第十四話 超科学的な机上の空論 (宮城毒素)

 いくら書いても。
 書いても書いても。
 書いても書いても書いても書いても――。
 通らない。
 単純に……ちっとも面白くないだとか。ただの嘘はよくないだとか。そもそもオカルトなんかじゃないだとか。
 どれだけ書いても駄目出しは減らず、没にされた企画書はいよいよ事務机の上に小高い山を築き始めた。今日は朝から翼ちゃんの機嫌も悪く「紙資源の無駄遣いをするな」といびられる始末で。
 決して遊んでいるわけじゃあないんだけれども。
 そもそも俺は――昔から国語の成績があまりよくなかったわけで。作文を書いても日本語がおかしいと教師から何度も何度も書き直しを要求されていたようなガキだったし、周りの奴らからも文才がないと散々馬鹿にされてきたわけで。
 それに加えて、非正規英雄になる前から、俺にはオカルトに対する興味なんかこれっぽっちだってありはしなかった。未確認生物も未確認飛行物体も全部が全部フェイクか勘違いだと確信していたし、馬鹿な奴らがよく語る――永遠のロマンなんてものにも、ただの少しも共感し得ることはなかったから。
 オカルト雑誌なんかを読み耽ってる連中がどんな話に興味を惹かれるかなんて、こんな根腐れ脳みそで考えたってちっともさっぱり浮かびやしない。
 流石の俺もへこたれるし、ふて腐れてくる。
 机の上に両脚を投げ出してみたりして、すっころびそうな程に古い椅子を軋ませ薄汚れた天井をぼんやりと仰ぐ。
 ――阿武さんも阿武さんだよ。
 優しい――というか、抜けているというか、緩いように見えて、適当に書いた企画書はすぐにそうと見抜いて有無を言わさず突き返してくる。
 ……色々と言い訳をさせてもらいたい、と頭を抱える。釈明したい。弁明をしたい。不真面目にやってるわけじゃない。嫌々やらされていると思っているわけでもない。
 ただ、俺には……こんなホワイトカラーみたいな仕事は、何というか、……性に合わないんじゃないかって。
 そんなことを、思ってしまっているだけで。
 長年の自堕落で染みついてしまった苦手意識ってやつが、多分その根幹にあるんだろうけど。
 つい考えてしまうのだ。
 入社からもう一週間以上経っているっていうのに、ひとつも原稿をあげていない俺に、阿武さんは――失望しているんじゃないだろうか。結局、俺が非正規でいるのは、燻っているわけでも若気の至りでそうなっているわけでもなくて、なるべくしてそうなっているんじゃないかって。そう……納得されてしまったんじゃないかって。
 不安になる。心が焦る。考えすぎとわかっていても、苛立ちが、心の弱さを構成する未知なる細胞が、一度舞い上がった砂埃のように、うっすらとゆっくりと降り積もっていくのを感じている。
 ふーっと息を吐き出した。
 散漫たる心。脆弱で卑屈たるこの精神。
 求めるは強い気持ち。誰に何を言われてもへこたれない心。
 集中力を欲した。それを求めて、目を瞑った。
 しかし、悟りは開けず。聞こえてくるのは、三〇分ほど前からずっとそうだったが、きゃんきゃんと喚く佐奈の声だけ。
 俺と同じように――提出した企画書が没にされたらしい。それが納得いかないようで、阿武さんに向かってお得意のマシンガントークを機銃掃射の如く乱れ撃ち、執拗なまでに食い下がっているのだ。
 声のボリュームが増す。鬱陶しさのあまりに目を開くと、煙草を求めて懐をさぐるが、いつの間にか隣に立っていた翼ちゃんが「屋内全面禁煙」の張り紙を無言で指さしたのを見て、俺は完全降伏、両手を挙げて無抵抗の意思を示す。
 吐きそうなほどの鬱屈。絶え間ない佐奈のわめき声。禁煙化の進む社会。妙にぴりついて、埃っぽい空気。
 換気が必要だろと思って窓を見遣ると、アルミのブラインドが音も立てず風に揺れていて。
「――――」
 二度目の終身刑を食らったような気分で目許を覆う。
 どうやら換気が必要なのは俺の頭の方だったらしい。
 伸びすぎた前髪をかきあげて、ふらりと立ち上がる。そして、死にそうな顔の阿武さんに対していつまでもうるさく捲し立てる佐奈の肩をそっと叩く。
「……どうした? あんまり阿武さんを困らせるなよ」
「あ、堅悟くん。……え? 私、人を困らせるようなこと、したことないのが自慢なんだけど!」
「それはそれは」
 面白い冗談だ。
 そんなことよりも、と詳しく話を聞いてみると、どうやら――却下された企画書の内容、というか主題が……とある連続殺人事件の特集であったようで、
「……オカルト、関係なくね」
 俺も同じような駄目出しを食らった。
 そりゃあ却下だろうと納得しかけたが、
「問題はそこじゃなくてね」と阿武さん。
 事件が起きたのは先月と先々月――それぞれ一件で被害者の数は合わせて二人。使われた凶器が同じであることから同一犯であることが疑われているが警察は未だその足取りを掴むことが出来ておらず捜査は早くも暗礁に乗り上げている――とどこかの雑誌に書いてあったそうだ。
 オカルティックなのは、どちらの犯行も会社帰りのサラリーマンたちで賑わう歓楽街――その衆人環視のもとで行われたにも拘わらず、正確な目撃証言を何一つ得られていないという点にある。
 純朴そうな少年がやったという声もあれば、魔女のような老婆がやったという話もあって、どの証言も明白すぎるくらいに食い違っており、警察の捜査が難航しているのもそこら辺の不可思議な現象に理由があるのだとか。
 確かに――面白そうな話ではあると思った。それについては阿武さんも認めているらしいが、
「それでも、警察も追ってる未解決の事件を追うのは――危険だよ。常識じゃ計り知れない陰謀めいたことが当たり前のように渦巻いているこんな世の中だしね、裏でなにが動いているかもわからない。アルバイトの……しかも女の子に、そんな危険を冒させるわけにはいかないよ」
 それに、明確な被害者のいる事件だ。そこに面白おかしくオカルト的推察を絡めて記事を書くなんて、戦後間もない頃に流行したというカストリ雑誌のような品のなさを感じてしまう。
 佐奈にはそこら辺の現実が見えているのかいないのか。
 少なくとも俺は阿武さんの言うことは――尤もだと思う。
 佐奈が折り紙付きの無鉄砲であることは短い付き合いの俺も承知している。引くべきところで引けない人間は、悪魔と戦う英雄でなくても、戦地に赴く兵士でなくとも、――身を滅ぼして死ぬことになる。ひょっとしたら破滅願望を持っている人間よりも短命かもしれない。
 俺が阿武さん側に味方しそうな雰囲気を察したのか、佐奈は急に大人しくなって、頬をぷーっと膨らませる。
 ……何をそんなに一生懸命になっているのやら、と。
 呆れながらも。
 胸の奥が、ちくり――と痛んだ。。
 なんだか。
 佐奈の味方をしないのは、自分の企画が通らないことの腹癒せなんじゃないかって自分自身で思ってしまって。
 このまま佐奈が企画を落とせば、駄目なのは俺だけじゃないって安心できるような――そんな気がしている自分がいて。
 得体の知れない黒い煮汁が腹の底でぽこぽこと音を立てているような。
 自己嫌悪に駆られる。
 どうして彼女がそうも意固地になっているのかは知らないが。
 それでも彼女はきっと、この仕事に対して俺なんかよりもずっと真面目で誠実に、意味のあることをしようと頑張っているんだろうなって。
 そんなことを、思ってしまって。
 苛ついて、急に煙草が吸いたくなって。
「とにかく、この企画書は返させてもらうよ。君にはもっと――」
「あの」
 俺は思わず、身を乗り出していて。
「ボディガード、やります」
 いつの間にか、そんなことを口走っていた。
 すぐに後悔の念が胸ににじむ。
 じぐじぐと化膿したみたいに痒くなる四肢。それと同時にむくむくと起き上がってくる何か前向きな感情。
「き、危険だって言うなら……俺が、佐奈のボディガードになります。万が一のことなんて、絶対に起こさないと、約束しますから」
 だから、と俺は頭を下げた。
 一瞬ばかり放心していた佐奈も、すぐにぱあっと笑顔を咲き誇らせて、
「堅悟くんに、守ってもらいます!」
 と、受け取りかけた企画書を、阿武さんの胸に突き返した。


 その後も粘り強い交渉を続けた結果、阿武さんは渋々といった様子だったが、なんとか取材を了承してくれることになった。
 ただし、原稿は受け取るが、実際に出稿するかどうかは改めて判断するとのこと。
 それについては佐奈が頑張るしかない。
 俺の役目は佐奈のお守りだ。外敵から身を守るというよりは、その脚で自ら危険に突っ込んでいかないようにと監視の目を光らせておかなければならない。
 何となく楽な仕事じゃないんだろうなという予感はある。が、アトランティスに於ける俺の存在意義を示す絶好の機会なのだから、そこは気張ることにした。
 ところが、取材の許可が下りて意気揚々の佐奈について行ってみれば、聞き込みを行うでも事件現場を見に行くわけでもなく――。
 気付けば、事務所からもさほど離れていない個人経営の喫茶店でお茶をしているだけ。佐奈は真っ白なカップに浮かんでいたラテアートをぐちゃぐちゃにかき混ぜながら、相変わらず矢継ぎ早な口調で一方的なオカルトトークを連射していた。
「――でね、時間的、そして空間的にも相関関係を持った形態は、どこかサーバーのような領域を介して私たちの脳みそに受信、継承されるってわけ。わかりやすく言うと、形の場っていうものが存在してね、それが共鳴することによって――」
 いつ息継ぎしているんだろうと呆れるくらいに話は続く。こちらがもはや愛想笑いも相槌もやめてしまったことにも気付いていない。
 それは多分、話し相手が今ここにいる俺ではなくて、雄弁なくらいに無口な……自分自身だからなのだろうと勝手に思う。
 つまりは、自分だけの世界ってやつ。
 鏡に向かって話しているのと一緒。
 退廃的なように思える。そう見える。けれど、多分そこが佐奈にとってはどこよりも居心地のいい場所なのだろう。
 決して批判的な意図はない。
 どちらかといえば、俺はそれをうらやましく思う。
 自分が自分であるという揺るぎない証明。
 俺が黙っていても、佐奈はひとりで楽しそうなのは、きっとそういうものがあるからなのだ。
 俺は、それをうらやましく思う。
 黙っていれば過ぎていく時間。だけど独りでいるわけじゃない。そんな――満ち足りた空白。物で満たされた虚無。それは微睡みにも似た――
「堅悟くん」
 ふ、と。
 いつの間にかテーブルに落ちていた視線。それを慌てて拾い上げると、雑誌記者魂を丸出しにしたハンチングから覗くあどけなくも満面の笑みとかち合う。
 話を訊いていなかったことがばればれだ。気まずくなって、わざとらしく頭を掻く。
「――堅悟くん、さ」
 ぐっと、身を乗り出すようにテーブル越しに顔を近づけてくる。
 それはエドワード・ホールが定義した――密接距離とも呼ばれる――格闘技で言えば必殺の間合い。手練れの暗殺者だって、多分そこまでは近付かないだろってくらいの、息のかかるような距離。
 佐奈はにっと笑って、また椅子に深く腰を沈めた。
「堅悟くんはさ、変わらないね」
 何を見て、そう思ったのか。
 瞳のなかに何か文字でも浮かんでいたのか。
 自分ではわからなかったし、知りたいとも思わなかった。
 だから、何がとは訊かない。
 だけど、彼女は多分、言ってしまうのだろう。
 俺は、そうかな、ととぼける。
 彼女は、そうだよ、と頷いて。
「コンビニでアルバイトしてた頃といっしょ。……なんかね、自信なさそうな顔、してるの」
 そう指摘した彼女の声は。
 そうやって他人を分析したようなふりをするのが大好きな――高慢ちきな連中のそれとはどこか違う、ちょっぴりだけ寂しげな。
 心を絆す、優しげな声だったから、
「自信なんて……あるわけないだろ」
 強がらないで答えてみる。
 いや、違う。
 強がれないのだ。右手にも心にも、上手く力が込められなくなっている。
「でも、堅悟くん、英雄だったんでしょ? それってどんな人にも自慢できる、凄いことだと思うんだけど」
「……いや」
 指先が、緊張したように震えた。
 そうだなと言って後は黙りこくってしまおうか。
 そんなことよりもと言ってお茶を濁してしまおうか。
 今からでも――心を武装しようかと考える。
 強く在るふり。物語の登場人物みたいに、冷静で、潔癖で、ちょっとした人間臭さを持つ、ユニークなキャラクターな、ふり。
 だけど、生物感がない。まるで粗末な粘土みたいに乾いて、干涸らびて、メッキみたいな外装がぱりぱりと音を立てて崩れ落ちる。
「俺は別に……英雄になりたかったわけじゃない。ただ、俺の知らない連中が俺の知らない場所で、俺が知らない間に決められて、誘われて……乗っちまっただけのことだ」
「それでも、選ばれたんじゃん! 私、雑誌の懸賞も当たったことないんだよ? それに、懸賞とは違って、きっと誰でもよかったわけじゃないはずだよ。私は、胸を張ってもいいと思うけどな」
「……俺も、そう思ってたよ。誰だって子供の頃に憧れる――スーパーヒーローってやつに、自分がなれたんだって……。素直に格好いいって思ったし、誇らしかった」
「なのに、駄目なの? 堅悟くんの自信には、なれないの?」
 なれなかった。
 馴染まなかった。
 どれだけ綺麗な色を塗っても、すぐに雨が降って流れ落ちてしまう。
「幻滅したとかじゃないんだ。芸能界の裏側が、案外どろどろしていて、派閥争いばっかりだった、とか……そういう失望とも違う。俺は、……英雄になりたいと思って、そのために訓練したり、勉強したりしてきたわけじゃない。夢を追いかけるための努力が実ったわけじゃないんだ。ただ、怠惰に生きてきたんだ。だから、俺には英雄らしい志も、悪魔的な絶望も……何もないんだ。気付いたんだよ。英雄って言っても、それって結局、ただ漠然と生きていた……コンビニバイトしてた頃と、何も変わっちゃいないんだって」
 自分自身に絶望したとも言い換えられる。
 そう。だから、佐奈が俺を「変わらない」って思うなら、それは間違っちゃいない。
 俺は成長したわけでも逃避したわけでもなく。
 ただ馬鹿みたいにいつも通りで。
 ただ、茫洋としているだけの――中途半端な男ってだけのことなんだ。
「悲観的だね」
「佐奈が楽観的なだけだ」
「そうかな? だって、前にアルバイトしてたコンビニ……ね? 店長、堅悟くんのことね、仕事は出来ないけど、根が真面目な奴だって褒めてたんだよ? 阿武さんにだってすぐに気に入られちゃったし、堅悟くんは自分で思ってるよりもつまんない人間じゃないって思うけどな」
「それは――」
「それとも堅悟くんには、店長や阿武さん――それと私よりも、人を見る目があるって自負してるのかな?」
 それは、と。
 言葉に詰まって、口を噤んで、惨敗する。
 それをあると認めてしまえば、それはそれで――俺が自己肯定してるってことに繋がるわけだ。
 一枚上手ってかい。
 だけど、潔く負けを認めてしまうのもなんだか癪で。
「――そんなことより、事件の取材って……どうするつもりなんだ。こんなとこでいつまでもお茶してるわけにもいかないだろ」
 すると佐奈はうーんと首を捻り、
「そうは言っても、他に時間潰すところもないしね。……それとも、ふたりでカラオケでも行く?」
「行かない……というか、時間を潰すってどういうことだ。誰かと待ち合わせでもしてるのか」
「違うよ。これまで起きた事件については、ほとんど他の週刊誌に話持ってかれちゃってるし、そもそも堅悟くんに言われた通り、アトランティスは飽くまでオカルト雑誌だからね」
「……どういう意味だ」
 示唆的な会話は苦手だ。
 理解不能でも、ちゃんとした言葉で伝えて欲しい。
「――堅悟くん、事件はまだ起こるよ」
 神妙な顔をして、佐奈がそんなことを言った。
「わからないな。どういうことだよ」
「事件はまだ終わってない。次の犠牲者が出るっていうことだよ。……そもそも、これは終わるようなことなのかな? 犯人が捕まるか死ぬかするまで、或いは――ずっと続いていくことなのかもしれないよ」
「犯行予告でも出ているのか?」
「出てない」
「だったら、どうしてそんなことがわかる」
「わかるっていうか、根拠があるんだ。だから、それが本当かどうかを確かめたいの。そしてね――次に起きる事件では、私が直接――事件の目撃者になりたいの!」
 爛、と佐奈の瞳に輝きが宿った。
 俺はしばらく呆然とする。
 今、このお嬢さんはなんて仰ったの? 事件の現場が……ではなく、事件が起きる瞬間を目の当たりにしたいって?
「ううん?」
 思わず頭を抱えて、身体を丸めてしまいそうになる。
 何を言っているの、この子。人が――人が死ぬんですよ。目撃証言の食い違いについて調べるなら確かに実地検証が効果的かもしれないけれど、目撃者じゃなくて被害者になったらどうするの?
 人が死ぬところを見たいとか言われるよりはいいのかもしれないが、突拍子もないことに変わりはない。
 色々とつっこみを入れたい。ハリセンがあるなら一番痛い角度で顔面にぶち込みたいが、佐奈を守ると言った手前、危険だから云々とも言えず。
「というか……だから、……いつどこで次の事件が発生するかなんて、わかりようがないだろって話だ」
 佐奈は、詳しい場所はね――と首肯し、
「堅悟くんは、バイオタイド理論って知ってる?」
「知らん」
 佐奈の話はおよそ七割、理解がまるで及ばない。
「大丈夫、難しい話じゃないよ。バイオタイド理論っていうのはね、月の満ち欠けが人体や精神に何かしらの影響を及ぼしている――っていうことを説明した理論なの」
「……なんだって?」
「満月の夜にはね、いつも以上に猟奇的な事件が増えるって言われているの。……lunaって言葉があるでしょ。これはラテン語で月を意味しているんだけど、英語のlunaticは狂人や狂気っていう意味を持つ言葉なんだ。物語のなかでも、オオカミ人間が変身するのは、いつだって満月の夜って相場が決まってるみたいにね」
「それは――なんというか。……オカルティックだな」
「そう、オカルト。まだね、ちゃんとした因果関係は証明されていないんだけど、少なくとも私が追ってるこの事件は、前回も前々回も――満月の夜に殺人が行われているんだよ」
 それは初耳。
「でも、偶然じゃないのか」
「だとしても、試してみる価値はあると思うんだよね」
 好奇心に満ちたその眼差し。
 俺は――そうだな、なんて言いたくない。
 言いたくなんてないんだけど、ここまで来たら言うしかない。
「そ、……そうだな。それで、……次の満月はいつ来るんだ?」
 問うと、佐奈はにこーっと笑って、
「今日、これからすぐにだよ」
「――は?」
「今夜、事件が起きるんだよ」
 彼女の白い歯が、きらりと妖しい光を放った。
 夜。
 空には月が浮かんでいる。
 大宮おおみや駅前の通りはいつも以上に人通りが多い。
 どうやらさいたまグレートアリーナでアイドルか何かのイベントがあったらしく視界を埋め尽くす群衆はその帰り道にあるようだった。
 まるでお祭り騒ぎ。人波が風に揺れるように畝って、身動きの自由を縄のように縛ってしまう。
 雑踏にもまれる。はぐれないようにと、佐奈の右手を強く握った。
「――この人混みじゃ、騒ぎがあっても、すぐにそうとはわからなさそうだな」
 SNSは細かにチェックしている。どこかで火事があったり、救急車が走っていたりという情報はいくらでも見つけられるが、どれも有益とは思えない。
 何か酷く無意味なことをしているように思えてならないが、白けた空気さえも賑やかな喧噪に染められてしまう。
 佐奈は俺の手を握り返し、
「大丈夫だよ」
 と、自信か何かに満ち足りたような顔をする。
「ねえ、堅悟くん。オカルトっていうのはね、疑似科学的な推論と――超自然的な直感に基づくものだと私は思ってるの」
「……相変わらず、言ってる意味がわからんな」
 歩くたびに誰かと肩がぶつかる。小柄な佐奈は少し息苦しそうにしながら、
「予感があるの。そのまま、鐘塚かねづか公園のほうまで行って」
「予感って」
 何じゃそりゃと鼻で笑い飛ばしそうになる。
 けれど、佐奈の偶然力――とでも言うべきか、先刻自身で口にした「直感」とやらは案外存外侮れない。
 思えばカイザーとの遭遇や、非正規英雄という未知なる存在になってしまった俺との再会。
 普通は幻想や空想で終わるオカルティズムの世界に、彼女は自分がそう求めるがままに、もはや片足を突っ込んでいるも同然なわけで。
 例えそれが本当に何の起因も意味も持たない偶発的な事象だったとしても。
 同じだ。寧ろ自分で幸運を呼び寄せるよりも――。
 そんな彼女が予感を覚えた? なんとなくそんな気がする? ……ああ、上等じゃないか。
 アリーナのイベントだけが原因とも思えない過剰な人混みを抜けて、鐘塚公園の広場にある笹かまチックなモニュメントの前まで移動する。
 酒に酔った陽気なサラリーマンの集団や、立ち話に興じる大学生カップル、誰かと待ち合わせでもしているのかスマホのバックライトを光らせながら俯く有象無象――。
 夜の気配ってやつは独特だ。朝より静かで、昼間よりもうるさく喚く。
 仮にここで殺人が起きるとすれば――間違いなくパニックが起きる。
 下手をすればそれだけでも怪我人どころか、死人だって出かねない。
「――それで」
 実際、どうなる。
 佐奈は疲れ切った様子だ。いつもより空気がぬるい。密室に閉じ込められたような閉塞感さえ覚える。
 巡回する警官の数も多い。それは事件の発生をかぎ付けてのことなのか。単にアリーナでのイベントによる混雑を想定してのことかもしれない。
 いつの間にか、額には汗がにじんでいた。
 悪魔と対峙した時のような内蔵がぴりつく緊張感。
 本当に今日、事件が起きるかどうかも分かりやしないってのに。
 まるで予定調和を待ち侘びるような。
「――――」
 思わず、空を仰いだ。
 狂気を呼ぶという満ち足りた――真円の月。
 眠ってもいないのに呼び起こされた五感は、派手やかで賑やかな喧噪の透き間を縫って届いた――名も知らぬ声を捉えた。
 それは多分。
 誰かが上げた腹の底からの悲鳴。
 男か女か。老人か子供かもわからない。
 佐奈も異変に気付いたのか、目が覚めたみたいに俯いていた顔を上げて、脇目も振らずに響めきさざめく人混みのなかへと突っ込んでいく。
「ばッ……」
 馬鹿野郎、と俺は叫んだ。
 危険だ。今すぐ戻れ、と。
 だけど、届かない。追った背中もすぐに喧噪のなかへと消え去って。
 やはり――何かがあったらしい。色めき立った声が徐々に動揺へと変わり、次第に恐慌状態へと陥っていく。
 我先にと逃げ出す大人たち。怒声。悲鳴。また悲鳴。
 俺はまるで目もくれない。
 親を見失い泣き喚く子供の姿にも、足をくじいて逃げ場を失った少女にも。
 どこを目指すべきかはすぐにわかった。
 鐘塚公園に隣接する交差点。車道だって不自然なくらいに渋滞していたっていうのに、そこだけ車が一台も見えない上に、人気も急に失せている。
 それに、血溜まりだ。
 明らかに致死量を超えた赤い水たまりが横断歩道の白線を塗りつぶしている。
 肌が粟立つのを感じた。これは寒気か。それとも吐き気か。
 血の持ち主が誰なのかはわからない。
 ただ一つ言えることはそこに――佐奈の姿はないってことで。
 魔王。
 そう呼ぶに相応しい足が竦むような覇気と。
 あたかも絶対防御を謳うかのような傷一つない鎧に身を包んだ――
 俺が知る限り最も強大で敵に回したくない悪魔。
 そいつだけが悠然と買い物帰りみたいな顔をして、その血溜まりの上に佇んでいた。
「……どうしてあんたがそこにいる? カイザー」
 問いながらも怖じ気づいている自分に気付く。
 対峙しているだけ。それでも全身から汗が噴き出して、心臓の鼓動が急加速する。
「さ、佐奈は――どこだ」後ずさりしてしまいそうになる。
 それでも勇気を振り絞って、
「……彼女は、どこにいる!」
 カイザーの鬼面がこちらを向いた。
 まるで銃口を向けられたかのような。
「お、俺は……事情を知りたいだけだ!」
 そう言いながら、俺は無意識にアーティファクトを顕現させていた。
「何があったか……言えよ」
 カイザーは何も答えない。
 木偶を相手にしているような空しさ。
 喉を潰す威圧感。
 だけど、俺は黙らない。
 再び腹に力を込めて、
「おい、何か……言ってくれよ、カイザー!」
「君には――」
「え」
 カイザーの姿が視界から消える。
 次に聞こえた声は、
「――何一つとして、為し得ない」
 背後から、耳許で囁かれた。
「う、わぁッ」
 転がるようにして、カイザーから距離を取る。
 心臓が体内で蛙のように跳ね回っている。
 剣を交えたわけでもないのに、直感する。
 戦いになれば――十中八九こちらが負ける。
 為す術もなく殺されてしまう。
 呼吸が浅い。視界が急に狭くなる。
「く、くそッ! なんだってんだよ!」
 弱気な自分に腹が立つ。
 いや、弱気というか。
 戦う力は確かにある。今も捨てずにこの身体に残しているのに。
 わかるのは、本能が理解するのは、目の前に立ちふさがる強敵との、当たり前すぎる力関係だけ。
 俺自身が行動して現状や未来の何かを変化させることは到底出来ないって。
 そう認めてしまっていることが、悲しくて、悔しくて。
 カイザーが歩み寄ってくる。
「君は、英雄にも、悪魔にもなれない。……なのに、普通の人間すらない」
 ――中途半端な奴だ。
 カイザーが仮面の下で不敵に笑う。
「黙れ……。俺はッ」
「そんな君には、凄惨な結末も、滑稽なばかりの終焉も、栄光に満ちた結実さえも似合わない」
 まばたきをした。
 その瞬間に、カイザーは至近距離まで間合いを詰めて、俺を冷たく見下ろしていた。
「ただ、死ね。なんの意味もなく死ね。それが、君が君であるということなんだ」
「そんなこと――」
 わかっている、と。
 ない、と。
 それぞれの言葉が同時に頭の中でこだました。
 歯ぎしりを鳴らす。耳鳴りを散らす。
 張り裂けそうな胸を、右手の力で握りつぶす。
「――堅悟様、聞いていますか? 石動堅悟様」
「翼、ちゃん?」
 ハッとする。
 まるで夢でも見ていたみたいに、俺は非正規英雄になるまで暮らしていたボロアパートのボロ部屋に立ち尽くしていた。
「あれ、……俺は」
 何を、していた?
 今、何をしている?
 その答えを翼ちゃんに求めようとするが、
「堅悟様、私は……あなたの力によって、天界との繋がりが断たれてしまいました。もはや天の使いを名乗るわけにもいかない。それなら私は、一体何者なのでしょうか。宙ぶらりんの、確かさの何もない存在。まるで」
 ――あなたみたいですね。
 翼ちゃんが嗤う。
「な、なんだよ……」
 俺を、憎んでいるのか。
 首輪をつけられた――安穏たる世界から。
 自由という呪縛を科したこの俺を、恨んでいるのだろうか。
 とんとん、と肩を叩かれ振り返ると――そこに広がった、いつか俺も参加した、さいたまグレートアリーナの惨劇。
「ねえ、アンタ、邪魔だよ。戦わないならさ、どっか余所行ってくんないかな」
 あの時いた、金髪ポニテの――鹿子とか言ったっけ。
「私らだって全部納得してコミュニティに属してるわけじゃない。だからって他人と関わることは媚売ってへらへらしてるってことと同義ってわけでもないんだ。いつだって不満や不安と戦って、それでも前向きに生きてるんだよ。一匹狼が気取りたいなら、餌も獲れず飢えて死ねばいいんだ」
「俺は、別に……そんなつもりは!」
「手は、差し伸べた」
 間遠和宮。
 新火駅の駅前広場。
 俺が見殺しにした人々が呻き声を上げながら、俺の脚にすがりついてくる。
「貴様は考えたふりをして、結局は逃げただけだ。……英雄はミスマッチだったと? 悪魔の社風は自分に合わんと? そんなもの、どこに行ったって同じさ。結局、世界を見ているのは、貴様という人間を演じているのは――他ならぬ貴様自身なんだからな」
「そんなこと、……わかってんだよ! 偉そうに説教垂れてんじゃねえ!」
「結局、あなたには居場所がないんでしょ、石動堅悟」
 旧マジックミラー号を背にしたリザが、同情するような眼差しを俺に向ける。
「違う。俺を受け入れてくれるって人だって――」
「残念だけど、所詮はアルバイトだよ。君よりも優れた人材なんていくらでもいるし、僕はもっと……揺るぎない向上心を持った人と、一緒に働きたいなぁ」
「阿武さん……。でも、俺――」
 また、世界が変わる。
 ここは、どこだ。
 真っ白な世界。
 空白。
 俺と同じ、空っぽの世界だ。
 いよいよ、聞こえてくる声も、何者でもない機械音声みたいな無機質に変わって。
「変わらないんじゃない。変われないわけでもない。ただ変えようとしないだけ。そう自覚しているくせに、自分はそういう人間だからと言い訳して、腐り続けることに一種の快楽さえ覚えている。人間のクズだな、お前」
 人間のクズ。
「――はは」
 そんなこと。
 わかってるさ。
 しかも、クズはクズでも、特別汚れているわけでもなければ、磨けば光るかもしれない石ころってわけでもない。ありきたりで有り触れた――無数に投棄された粗大ゴミのひとつでしかない。
 悲しいくらいに無価値なんだ。
 俺って一体なんなんだ?
 生きてる意味とか何かあるのか?
 多分、ないよな。俺がいなくたって世界は回る。多分それすらもこの世界では当たり前のことだ。
 だけど、世界どころか俺以外の誰かの日常を変える力すら、俺の死にはないのだろう。
 本質的に、無意味だから。
 つまりは空虚なんだ。
 俺が俺であること。
 俺が俺であるために。
 出来ることは。
 ただ、死ぬこと?
 何の起伏も理由もなく何の意味すら示さずに。
 消えていくことなのか?
 俺は――俺を。

「それは違うよ!」

 ぴし、と。
 ひびが入る。
 ……何に?
 わからない。
 それは不意に。
「――堅悟くんは、クズなんかじゃない!」
 空虚のなかに生まれた。
 有限。
「たとえ誰かのために生きられなくたって」どん、と世界が揺れる。「誰かに独りでいることを望まれちゃったって」がん、と世界が大きく揺れて、「それでも堅悟くんは自分だけのために生きられる」ずん、と世界が三度も揺らされ、「強い心を――持った人間なんだ!」
 声が響いた。
「……佐奈?」
 そこなのかどこなのか。
 俺は無意識に空を仰ぐ。
 まるで自らの守護天使を求めるように視線は彷徨さまよい。
「俺は、……どこにいるんだ」
 そんな、当然の問いを今更見つけ。
「佐奈、……お前は、どこにいるんだ?」
 彼女を……守る。
 そう自分で決めた使命をただ思い出し。
「堅悟くん、さっさと――現実こっちに戻ってこい!」
 自らの首を切り落としかけたエクスカリバーを、利き手のなかで静かに消して。
「……そっか」
 と悲しく笑う。
 そうだ、これは現実じゃない。
 俺がすべて享受し、まっすぐに受け止めるべき全部じゃない。
 確かに、奴らの語った言葉は、俺の弱さ。それも現実。目を背けたくなるどうしようもない真実だ。
 だけど、弱さを晒すことが、イコール現実と向き合うって話にはならないはずだ。
 受け入れて、打ちのめされて、ただ傷つくことが強さにはならない。
 俺が本当に向き合うべきは。
 俺が本当に乗り越えるべきは。
 今すぐにでも断ち切るべき現実は。
「――この、世界。てめぇが見せた、このくだらねぇ幻想だ!」
 再び顕現させた栄光の聖剣を、天に掲げるように振り上げると。
 俺を操り、支配しようとしていた悪意の線を、なぎ払うように一刀両断した。


「ぷ、――は、ぁッ!」
 まるで、長い間水のなかに潜っていたかのように、酸素を求めてのたうち回る。
 ここは――どこだ。
 頭上に仰いだ穴隙は広く深く闇夜を湛え、林立するビル群はいつも見るそれよりもいくらか背が低い。灯りが下方から照らしていることから、この場所がどこかのビルの――屋上であることが推測できた。
 蹌踉よろめきながら立ち上がった俺の身体を誰かがそっと支えてくれる。
「……さ、佐奈っ」
 傷一つない彼女の姿を見て、緊張の糸が切れそうになる。
 しかし、まだ終わっていない。
 個人的にはさっさと帰ってひとっ風呂浴びたい気分だったが。
 騒音をまき散らす室外機の上。そこにふてぶてしく腰を下ろす学ラン姿の青年をめ付ける。
「……いつからだ」
 誰何よりも先に、俺は問う。
 青年は――あはは、とどこかわざとらしく笑い転げ、
「さて。いつからだと思う?」
 挑戦的な眼差し。
 振ったさいの行方を眺めるような。
 観察的で虚無的な。
「うーん。まあ、まさかあっちから戻ってこられるとは思ってなかったよ。もうちょっとで自死に追い込めそうだったのに。……それは、お兄さんのアーティファクトのおかげ? それとも、そっちの女の子の力なのかな」
「……そうじゃ、ねえよ」
「うん?」
「そんな話、してねぇって言ってんだ。いつからってのは、……いつからこんなこと――続けてるんだって話だよ。――非正規英雄の分際で、人殺しが趣味だってか?」
「――え」と声を上げたのは佐奈だ。
「能力は幻覚、か。連続殺人とやらで目撃者の証言が食い違っていたのも、てめぇのアーティファクトの力ってわけだ。そう考えると、今俺が見ているてめぇのその姿も本物かどうか疑わしくもあるが――あの頭の固い天使どもがそんな暴走を許すとも思えねえ。担当天使は……一体どこに行った」
「…………さあね、今頃夢でも見てるんじゃないのかな。もう一年以上会ってないし、……うーん。僕にはわかんないや」
「ちっ……馬鹿バイトが」
「なんでそうやって怒るのかなあ。……僕らの知らないところで、何百何万って命がさ、特に深い理由や意味もなく失われていってるっていうのに、日夜悪魔どもと戦って――世界平和に寄与している僕らが、その辺の無意味な人生を送ってるクズどもの一人やふたり殺したくらいでバチなんて当たらないし、世界は何も変わらないだろ?」
 そんなことない――とは言えなかった。
 俺も、似たようなことを考えている。
 少なくとも俺は失われていく助けられたはずの命を見殺しにした。
「な、なんで……堅悟くんを狙ったの」
 佐奈が俺の背中に隠れながら問うと、
「別に深い理由なんてないよ。ただ後で邪魔されるくらいなら先にこっちから潰してやろうと思ったくらいのことで……まあ、生き残れたんだからいいじゃんか、その辺のことはさ」
 もう敵意はない。
 迷路脱出おめでとう。
 ……そんなことを言いたげな表情。
 英雄たる資質って、結局マジでなんなんだ。
 入り組んでいる。
 そう在るから人を殺す悪魔どものほうがよっぽど単純でわかりやすい。
 いや、今はそんなどうでもいいことよりも。
「わかってると思うが、人殺し。……てめぇは今すぐブタ箱行きだ。抵抗するなら俺が裁く。殺してやるよ。有象無象どもが意味なく死ぬのと同じように、戦いのなかで英雄が死ぬことだってよくある光景だもんな」
 確かに、と青年は頷く。
「でもさ、何のために僕と戦うの? 石動堅悟さん」
「頭ん中を覗いたのか?」
「違うよ。僕には幻覚を見せる能力しかない。そっちの子が堅悟くん堅悟くんうるさいから、もしかしたらと思ってさ。……だけど、その反応。やっぱりそうなんだ」
 佐奈が申し訳なさそうな顔をする。
「石動さんはさ、カイザーと戦って死んだってことになってるよね。わざわざそんな作り話を用意したくらいだ。よっぽど傭兵生活が嫌だったんだろうけど、どうして今もその剣を手放さないでいるの? 戦いたいの? それとも身を守る力を失うのが怖いだけ? 単に他の人間たちに対して優越感を覚えたいだけなのかな」
 理解不能だよ、と奴は俺の何かを揺らそうとする。
 確かに揺れる。
 それは今も揺れている。
 だけど――。
 どうしてって。
 その単純な問いに対する答えは。
 それは――。
 まだ道の途中。
 明確な目的地すらない道すがらの言葉ではあるが。
 俺は、
「何物にも属さないからだ」
 と。
 そう言える。
 それらしく形作ってはき出せる。
「意味がわからないね」青年は苦笑いを浮かべる。
 わからないか?
 それも当然かもしれない。
 だって、
「俺は……、正しさのために生きていない。だけど人間ってやつは、それが善でも悪でも、正しさのなかでしか生きていけない生き物なんだ。その点、俺は――矛盾している。それは共感されない感情だし、迎合できない俺の弱さなんだ。だから今も……俺は独りなんだ」
 そんな呆れるくらいの空論を、机上に書き散らしたみたいに。
「……だから、わかんないって」青年から表情が消えた。
「これは、俺のための戦いだってことさ」俺は力なく笑った。
 青年が舌打ちを鳴らす。
 現出したアーティファクトは全身を包むシェルターにも似た巨大な盾。
 それも構わず――俺はエクスカリバーを解き放った。




「結局、原稿は没になったのか?」
 近所の喫茶店。テーブルと一体化するように項垂れた佐奈は、嗄れた声でそう、と呟く。
「……結局犯人、逃げちゃったし。……犯人が英雄だったとなると、警察発表で犯人逮捕っていう結末は望めないし……。幻覚の理由にしても、堅悟くんたちの存在ってどっちかっていうとファンタジーだし……。それはそれでありなんだけど、思ったよりも筆があんまり乗らなくて……。なんか、だめだったぽい」
 そのまま溶けてなくなってしまいそうな程ぐずぐずのゲル状になり始める。
 慰めの言葉を知らない俺は、苦いばかりのアメリカンコーヒーを一息に飲み干し、
「わかんないのはさ」と。「結局、三人目の犠牲者は出なかったわけだが、そもそも犯人は本当にあいつだったのかってことだ」
「なぞ。わかんにゃい」佐奈が呟く。
「それに、あいつの犯行周期が本当にお前が推測してた通り、月の満ち欠けに関係してたのかね」
「……それこそ、永遠の謎……だよぉ。堅悟くんが第三の犠牲者になってたら、間違いないって断言できてたけどさぁ」
 涙ぐむ佐奈に、俺は前髪をいじりながら、
「それなら、死んどけばよかったかな、俺」
 拗ねたように言ってみると。
「んーん」
 ずずず、と鼻をすすりながら、ぬるりと身体を起こして首を振る。
「堅悟くんが、無事でよかった」
 そう言って、にっこりと笑った。



第十四話 完
sage