはこの雨による寒さのせいではなく、彼の死期がすぐそこまで迫っている事を示していた。

「馬鹿な男」

 少女は息も絶え絶えの彼の様子を見て細く息を吐き出した。そして頭上に手を掲げると彼女が所持するアーティファクト――雷神の鉄槌トールと呼ばれる大きな金槌が姿を現した。

 彼女はそれの柄を深く握ると目の前で大の字になった男をあざ笑う訳でも悲しむ訳でもなく、感情の無い素振りで標準を男のみぞおちに定めた。その瞬間、壁の傍から姿を現した和宮が鹿子に声を掛けた。

「待て、その男は、もう」

 鹿子は目を見開いて倒れた男の呼吸を目視する。力なく傾いた顔には自分を痛めつけたふたりへの憎悪や憤怒の想いは無く、ただ満足げな安らかな死に顔を残して彼の魂は今生を離れていった。

「良くやった鹿子」

 近づいて来た和宮を鹿子は激しい意思を含んだ瞳で睨みつける。

「これを見て良くやっただって?馬鹿言わないでよ」

 奥歯を深くかみ締めて鹿子はその場から歩き出す。道を踏み外し悪魔と化した人間に正義の制裁を加えてやるのが彼女達非正規英雄の仕事だ。普段と同じ通り、悪魔のあらゆる行動手段を封じ、追い詰めて、殺す。

 英雄として神聖武具を受けた2年前から繰り返されるひとつの日常ルーティーン。但し今回は内情が違った。鹿子は事切れた亡き骸を一度だけ振り返ってこみ上げる感情を噛み殺してフードを深く被り直した。

 なんでこんな事になっちゃったのよ――彼の死を悼むような質量を持った重い雨が街中に降り注いでいた。


 県境の河川敷を挟んだ片側の道路沿いに鹿子が知り合いの手伝いと銘打って放課後の活動拠点としている探偵事務所があった。

 商店街から外れた雑居ビルの4階にあり、その1階には地元の人々でもほとんど通わない老夫婦が営む純喫茶『いずみ』がある。とっちからった8畳ほどのワンフロアの真ん中に置かれた頑丈なデスクの上に鹿子はプリントアウトした用紙数枚を投げ広げた。

 最近この街でも見られるようになった複数の怪事件――学校での噂話から近所の主婦の井戸端会議、またはネットニュースから様々なオカルトにも似た証言情報が入ってくる。

 発光する飛行物体に超高速で移動する謎の生命体。周期的に街へ訪れる人喰いの悪魔――どれも一聞すると眉唾モノの情報ばかりだが日常的に悪魔と対峙する鹿子にとってそれらの空想のどれかひとつが実態を持って彼女の元に姿を現す事は荒唐無稽な話ではなかった。不意に表のドアが音を立てて開く。

「なんだ、居るじゃないか。明かりくらい着けたらどうだ」

 立て付けの悪い、薄いドアを引いて間遠和宮がその細長い体躯を入り口の天井に当てないよう身を屈めて事務所に入ってきた。鹿子は振り返らずにパソコンの置かれた席に着いてキーボードに指を浮かべる。

「節電よ。それに昼間からこんなボロビルの4階の明かりが煌々と点ってたら怪しまれるに決まってるジャン」

「それもそうだがな…」

 言いかけて和宮がコーヒーポッドの横に置かれたブレンド粉の袋に手を伸ばした。しかし、棚の死角になっていた場所にあったその袋は和宮の指からするり抜けると落下して中身を床に大きくぶち撒いた。

「すまない。時々あるんだ、こういう事が」

 鹿子は気だるげに席を立って壁のボタンを押して部屋の照明を着けた。

「そうしてもらえるとありがたい」

「…何もそこまでしなくても、ちゃんと片付けときなさいよソレ」

 ふたりが床に散らばった細かく粉砕されたコーヒー粉を眺めていると階段をだん、だんと力強く踏みしめる音が聞こえてくる。

「来客か。珍しいな」

 和宮が呟くとドアが開き、息を切らせて制服姿の少年が事務所に姿を現した。

「アポも取らずにわざわざこんなビルの4階まで上って来るなんて、よっぽど緊急の用事らしいな」

「お前が鈴井鹿子か?」

 和宮の言葉を遮って少年は部屋の奥に立った鹿子に訊ねた。

「俺を知っているか?」

 そう聞かれて鹿子は首を横に振った。

「何ソレ?その制服、私が通う学校のと同じだけどキミの事なら知らない。最近流行ってる映画の真似だったらその辺の女の子捕まえてやりなさいよ」

「そうか、なら仕方ないな」

 少年は少し気落ちした態度で頭を掻くと和宮と鹿子に向き直った。

「俺の名は菱村真一ひしむらしんいち。鈴井と同じ高校に通っている。お前に調べて欲しい事象があってここに来た。探偵、やってるんだろ?」

 菱村と名乗った少年の値踏みした微笑みを受けて鹿子は挑戦的に口角を吊り上げた。

「やってるよ。悪魔事件担当の美少女探偵」

「おい、鹿子!」

 和宮が振り返ってクックと笑う鹿子を見て咎めた。一般人にとって悪魔の存在は認知されてはならない決まりとなっていて、依頼者側から訊ねられない限り探偵はその存在にとって答えない、というのがこの世界での仕事の常識となっている。

「そうか、なら話が早い」

 少年は鹿子を見て安堵したように息をつくと制服の内ポケットから数枚の写真を取り出して近くに居た和宮に手渡した。それを見て鹿子がオーバーリアクションで両手を広げて持ち上げた。

「なんだ、ああ言ったらみんな『コイツ、痛いヤツだ』って思って回れ右して帰ってくのに~」

「こらこら、面倒だからって客人を追い払おうとするな。この子か?」

 和宮が手渡された写真の中央に写った制服姿の女子を示すと菱村が小さく頷いた。ショートボブのこれといって特徴のなさそうな普通の女子高生が道路沿いを歩いている構図の写真だ。

「彼女の名は結原紫苑ゆいはらしおんと言う。お前たちには彼女の捜査に欲しい」

「な、おい。俺はお前より年上だぞ。先輩を敬え」

「尾行、つってもねー」

 せせら笑う態度で鹿子はその場から歩き出して新しいコーヒー粉の袋が置かれた棚に手を伸ばした。袋の口を開きながら鹿子は話を続ける。

「キミ、尾行ってどうやるか知ってるー?たったひとりのターゲットの為にこの可愛い女子高生がおはようからおやすみまで一日中その子を監視するわけ。
捜査期間中の食費に移動費。必要であればその子の向かいの部屋を間借りする必要もある。お金かかんのよ?それにいまストーカー規正法とかでうるさいし」

「金ならある」

 そう言うと少年は角ばった茶封筒を机の上に3本投げつけた。それを見て鹿子が先程の和宮と同じようにコーヒー粉を床にぶち撒いた。

「菱村…聞いたことがあるぞ。最近物流業界で名を上げている大企業の御曹司か」

「その通り。それ以上必要であればすぐに用意できるぞ」

 不敵に微笑む菱村を見て鹿子は思いを巡らせた。彼が私にこの仕事を頼むのは何のため?金が有るのならその他大手の探偵に依頼すればいい。そして彼女の中でひとつの結論が見出された。

「もし、これだけの額を貰っても私が断ると言ったら?」

 鹿子が訊ねると菱村は新たに写真を取り出してそれを鹿子と和宮のふたりに見せた。

「先日、新火駅近くで発生した謎の暴動事件。交通機関の一部麻痺と死亡負傷者多数。マスコミは海外からのテロリストによる放火だと報じているが本当は違う」

 そう言うと菱村はその裏に持った写真をその前に回した。

「駆けつけた消防隊とは逆方向に走り、飛び回って戦闘を繰り広げるふたりの異能力者。ほら、この長剣を振る男はあんたじゃないのか?」

「鹿子、記憶抹消器イレーサーは使わなかったのか?」

「とっさの事でつい。まさかアイツがあんな事始めるなんて思わなかったし」

「仲間割れはよせ。それにこの写真には大鉄槌を構える鈴井の姿が映っている。お前たちが人知を超えた超常的な力を持っている事はこれで証明された。お前らが俺の依頼を断るようなことがあれば」

「断るようなことがあれば?」

「メディアや週刊誌各位にお前たちの存在を明かす」

「それ、脅しのつもりで言ってんの?」

「よせ鹿子!」

 次の瞬間、激高した鹿子が振り下ろした右手が強固な造りの机に向かって振り下ろされた。その軌道はその手になにか鉛のような重さを含んだ硬質な物体を掲げているようにも見えた。

 どがぁしゃん、と大きな音が鳴り、机が中心から真っ二つに割れ崩れた。振動が壁を伝ってビルの床を揺らす。鹿子はゆっくりと顔を上げると菱村の顔を睨みつけた。

「吊り合わないよソレ。これ以上ふざけた態度を取る様なら、アンタが言った人知を超えた能力がその身に刻まれる事になる」

 鹿子が発する暴力的なプレッシャーに怯むことなく菱村は額の汗を拭うと深く息をついて鹿子に向き直った。

「馬鹿を言うな。俺は名のある大企業の息子だぞ。消息が途絶えたら必ず足がつくに決まっている。悪魔専門の探偵稼業なんだろ?ここは交渉らしく、和やかにいこうぜ」

「やっぱり知ってたんじゃない。悪魔と英雄の存在に」

 鹿子ががっくりうなだれると和宮は埃の舞い上がった床に視線を逸らした。潰れた机を挟んで3人がパイプ椅子に腰掛けると和宮がさっき菱村から手渡された写真を鹿子に見せた。

「彼女は学校で、いわゆる売女のレッテルを貼られている。そしてその件で学校中の生徒から無視をされ、存在を認識されない生徒になってしまった。
彼女の授業態度は真面目で派手なグループと交際があるという噂も無い。それなのに何故彼女が売春をしているような疑惑がかかってしまったか、俺は知らない。一度しかない高校生活だ。彼女に楽しい思い出をつくらせてあげたいんだ」

「ふーん。色々まどろっこしく話してきたけど、つまりはその子とくっつきたいって事でしょ?世間知らずの御曹司サン」

「くっ、依頼主にその態度は何だ!」

「成程、そういう事か」

 顔を赤らめて立ち上がる菱村を見て和宮は自分の学生時代の姿を重ねた。鹿子が写真のコピーを撮ると菱村に向き直って答えた。

「まあいいわ。この頃流行の怪事件と関係あるかもしれないし」

「そうか。恩に着る。それと成果報酬の件だが」

「ああ、いいよ。そういうの。お金は有るに越した事は無いけど、このオンボロ事務所から大金が動いたら色んな方面から怪しまれちゃうジャン。私にエンコー疑惑がかかっちゃうなんてこりごりなんだけど」

「フッ、それもそうだな。お前たちが無事、彼女の無実を証明してくれる事を願っているよ。それではよろしく頼む」

 そう告げると菱村は立ち上がって事務所のドアを開いた。コーヒーメーカーのお湯が沸きあがる音が部屋に残された和宮と鹿子の間に響いた。

「さっきのコーヒーの袋の件」

 突拍子のない鹿子の言葉に和宮は顔を上げた。

「あんた今、アーティファクト使えないでしょ?」

 訊ねられて和宮は自分の掌を握り締めた。間遠和宮が有する神聖武具の発生代償は『肉体機能の一部不全』。それなりの覚悟を背負って発現する奇跡の剣は迷いを抱えた心では具現化する事は叶わない。

「クソッ!全部あの馬鹿のせいだ!」

 立ち上がって鹿子はゴミ箱を蹴飛ばした。あいつが、あの日あいつが新火駅であんな事を仕出かさなければ……!

「モノにあたるのはよせ」

 激しい怒りを纏った鹿子に和宮は非正規英雄の先輩として優しく語りかけた。

「ただ一人、女子高生の生活を探るだけだ。おそらく他の人間にはバレていない。話しても信じてもらえないだろう。冷静になれよ。迷い猫を探すくらい簡単な仕事じゃないか」

「冷静になれ、か。駆け出しの頃、リザに耳にタコが出来るくらい聞かされたわ……あんたもあんなヤツの事でウジウジ悩んでないで、さっさと能力使えるようになりなさいよね」

 鹿子にそう言われて和宮は視線を窓の外に泳がせた。石動 堅悟――。ヤツは何故、同じ英雄の仲間である俺に向かって剣を振った?もし、ヤツが悪魔の手に落ちるようなら、その時は――

 間遠和宮。『完全自動攻防』の長剣アンスウェラーを保有する歴戦の英雄はあの日受けた“傷”を思い出してそのみぞおちに手をかざした。


     

 翌日の放課後、鹿子は4階まで階段を上がると事務所のドアを開けて制服から普段着ている服に着替えた。

 自前の金髪をスプレーで黒く色を落ち着けると彼女のトレードマークとなっている赤いキャップを目深に被る。

 普段飲んでいるコーヒーの代わりに冷蔵庫から緑茶を取り出してそれをコップに注ぎ、一飲みすると鹿子はソファの上で両膝を手で叩いて立ち上がった。

「さ、お仕事行きますか」

 ――今回の調査対象は栗桐町の駅前で男漁りを繰り返していると噂されている結原紫苑。普段であれば年頃の女子高生がどんな遊びをしていても鹿子は気にはならないのだが、不特定多数の男と関わりを持とうとしているらしい彼女が誘惑を売り物にしている悪魔の毒牙にかかってしまう可能性が高いこと、それと…

 これは建前で断ったのだが…多額の報奨金を前にして普段あまりやる気の沸かない鹿子の探偵魂にも火が着いた。

 …菱村が帰った後、机の下に落ちた茶封筒の中身を覗いてみた。束になったソレを見て鹿子は思わず息を呑んだ。悪魔との死闘を終えて銀行口座を覗き込んでも見たことの無い大台3桁の封筒が3つ。今後の探偵稼業規模拡大の為にもなんとしても菱村グループの御曹司を自分の太客に丸め込みたい。

 次々と物欲が浮かんでは消え、また新しい空想がその次と浮かんだ。口から溢れ出るよだれを袖で拭うと駅前のショッピングモールのアーチ下で待ち構えていた和宮が鹿子に声を掛けてきた。

「よう、先に来てたぞ。悪魔調査の為とは言え、まさか女子高生の尾行とはな」

「なんでついて来たのよ。私だけで充分」

 追い越してアーチをくぐるとすぐ後ろを和宮がついて歩き出した。季節のイベントで華やかな取り付けがさせている街灯を眺めて和宮が言った。

「未成年の女子高生独りに悪魔退治を全任する訳にもいかんだろう…お前が探偵業をやっているとは驚いたぞ。英雄の先輩として今は手出しは出来んが口出しはさせてもらう。今回は俺も同行しよう。お前の仕事ぶりが見たい」

「もう、勝手にしなさいよ。その代わり足引っ張んないでよね」

 鹿子が口を膨らませると和宮が静かに微笑んだ。和宮は前回の闘いで心に迷いが生まれ、アーティファクトが使えない。その為もし悪魔との戦闘になったら鹿子独りでの闘いになる。

 しかしその心配は目先の金に気をとられた鹿子の頭からすっかり抜け落ちていた。別の悪魔退治に向かっていたリザに電話に訊ねられても鹿子は「大丈夫、私ひとりでもやってのける」と答えた。

 鹿子だって英雄である前にひとりの少女だったのだ。

「あれが今回のターゲットのシオンさん?」

 彼女の後方15メートルの位置から鹿子が訊ねると和宮が静かに頷いた。彼女は露店で買ったクレープを一口咥えると制服のスカートをひらつかせて人波を歩いて行く。

 細身で背が高いモデル体系で、写真で見た時よりずっと可愛い。小顔で真っ白な足がすらっと伸びて等身が高く、その名が示すように瞬きの度に花が咲く仕草でぱっと長い睫毛が上下する。

 何気なく和宮がシオンと鹿子を見比べるように見つめると「なによ」と鹿子がジト目で応える。

「おお、お前たちやってるか」

 後ろから声が聞こえて和宮と鹿子が立ち止まる。ごく一般的な特徴の無い服装に着替えた菱村がふたりの前に姿を現した。それを見て鹿子が鼻で笑うようにして再びシオンを追って歩き始めた。

「なんだ、結局アンタもあの子をツケにやって来たんじゃない」

「自分の手であの子の無罪を証明してやるのが理想だからな」

「ほう、金持ちにしては殊勝な事だ。それと…俺はお前たちより大分年上だからな。間遠さんと呼べよ?」

「待った」

 先頭を歩く鹿子が後ろで口争いを始めかけたふたりを制した。シオンは歩き食べていたクレープの紙を捨て、自販機で買ったパックの野菜ジュースのストローを咥え込んでベンチに腰を掛けた。スカートのポケットに指を伸ばして携帯電話を取り出そうとしているのが見て取れる。

「ここからは二手に分かれて彼女の観察。誰か人を呼ぶかもしれない」

「ああ、分かった」

 和宮が答えるとふたりは利き腕と反対側に巻いたデジタル時計のアプリを起動した。これでレシーバーのように離れていても通話が出来る。

 鹿子はシオンが座るベンチの正面の時計台の前で待ち合わせをする振りをし、和宮と菱村のふたりは彼女の左側から野球用品店のグローブを物色する素振りをしながら彼女の偵察の続きを始めた。

 携帯電話を注視しながらシオンが悩ましげに首を傾げてストローを咥えながら足を組み替えた。落ち着かない様子で和宮がグローブのポケットに拳を入れる。

「おい、スカートから太ももがあらわになって、尻が見えかけてるじゃないか。これを知ったら親御さんが悲しむぞ!」

 菱村が苦笑いを浮かべると和宮の時計から鹿子の声が届いた。

「ちなみに私の場所から下着が見えてるけど、生地と色、知りたい?」

「…」

「このスケベオヤジが!!」

 何も言い返せずに和宮が舌打ちを浮かべるとその音声を切った。

「俺が学生の時はあんな短い制服のスカートを着た生徒はいなかった…おい、誰か近づいてきたぞ」

 和宮の声で菱村が正面のシオンに視線を戻すとひとりの男が遠巻きに彼女に声を掛けている。彼はシオンと同じくらいの年齢でまだ春先だというのに派手な柄のタンクトップの上に黒い薄手のジャケットを羽織っただけの服装をした金髪の青年。和宮の時計から素っ頓狂な鹿子の声が届く。

「あ、あの子、男に話し掛けられてる」

「そんなモン、見れば分かる。シンイチだったか?おまえちょっとあの娘の恋人のフリをして助け出して来い」

「な、そんな」

 試すような和宮の視線を受けて菱村は強く頷いた。

「ああ、やってやるさ。どのみち、あの結原シオンの恋人になるのはこの俺なんだからな」

 そういい残すと菱村はシオンと彼女に声を掛けている不良青年の前に向かった。

「ちょっと、大丈夫なの?」

 時計から鹿子の声が聞こえて和宮はそれに答える。

「おそらくあの様子だとシオンはシンイチに好意を抱いているどころか、ほとんど彼女に認識されていない。ここで見せ場を作ってやるのが年長者としての思いやりってヤツだろ」

 菱村が近づいていくと青年が次第に声を荒げて周りの喧騒が張り詰めたものに変わる。ベンチの付近から次第に人が去っていき、離れていても会話が聞き取れる程になっていた。

「…この女、散々手間取らせやがって。今日と言う今日は覚悟しろよ?」

「なんだか険悪なムードね。てっきりナンパされてるのかと思ったら」

「お、おい!俺のか、彼女に何の用だ!」

「…あの馬鹿、声が震えているぞ」

「ああ、なんだおまえ」

 青年は腰履きしたカーゴパンツのポケットに親指を突っ込みながら菱村を振り返った。

「さあ、行こう」

「あ、ちょ、ちょっと」

 菱村は大きく振り向いた青年と入れ違いにシオンに向かってその手を掴むと体を起こしてその場から早足で歩き出した。それを見て「あいつ、やるじゃないか」と和宮が目を細めた。

「おい、待てよ。男喰ってまわってるクソビッチが。今日こそは悪行のオトシマエつけさせてやっからな!嫌だってんならこの場でオメーを始末する!」

 シオンにそう告げると青年の顔が割れるように崩れ、その身を岩のような厚い装甲が包み込み始めた。

「しまった、悪魔か!」

 和宮がその場を駆けだしてその異形と化した男の注意を引く。

「お前たちは早く逃げろ!」

「なんだぁ!?お前、あの女をかくまってんのか?どこまで俺を舐めやがるんだ、このクソったれ連中が!」

 灰色に硬化した姿でくぐもった声がその装甲の中から響く。

「どけよ!邪魔すんな!」

 鈍色に硬質化したその腕が振り上げられたその瞬間、その体は横から直撃した不可視の一撃によって時計台に叩き付けられた。すこし間を置いて辺りにカップルの悲鳴が響く。

「…さすがに一撃とはいかないか」

 アーティファクトを開放し、鉄槌を抱えた鹿子が起き上がる怪物を見て息を吐いた。

「ヤロー、不意打ちかよ、汚ねぇ、ぞっ!?」

 ドン、ガシャ、ドシャン、ズドン!続けざまに怪物に叩き付けられる鹿子のトールによる連撃。その衝撃を受け止める時計台が大きく音を立てて崩れ落ちると和宮は立ち止まって息を呑んだ。

「悪いけど、こっちの事情であまり長くは闘えないの。アンタがあの子について知ってること、話してもらう」

 口から湧き出た緑色の血を地面に吐き捨てると硬化した怪物が歩み寄る鹿子に向き直った。

「オマエラこそアイツの仲間なんじゃねーのか?良い年こいたおっさんが制服着たJKに骨抜きにされやがって。やっぱ変態的にはああいうのがソソるのかね。まぁオメーがどかねってんなら無理にでも突破させてもらう!」

 起き上がって怪物が右腕を振り上げるとトールの発動距離を取るために鹿子がバックステップ。「よし」勝利を確信して和宮が拳を握り締める。

 これまで何度も傍で見てきた鹿子が一番ハンマーを振りまわすのに適した距離。しかし、次の瞬間その握られた拳は予想外の一撃によって開かれることになる。


「やっほー、待ったー?」

「おっせーよ!あと一撃喰らってたら装甲解けてた!あぶねーあぶねー」

「クソッ、援軍か」

 背中に蹴りを受けてトールを解除した鹿子がフルフェイスヘルメットを被ったレザータイツの相手を見て口許を拭う。空中に浮かぶように地面を蹴り上げた女性らしいボディラインの敵は肥大した怪物の肩に腰掛けて鹿子を見下ろしている。

「これで2対2だ。お互い不意打ち一発ずつ、ということでフェアにいこうぜ?」

 予期せぬ相手の攻撃で形勢逆転。ダメージで片膝を折った鹿子に和宮が走り寄る。

「鹿子!」

「近づかないでよ!この機能不全者!」

「なっ!?」

「ふふっ」

「あー、男として一番傷つくコトバ、言われちまったかー。でもワリーけど俺達には関係ねー。道を譲ってもらうぜ」

「…誰が通すか」

 闘士としての誇りで鹿子は再びトールを具現化する。この不利な状況、如何に切り抜ける?鹿子はいつかリザとケルビムが非正規英雄の、デビルバスターズ入門として自分に下した課題を思い出していた。


     

「すごーい!フルコンボ!シンイチ君、音ゲー得意なんだ?」

「ま、まぁ。嗜む程度には…」

 ショッピングモール内のゲームセンターの入り口付近。悪漢から一緒に逃げた筈のシオンと何故かゲームをして遊ぶことになった菱村は色めいたシオンの言葉を受けて筐体の和太鼓を叩いていたバチを置いた。

「次はプリクラ撮りいこーよ」

 緊張で汗を拭う菱村にそう言い残すとシオンは奥に歩いていった。やれやれ、何でこんな事に…早く遠くに逃げないとさっきの金髪がやってきてしまうじゃないか。そんな事を思いながらも菱村は断りきれずにシオンが手招きする個室に向かう。

「フレームはこれでいいー?はい、笑ってー。もうちょっと近づいてよー」

 狭い空間でシオンが菱村の腕を組んできた。柔らかい自分に無い未知の感覚が体に触れる。あっ、おい待てよ。当たってるって。肘に全神経を集中してカメラのシャッター音に正面を向く。現像して取り出した写真を見てシオンが手帳を広げた。

「今、撮ったヤツも載っけとくね。アレ、前にシンイチ君と撮った事なかったっけ?」

 笑いながら問いかけるシオンを見て菱村は「あのなぁ」と頭を掻く。普段大人しめの彼女にこんな風にはしゃぐ一面があるとは思わなかった。と言うより彼女が他のクラスメイトと一緒に話している所を菱村はほとんど見たことがなかった。

 もしかしたらこの女、さっきの口ぶりから察するに知り合った男全員とこうやって写真を撮って遊んでいるのか?菱村の頭をひとつの疑念が頭をもたげてくる。この結原シオンは普通の女子高生と比べて男との距離感の詰め方が非常に早い。

 さっきのように個室で体を合わせてきたり…自分が好意を寄せている相手が誘われた男誰にでもついて行くような女であればダメだ。ましてやこの菱村真一の想い人となれば、相手としてそれなりの品格が伴わなければならない。対戦型のゲーム機を指差してぴょんぴょん跳ね回るシオンを見て菱村の猜疑心があふれ出した。

「俺が菱村グループの御曹司だからってそうやって一緒に遊ぼうとしてくれてるんだろ?確かに俺の実家は金持ちだ。だがそれを目的に誘われるのは良い気分はしないな」

「えっ、シンイチ君の家金持ちなの?だったらあのゲーム代も払ってもらうなんて思ったり~…冗談だってば、さ、次のゲームやろ?」

 その時、地面を揺らすような大きな振動が響き、店内にひび割れた音声でアナウンスが流れ出した。

「お、お客様にお知らせ致します。ただいま外で非常に大きな突風が吹いているため正面入り口を封鎖致します。警備員の方は直ちに現場に集まって…くだ…」

 アナウンスが途切れ途切れ、通路を武装した警備員複数が駆け抜けていく。それを見て他人事のようにシオンが取り出したリップを塗りながら眺めていた。

「なんだか大変な事になってるみたいだねー」

 菱村は腕組をしてこの状況を考える。異形の怪物と化した金髪男にあの探偵がやられたのか?だとしてもさっき、アナウンスでは突風が吹き荒れていると告げた…敵側に新たな能力を持つ助っ人が現れたと考えるのが普通だろう。

「こっちだ。俺の知り合いが経営している店がある」

 菱村はシオンの肩をつついて振り返った彼女を先導すると、社会見学として冬休みの間アルバイトをしていたモールで一番奥に間借りしたサブカル雑貨屋に訪れた。

 店の奥で背が高く恰幅の良い男が菱村を見て笑顔を見せた。

「おう、真一君じゃないか。世継ぎの方は順調?…そっちはもしかして彼女?」

「いや、まだそういう関係じゃない」

 早足で歩いてきた菱村が答えると店長の飯山が白い歯を見せて笑った。仕事中に聞いた話によるとこの若店長、空手の有段者で大学時代には国体にも出場経験があると語っていた。

 短い間ではあるが慣れない仕事ぶりで働かせてもらった恩義もある。腕にまるで覚えのない自分より、少しでも武道の嗜みのあるこの人なら怪物達からシオンを連れて逃げ出せる可能性が高いと踏んで菱村はシオンを連れてここへ来た。

「そうなんだ。外の方で何かトラブルがあったみたいだね。みんな避難を始めてるし」

「飯山さん、あなたに頼みたいことがあるんだ」

 会話を遮って菱村は飯山に懇願した。

「この状況じゃさすがに今日は店を経営するのは無理だ。ほら、モール自体から閉店のアナウンスが流れ始めてる。そこで…あそこで高価な皿を持ち下げしているあの子を飯山さんの車で安全な所まで送り届けて欲しい。
あなたにしか頼めないんだ。よろしく頼む」

 菱村が軽く頭を下げると店内の廊下を突風が吹きつけ、周りにあった雑貨が壁目がけて勢い良く飛び込んだ。めくれ上がったシオンのスカートを見て飯山を思わず唾を飲む。

「わっ、なんなの…最悪」

 割れた食器棚の破片を避けるように足を踏み出すシオンの肩を掴むと菱村は飯山を振り返った。

「相手はもうすぐ傍まで来てる!俺はあんた達が逃げる時間を稼ぐ。安心しろ結原、あの人について行けば大丈夫だ」

 乱れた髪の間からシオンの薄茶色の瞳が覗く。シオンは心配そうに一度だけ振り向くと開いた店の非常口を目指して歩いた。

「あいつをよろしく頼みます」

 向かい風の中、菱村が店を出てフロアを歩き出した。

「おう、任せとけ」

 すぐ外の駐車場からエンジンのかかる音が鳴り、飯山さんの声が風の合間から届く。

「それから真一」

「なんですか」

「ありがとよ」

 閉まる扉の奥で飯山さんが笑ったような気がした。どうしてだろう?振り返る暇も無く菱村が角を曲がるとふいに風が鳴り止んだ。

 菱村は呼吸を整えるとそこに静かに膝を追った。体を丸め、奥歯を強く噛んで体を震わせる。するとそこにヒールの音をカツン、カツンと響かせてフルフェイスヘルメットを被った妖しげな雰囲気を漂わせた女が角から姿を現した。

「ひ、ひぃぃぃいいい!!こ、殺さないでくれぇええ!!」

 菱村の叫び声を聞いてフルフェイスが視線を向ける。レザータイツの上にライダースジャケットを肌の露出なく着たその体は一般的な女性とほとんど変わりが無い。

「ひぃいい!や、やめてくれぇ!ど、どうか殺さないで!」

 片足を痛めた演技をしつつ、菱村は彼女との距離を測るように後ずさる。その姿をみてフルフェイスが呆れたように首を傾げて両手を広げた。

「一般人は殺さないよー。キミと同じくらいの女の子、見なかったー?」

「し、知らないっ!」

 濁りの無い声を出し、嘘をついている事を見抜かれないよう、相手に恐怖したように顔を覆って菱村は答える。付き合いきれない、と感じたフルフェイスが菱村のそばを再びヒールの音を立てて歩き始めた。

「ま、待って!」

「何よー。こっちは忙しいのー」

「さ、さっき強風で壁にぶつかった時に足を痛めてしまって!…どうやらここから動けそうにないんだ!入り口まで連れて行ってくれないかっ?」

「しょーもないわねー。入り口まで送ればいいんでしょー?怪我悪化しても悪く思わないでよー」

 彼女はダルそうにその場で立ち止まるとバレエタップのように爪先を弾ませた。

「特別に見せてあげる。私の魔法の靴『ティップ・タップ』」

 そう告げると辺りの大気が彼女の靴の周りに集まり、それがひとつの風として形を成した。彼女がその塊を蹴り上げるとふわり、と菱村の体が宙に浮いた。

「う、うわああああぁ!!」

 意図しない方角へ高速で動く自分の体に驚き思わず目を瞑る。気が付くと菱村の体はショッピングモールの入り口にあった。結原は、無事にあの金髪から逃げ切れただろうか。そしてあの探偵は…

 今は考えていても仕方が無い。追ってきた男の事、そして、君が放課後にこの辺りでしている事。全部明日、結原に学校で聞けば良い。菱村真一は今まで居たショッピングモールの看板を一度見上げるとそこから踵を返して自分の家の方を目指して歩いていった。


     

 次の日の昼休み、菱村は学校の屋上に繋がる階段を一段ずつ上っていた。クラスメイトに無視をされ教室に居場所が無いシオンは屋上で昼食を摂っているらしい。

 普段、屋上は危険だからと言って封鎖されてるのだがシオンの唯一の友人である秋風天音が朝早く職員室から屋上の鍵をくすねて来るらしく、シオンと同じく問題児扱いされている秋風に近づく生徒が居ないためこの件は黙認されている。

 菱村が屋上の重いドアを開けると反対側の手すりに腰かけてシオンが髪を風にそよがせていた。視線を遠くに伸ばして長い睫毛で瞬きをふたつ。手すりから落ちて今にも途切れてしまいそうな儚げな景色に思わず目を奪われていた。

「でさー、昨日知り合った男とはどうなったのー?雑貨屋の店長のギンノジョーだっけ?」

 自称“世界を救う大天使”と名乗る転校生ギャルの秋風がシートを敷いた床から立ち上がってスカートをはたきながらシオンに尋ねた。秋風から出た名前を聞いて菱村は壁の影に姿を潜めて会話を聞き逃さないよう意識を集中させる。

 たった今秋風の口から出たギンノジョーは飯山さんの名前だ。嫌な予感がして菱村の喉が引きあがる。俺は確かにあの人にシオンを逃がしてくれるように頼んだ。それなのに知り合った?どういう事だ?

 シオンは校庭を見下ろしながら表情ひとつ変えずに秋風に答えた。

「あー、そのギンノジョーなんだけど、車の中でなんか口説かれちゃってそのまま流れでホテル入っちゃって」

「流れで!入っちゃったんだ!?制服のままで!」

 秋風の言葉が菱村の頭をハンマーで殴ったように揺さぶった。

「うん。で、服脱いでシャワー入るじゃん。そんで私だけ食われるのもなんだからゴニョゴニョゴニョ」

「あー、そのごにょごにょの部分、詳しく聞きたい!」

「…やめろ。俺はそれ以上聞きたくない」

 菱村はその場に居た堪れない気分になりドアを開けて屋上の階段を下り始めた。視線がぐにゃりと歪み始めて危うく足を踏み外しそうになる。俺はシオンを、あの子を助けてくれと頼んだ。それなのにあの店長、なんてことをしてくれたんだ。

 いや、それ以前になぜ俺はあの後シオンの安否を確かめずに家に帰った?化物女に一芝居打っただけで満足してしまった。

 シオンが学校中から売女だと呼ばれているのを忘れていた。

 いや、俺は信じていたかったんだ。君の事を。

 体が火照って呼吸が苦しくなる。菱村は結原シオンの事を汚れた俗世とはかけ離れた孤独でも路傍に力強く咲く花のような女性だと思っていた。しっかりと自分の意思を持ち、数多の誘惑を断ち、毅然とした態度でまっすぐな道を歩いていく。そんな強い光を放つ一輪の花。

 でも、実際のあの子は…理想と現実のギャップに耐え切れずに菱村は午後の授業を心あらずと受け流していた。


「おう、無事だったかシンイチ。こんな事になる可能性があるんだったら連絡先を交換しておくんだったな」

 校門の影から背の高い痩身の男が姿を現した。面倒そうに首を反対側に曲げて菱村が視線を外す。

「ああ、あんたか」

 立ち止まらずに歩き出した菱村の後を和宮が追ってついて来た。

「お前が仕事を依頼した鹿子が悪魔に倒されてな。あいつを助け出す交換条件として結原シオンを探させる為の進路を譲った。モールの近くにフルフェイスを被った女が来ただろう。どうやって潜り抜けた?」

「なんだ失敗したのか。依頼者との契約も守れない。その上一般市民も危険に巻き込んで何が悪魔担当の探偵だ。大の大人が小娘ひとりに翻弄されて情けないと思わないのか」

「おい、待てよ。今後のことを踏まえて少し話をしよう。お前が足を突っ込んでいる世界はお前が想像するより危険だ」

「話す事は無い。あの女の事なら、勝手に捜索を続けろ。もう俺には関係ない」

「おい!」

 歩くスピードを速めて住宅街の路地を周って和宮を振り払う。想像とは違う汚れた現実に目を瞑りたかった。もう何も考えたくない。独りにして欲しかった。

「――いい加減に」

 後ろから轟く怒声に思わず振り返る。

「――しろぉぉぉおおおおお!」

「!?」

 ぐっと両肩を掴まれて、近くにあったベンチに体を沈められる。和宮が目を見開いて菱村に言葉を投げつけた。

「関係ない、だと?自分と同い年の女を危険に晒してふざけるなよ!……すまん、高校生相手に少し言い過ぎた。話してくれないか。どうして俺達にシオンの捜索を頼んだその真意を」

「ああ、もう、わかった。話すよ間遠さん」

 観念して息を吐き出すと道路を挟んだ歩道を歩く園児を眺めながら菱村は話し始めた。結原シオンとは高校入学時に同じクラスで凛としたその横顔を見てすぐに彼女に一目惚れした事。

 大企業の息子である自分と同じようにあらぬ疑惑を持ちかけられ孤立してもそれにめげない彼女にシンパシーを感じていた事。日夜不特定多数の男に声を掛けられるというシオンを陰ながら守ってやろうと思ったこと。

 そうすればあの子に自分を振り向いてもらえると思ったこと。彼女は他人が言うような売春をするような少女ではなく、自分が想像するような真綿のように清純な女子高生で、そしてそれが全て自分の思い込みだった事。

 とうとうと語る菱村の話を和宮は自販機で買った無糖缶コーヒーを飲みながら聞いていた。話が途切れると菱村は膝の上で手を組んでそれに額を乗せて声を震わせて呻いた。

「俺は、あの子が、何を考えているか分かんなくなっちまった」

 和宮は飲み終えた缶コーヒーを潰すと「なるほど、そういう事だったのか」と優しげな目をして頷いた。菱村がシオンに抱いていた淡い恋心。その想いに間違いは無いはずだ。自らの経験則ではなく、和宮は直感的に菱村に告げた。

「お前の話を聞く限り、シオンは周りが言うような、知り合った男、誰とでも体を重ねるような女ではないと俺は思うぞ」

 菱村が頭を上げた。

「とにかくあの子とちゃんと話して見る事だ。ふたりで話したのは昨日が始めてだったんだろ?そしてこんなまどろっこしいやり方じゃなくておまえ自身の気持ちをシオンに伝えてこい。俺は鹿子の容態を見てくる。病院がこの辺りだったはずだ」

 缶をゴミ箱に流し込むと和宮はその場から歩き出した。「確かに間遠さん、あんたの言うとおりだ」そう呟いて菱村はベンチから立ち上がると学校側を目指して歩き出した。

 シオンはまだ学校の近くにいる筈だ。知らない間にずいぶん遠くの方へ来てしまったな。街の中心街へのショートカットに開発中のビル郡のあたりをすり抜ける。この日は国が推し進める“プレミアムフライデー”で辺りに従業員は一人もおらず、電源が切られた重機が隅に置かれていた。

 ふいに自分を呼ぶ声が後ろから聞こえた。

「…シンイチ君」

 細い声に振り返ると、その場でシオンが立ち止まった。制服の袖やスカートの裾が破れて出血したと思われる右膝をリボンできつく縛ってある。呼吸を整えるシオンを見て菱村が声を掛ける。

「昨日のヤツに襲われてるのか?」

 シオンが頷くと辺りを地面を鈍器で叩きつけたような大音声が響く。

「おらァ!どこ行ったあの女ァ!見つけ次第スクラップにしてやるぜェー!」

 聞き覚えのある頭の悪そうな声に菱村は逃げ込めそうな場所を探す。シオンの長い睫毛が砂埃を払うように短く揺れる。

「助けてくれるの?私の事」

「何言ってる。当たり前だろ…こっちだ。あいつの体だったらここに来るには時間がかかる」

「うん、ありがとう。シンイチ君」

 伸ばされた菱村の手を取るとふたりは叩きつける音とは逆方向の工事中の狭い路地の方へ歩き出した。


     

 地を這うような衝撃。大気を震わせて魔獣の咆哮が背中の産毛を逆立てる。両腕の中のシオンは苦しそうに顔を歪めて荒い呼吸を繰り返している。菱村は汗をほとばせながら一瞬だけ後ろを振り返る。

 アメコミのヴィランを彷彿させる硬質化させた体をゴムまりのように弾ませながら怒声を発して金髪の男が近づいてくる。

「逃げたって無駄だぜェー!さっさとその女をコッチにわたしなァー!」

 菱村は正面を向き直るとシオンを抱きかかえたまま金網を開け、工事関係者用の螺旋階段を駆け上がり始めた。この細さの道なら膨れ上がったあの体では入っては来れない。

 男は階段の前で立ち止まると駆け上がる菱村の姿を金網越しに眺めながら路上に唾を吐いた。

「はっ、いいねぇ。ワルモンから姫を助けるヒーロー気取りかよ」

 男はぐるんぐるん、と二度腕を回すと岩のように硬く握られた拳を目の前の階段に叩き付けた。

 辺りに地鳴りが響き階段が中心からぐにゃり、と崩れ落ちた。

「う、うわぁああああ!!」

 目の前の段差が消え、菱村の体が地上15メートルの高さから落下する。思わず目を瞑り、頭をかばって瓦礫の上に身をゆだねる。すると尻の辺りに柔らかいクッションのような反動があり、そのバウンドで無傷のまま菱村はその場を立ち上がった。

「結原!」

 声を出して見回すと少し離れた位置でシオンが瓦礫の中から立ち上がった。

 男が硬質化した顔の装甲を解いて呆れたように二人を見て手を広げた。

「おいおい、そいつをかくまうなんてオマエ正気か?その女が何をしてるか理解してんの?オマエ」

 訊ねられて菱村はシオンをかばう様に前に立つ。ああ、分かってる。結原シオンは不特定多数の男とすぐに関係を持ってしまうどうしようもない女だ。でもそんな彼女が自分はとても愛おしい。

 この男とシオンの間にどんな痴情のもつれがあったのかは知らない。今、シオンを守ってやらないと彼女があの化物に息の根を止められてしまう。惚れた女一人守ることが出来ない。そんな馬鹿げた事実をこの菱村真一が認められる訳が無い。

「チッ、オマエ見たところ一般人だな!オマエみたいなちっぽけな正義心を振りかざすヤツが一番ムカつくんだよ!そこをどけよ!」

 目の前の化物は骨組みの鉄塔を持ち上げるとその落下線上をシオンの頭に合わせた。「まずい、逃げろ!」菱村が振り返るその瞬間、顔のすぐ横を肌色の蛇のような意思を持った生き物が体を伸ばして怪物目がけて飛び込んでいった。

 その生き物は怪物の足元をかすめるとアスファルトを大きく抉り、体をしならせてその宿主の元へと戻るように伸縮した。

「えっ、結原」

「い、痛ッてぇー!右足4本持ってかれたぁー!」

 目の前の怪物の装甲が一瞬にして全て解かれ、スポーツ用のアンダーウェア上下を着た金髪の男がその場で膝をついて倒れこんだ。菱村はシオンの姿を見て血の気が引いた。

 顔の右側がもぞもぞと揺れ動き、頬の一部がカタツムリの目のように伸びている。そしてそれが次第に形を変え、シオンが微笑むとその口許が怪談の口裂け女のように三日月に伸びた。

 シオンは右手に持った、男からその新たな口で食いちぎった足の指を転がしながら地面を転げまわる男を哀れみを持った目で見下ろした。

「右足4本?馬鹿じゃないの。右足の指4本でしょ。タコかよ」

「て、てめぇ!今馬鹿って言いやがったな。返せよ俺の足ぃ!」

 懇願する男の言葉に耳を貸さずシオンはその指をラムネ菓子を食べる子供のように口へ放り込んだ。軟骨をかじるような鈍い音が響き、最後にケホッともうひとつの口が呑みこんだ空気を吐いた。

「臭ッ」

「いや、臭くはねぇよ!?」

 男が目を見開いて叫ぶと菱村は再びゆっくりとシオンを振り返った。

「結原おまえ…」

 シオンはすっきりとした顔で菱村を見た。その瞳には悪戯がばれた時の子供のような茶目っ気と今まで嘘を突き通してきた事に対しての後ろ目たさがあった。

「ごめんね。シンイチ君。私、どうやら人間じゃないみたい」

「そこから離れろ、シンイチ!」

 遠くから駆け寄ってきた和宮の声が聞こえる。和宮は立ち止まると異形の姿を見せたシオンを見て両肩を揺らした。

「やはりそうか。ティンダロス。人喰いの悪魔だ」


――先日、マジックミラー号に姿を顕現させたケルビムの車体を磨いている最中に彼が機嫌良く話していた内容の一部を和宮は思い出した。

「悪魔界に天界、どっちも現世に干渉しないようにはしてはいるんやけど、ごくごくまれに悪魔、もしくは天使の性質を持った人間が現世に生まれてくるんや。そいつらの一人は教科書に載るような聖人と呼ばれる人間になったり、歴史を揺るがすような犯罪者になったりもする。
天界での定例会からの公表によると人里から離れて穏かに暮らそうとするヤツがほとんどらしいがな。あひっ!そこ触らんといてな、大事な所やから!…で、何やったっけ?ああ、まー、実態は知らんがそういった特性を持った人間はどの時代に生まれても生きにくいんやないやろうか」

 そのひとつが対面する結原シオンの体に取り憑いて生まれた人喰いのティンダロス。一説によるとその生命を維持するために人間の魂を定期的に摂取する必要がある悪魔の一種で、宿主が生き続ける限りその者を介して他者を喰らい続けると言い伝えられている。

「あ、悪魔だと。冗談だろ。この男の方が悪魔と呼ぶに相応しいじゃないか」

「おいコラ!見た目で判断すんな!俺は悪魔じゃねぇ!」

 菱村が振り返ると男が立ち上がって腕を交差するポーズを取った。肘から先に金属質の鉄板が延び、アーティファクトとしての光り輝く手甲を具現化した。

「メインウェポンはこの『コモン・アンコモン』。『硬質化』は悪魔探索用の能力だ。なんせ現役高校生ヒーローが顔を知られちゃマズいからな」

「なんだと。だとしたらお前は」

 驚いた和宮を見て男はニヒルな笑みを浮かべて白い歯を見せた。

「俺の名は今鐘キョータ。オマエラと同じ、非正規英雄だ」

「キョータ!」

 名乗りを挙げた少年の背中に後方から女性の声が飛んだ。フルフェイスを被った彼の連れの少女と鹿子が和宮の元へ合流した。

「鹿子、怪我は大丈夫なのか?」

 和宮が尋ねると鹿子がいつもの後ろで留めた金髪を撫でながら赤いキャップを被り直した。

「話は来る途中でこの子から全部聞いた。たく、同業者だったら始めに名乗りなさいよ。馬鹿じゃないの」

「な、オメーまで馬鹿って言いやがって…!くっ」

 激痛で顔を歪めながらキョータがその場で膝を追った。それを見てフルフェイスの少女がマスクの口許に手を置いた。

「あ、キョータあいつ怪我してんじゃん。やばっ」

 英雄同士を合流させんとシオンの顔の片側が膨らんでその標的がキョータ目がけて一気に伸びた。

「急いで!『ティップ・タップ』!」

 少女が肩膝を上がると彼女の足に透明のピンヒールが具現化され、そのまま足を振り回すと周りの空気が削り取られたようにキョータの体がその場から浮かび上がり、瞬時に鹿子側に引き寄せられた。

 シオンの一撃が空を切って壁に打ち当たり、それを戻している間に和宮がキョータの体を引き上げた。

「ここからは私とあの子に任せて」

 男ふたりにそう告げると鹿子は駆けて来た方向に消えていった。敵は悪魔一体。鹿子が得意とする“不意打ち”での雷神の鉄槌を浴びせるつもりだ。フルフェイスの少女はシオンの前へと歩み出すとその目窓を指で押し開けた。

「やっぱりシオンは悪魔だったんだー。残念だけど、こういう形でサヨナラしたくはなかったなー」

 少女の顔を見てシオンが明らかな動揺を見せた。「あいつは…」シオンのすぐ傍にいた菱村が学校の屋上でシオンと一緒に弁当箱をつつくギャルの姿を思い浮かべた。

「私、秋風天音は大気を操る魔法の靴、『ティップ・タップ』を神聖武具を持つ非正規英雄!日夜街に繰り出して人肉を喰い漁る猟犬ティンダロス、今日こそこの場で始末させてもらう!」

「そっか、天音ちゃんはそっち側だったんだ」

 口上を述べ挙げてポーズを取る天音を見てシオンは寂しげに呟いた。

「天音ちゃん、天音ちゃんだけは友達だと思ってた」

 唯一の友を失って悲しみの表情を見せたシオンを菱村は心が痛む思いで見つめていた。

「結原が悪魔であいつらが英雄?笑わせるなよ」

 声を震わせて菱村がシオンをかばう様に彼女の前に出た。それを見て和宮が怒声に近い声を張る。

「おい、何をやってるシンイチ!さっさとこっちに来い!」

 その姿を見てあざ笑う様に菱村は両腕を広げた。お前たちが持ち寄ったその物騒な武器はなんだ?結原を殺す?ふざけるなよ。武装集団が女子高生に一人に寄って集りやがって。俺はとんでもない勘違いをしていた。疑ってすまない。シオンは俺が思う様なたった一人で困難に立ち向かう凛とした女子高生だった!

「ありがとうシンイチ君」

 前に立つ菱村の背中にシオンの言葉が向けられた。その短い言葉は菱村にとって身悶えする様な背徳的な甘い響きを持っていた。シオンが言葉を続ける。

「気持ちはとても嬉しい。でもね、ティンダロスが普通の女の子として生きるにはすっごいお腹が減るんだよ。子供の頃は暗殺稼業の会社に拾われて遺体を“隠す”仕事を手伝ってた。
仕事のみんなからは掃除屋スカベンジャーなんて呼ばれてたり。中学二年の時、仕事で失敗してアシが着いちゃって追ってきた人間、企業の人間皆全部食べちゃった。美味しかったなー。初めて人生でお腹がいっぱいになった。
その時気付いたの。今の私は成長期なんだって。生命を維持するには前よりもっとたくさん人間を食べる必要があってね。で、私の体目当てで近づいてくるどうしょーもない男なら食べちゃってもいいかなーって」

 まるで夕食の献立を何にするかぐらい何気ない会話をするトーンでシオンが菱村に内情を語った。

「でもやっぱそういう下心がある男は美味しくない」

 シオンの話を聞いて負傷したキョータが身を震わせて和宮が異形の悪魔と化した少女の姿を見据えた。

「それがこの街に広がっている周期的に街へ訪れる人喰い悪魔事件の真相か」

「まー、周期的ってか最近はほぼ毎日だけど。でもまぁクズい大人を間引けて私もお腹膨れるし、なんてゆうか世の中的にWiN-WiNじゃない?」

「罪悪感ナシかよ、クソっ!」

 右足を齧られたキョータが顔を青白くして右膝を拳で打った。シオンのもう一つの顔による一撃は先が少し触れただけでも対象物を抉り取るとてつもない威力を誇っている。

 身を持ってその一撃を体現したキョータが「気をつけろよ!アマネ!あの顔を近づけるんじゃねぇぞ!」と吼える。フルフェイスの目窓を閉じてアマネが横立ちで親指を立てるとシオンのもうひとつの顔がアメーバのようにその体積を膨らませた。

「さて、長々と語っちゃったし、そろそろやろっか。もう一人もそろそろ死角とやらに周った頃合だし…行くよ!」

 シオンがその場から踏み出すと、アマネが地面を蹴り上げて目の前の大気を手前に引き寄せた。その刹那、シオンは前に立っていた菱村の背中を蹴り上げて彼の体をその大気の中央に投げ込んだ。

 一瞬の静寂の後、アマネのレザータイツの一部が裂かれ、わき腹が抉られた彼女の体は大量の出血をばら撒いて地面に伏した。

「やっぱ、そのタイミングで待ってたかー。うん?」

 不意打ちが破れて側面から鹿子が叫び声を挙げながらトールを振りかざしてその場に現れた。和宮の脳裏に突発的に鹿子が倒されるビジョンが浮かぶ。

「無茶だ、遠すぎる」和宮の見立てが当たり、鹿子のトールが当たるより先にシオンの一撃がみぞおちに跳ね上がった。“喰べる”事を目的としない“殴打”としての新しい一撃。

 その速度はトールの持ち手を伸ばして遠距離からでも当てられるように改良した鹿子の想像の先を超えた。崩れ落ちる鹿子の姿を見てシオンは小さく笑った。

―地面を叩いて風おこしするブーツに力任せで叩きつけるハンマー。どれも私からすれば付け焼刃に過ぎないよ。私の“顔”はあなた達風に言うと生まれ持っての神聖武具なんだから。

 私はティンダロス。生まれ憑いての悪魔。自分の武器の使い方は一番良く知ってる。伸びる顔。そして女子高生としてのイマ限定の男から見てグッと来る、性的にソソる身体。

 人を喰うということはすなわち人の命を絶つという事。私が人間である限り、もちろん悪いことだって理解してる。それでも、私はこの世界で生きていかなくちゃいけないんだ。

「やったな!結原…えっ」

 菱村が拳を握りかけて和宮に全滅の二文字がよぎった瞬間、シオンの伸びた方の顔が杭で打たれたように壁に叩きつけられた。

「あれ?援軍?そんなの聞いてないし」

 シオンが横目で自らの頬を貫いた物質を確認する。「何コレ、槍?」見覚えのある鋭槍を見て鹿子は笑みを浮かべてゆっくりとその場を立ち上がった。

「女の子ひとりにずいぶん手こずっているようね」

「リザ!」

 銀髪にツートンカラーのレーシングスーツを纏った英雄を見てキョータとアマネのふたりが息を呑む。

「すげぇ。なんだあの槍」

「不意を突いたとはいえ、一撃で」

「あれがティンダロス?」

 リザが短く訊ねると和宮が声を出さずに頷いた。背中から大剣ジークフリードを具現化すると立ち上がった菱村が歩み寄るリザに声を張った。

「待った!殺さないでくれ!彼女は悪い悪魔じゃない!」

「待たない。この子が何をしたか全部見ていた筈でしょう?」

 リザは菱村を振り向く事無く、一瞬の間にジークフリートを振るうとシオンの四肢が細切れに切り刻まれた。

「――っっ!!」

「結原ぁーー!!」

 声を出す間もなく血を噴き出してその場に崩れ落ちたシオンの元へ菱村が駆け寄る。

 なんで、どうしてこんな事になった?彼女はごく普通の、ただの女子高生だったはずだ。どうしてこんな形で殺されなければならなかった?

 シオンの身体を抱き留めると彼女の細い身体はもう事切れていた。見かねたリザがふたりに声を漏らした。

「…悪魔と人間は共存は不可能。貴方はこの子の恋人?貴方には悪いことをしたと思ってる。でもいつか貴方もこのティンダロスの標的にさせていたかもしれない」

 和宮が菱村の傍に近づいて言葉を選ぶように彼に告げた。

「想い人が悪魔だったとはな。辛いだろうが、受け入れてくれ」

「シオン…」

 菱村は文字通りの憑き物が落ちた彼女の右手を強く握り、その身体を強く抱き寄せた。市街地から離れた誰もいないはずのこのビル郡にひとりの少年の慟哭が刻まれた……


――数週間後、川沿いの鹿子の探偵事務所。部屋の隅に置かれたデスクに座る鹿子がパソコンのキーボードを叩く音が響く。

「何よ難しい顔をして」

 リザが鹿子が注視するウィンドウを横から眺めた。新聞社のWEB記者が書いた記事によると、数週間前から突然失踪する成人男性の数が急激に減り、街を騒がせた人喰いの悪魔の噂は収束したと語っている。

「うーん、なんか釈然としないって思って」

 鹿子が眉を曲げて唇を突き出した。リザはそんな鹿子を見て温かく微笑んで見せる。

「鹿子が抱えている事件がこんなにハードなものだったなんて知らなかったもの。もっと詳しく教えてくれれば良かったのに。でも貴方が無事で居てくれて私はそれで嬉しいわ」

「なんか探偵魂に火が着いちゃって」

「良いトコ無しで格好つけるなよ。結局やる気になった要因は金、だろ?」

「うっさい。あんたこそアーティファクト、使えなかったくせに」

 キーボードを叩きながら抑揚の無い声で鹿子が和宮に言葉を返した。「まあまあ」とふたりを仲裁するリザに和宮が顔を向けた。

「アイツの居場所については何か掴めたか?」

 和宮が訊ねるとリゼは含みのある笑顔を浮かべた。それを見て鹿子がロリポップの包みを開く。

「まー、あいつが簡単にカイザーに殺されたとは思えないもんねー。リザの元旦那、有望株には甘々だし」

「付近に潜伏していると考えるのが普通だろう。アイツは確か定職には就いていなかったよな。所持金が無くなったら働くなり、悪魔狩りなりして動き始める筈だ」

「向こうからのアクション待ちね。その件はしばらく泳がせておくって事で…お客さんよ」

 リザが呼びかけると階段から騒々しく口喧嘩をしながら上ってくる声が聞こえる。ドアが激しく開けられるとその中から明るい色の金髪が姿を現した。

「よっ!川沿い探偵事務所の先輩ガタ!あれから元気にやってます?」

「ちょっと、キョータ!入り口で止まんないでよ!ほら、中入った!」

 右腕で突いていた松葉杖を振り上げて挨拶をしたキョータをハーレイクインのように髪を頭の上側でふたつに結んだ天音が彼の背中を押してふたりが事務所に入ってきた。

「…どうしてここが分かったのよ?」

「こいつを途中で見かけて連れて来たんでさ」

 鹿子が訊ねるとキョータが松葉杖で入り口の方を指し示した。

「そうか、今日が告別式だったな」

 和宮が見上げると菱村は初めてここに来たときと同じような自信に満ちた顔で部屋のメンツを見回した。

「相変わらず辛気臭い事務所だな。金は渡した筈だが」

 むっとした鹿子を見て場を和ませようとしてキョータが菱村の背中を叩いた。

「まー、こいつも彼女を失ったショックで傷ついてるもんで!気にすんな。次行けよ、次!俺なんて物心つき始めた頃から天音にフラれてんだからよ!」

「それは災難だな。あまり触るな。馬鹿が感染うつる」

「ああん!?」

「これ、キョータ!先輩達の前、前ー。やめとけやめとけー」

 憤るキョータとなだめる天音を見て和宮が彼らに声を向けた。

「フン、シンイチが立ち直ったようで何よりだ。で、お前たちは何しに来た?」

「で、あれから皆さんの事をアレコレ調べたんですがね」

「わたし達を皆さんの仲間に入れてもらおうと思って!」

 色めき立つふたりを見て「おいおい」と言う風に和宮がリザに視線を向けた。鹿子は「まー、当然の流れなんじゃないの」という表情でロリポップを舐めていた。

 天音がリザに向かってがばっと大きく頭を下げた。

「リザさん!いや、リザ姉貴と呼ばせて頂きまっす!悪魔を射止めるとするクールな佇まいにあの剣さばき、自分、痺れたっす!これはお近づきの証しに…千葉銘菓こいくちぴーなっつでっす!」

「ワァオ!コレはお酒のお供に合いそうね!でもそれとデビルバスターズに入れるかどうかは別よ。ケルビム様に相談しなくちゃ」

「ケルビム様?」

「今回の結原シオンの死因は何だ?」

 きょとんとした天音とキョータに和宮が訊ねた。

「確かー、重機の先端部分の落下による全身を強打しての死亡だったはずっすよ?」

「あー、それで未来ある女子高生の命を奪った重大な過失だって、工事会社が対応に追われてるってテレビで話してた!」

「その架空の工事会社を創りあげたのがケルビム様なのよ」

「すっげー!ケルビム様、超すっげー!」

「じゃあ、マスコミは存在しない会社に電話掛けたり、押しかけたりしてるって訳?超すごくなーい?」

「…本当に凄いな。上位天使様は何でもアリかよ」

 盛り上がるふたりを見て和宮が腕を組んだ。所在なげに立っていた菱村が歩き出してドアノブに手をかけた。

「では俺はこの辺りで失礼する。もうお前たちとは会うことはないと思う。達者でな」

「あ、おう」

「ちょっとキョータ、呼び止めちゃダメだって」

 近くに居たキョータと天音が声を掛けるのをためらうとドアを開けて菱村は取り付けの悪い手すりを握りながらそのまま階段を下りた。鹿子が食べ終わったロリポップの棒と袋に包んで足元のゴミ箱に投げ入れた。

「…なによアイツ。今生の別れみたいな顔して出てってさ」

「折角金づるになりそうな客だっただけに残念だったな」

「…あんたそれ本気で言ってんの?リザ、年上を使うようで悪いんだけど、コーヒーの粉取ってくれる?」

「俺の方が近い。俺が取ろう」

「…あっ!やっちまいましたねー間遠のダンナ!」

「もう、何やってんのよ!この馬鹿!機能不全者!……」


 菱村が階段を下り切る頃には4階の賑やかな声はほとんど途切れていた。1階で純喫茶を営む老夫婦が菱村の顔を見上げると彼は小さくお辞儀をしてその場から歩き出した。

 交差点を超えて河川敷へ向かう途中、菱村は左手の爪が黒く変色した中指に向かって声を掛けた。

「もう大丈夫、あいつらはもう居ない」

 優しく語り掛けるような菱村の声を聞くと目を覚ましたように中指がぐにょぐにょと動き始めて指が反転したように指紋が浮かび上がるとそれが女の子の顔になった。

「これでいつも一緒だ。シオン」


――リザに身体を切り刻まれた今際の際、シオンの中に住むティンダロスは右手に触れた菱村の身体を新たな媒体として取り憑こうと試みた。

 しかし転身には大きなエネルギーを使わねばならず、その上生命維持も困難なほどの大きなダメージを追っていた。一度は諦めて悪魔としての生涯を終えようとしたその時。

 菱村がシオンの手を強く握った。想い人であるシオンの人生を継承し、彼女の人生に意味があったと証明したい。彼もまた人間として生まれ、悪魔との共存を求めたそのひとりであった。


「俺は君を忘れない」


 潮風が混じる川沿いを歩きながら菱村は左手の背を右手の腹でいとおしげに撫でた。頑張ったんだな、シオン。今の俺は腹が減って仕方が無い。俺の悪魔としての人生はそう遠くない未来に終わりを告げるだろう。

 夕暮れが街を染め上げて宵闇が街に迫る頃、県境の河川敷の土手に一輪の青い花が揺れていた。




第十三話 完


       

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