第十九話 ジ・アウトロウズ (宮城毒素)

 決しておごっていたわけではない。
 希望もないまま高校を卒業して、展望もないままフリーターのその日暮らしを送っていた自分のような人間が、ただ超常の力を手にしたからといって、全てが都合良く――少年漫画の主人公みたいに大活躍が出来るなんて、思っていたわけではなかった。
 それでも自分に固有のものとして与えられた能力が、“そんじょそこら”と一線を画するものであるという自覚はあったし、非正規英雄としての実力はあの百戦錬磨の匂いを漂わせていた間遠和宮にだって決して負けていないという自負もあった。
 ただ、強いであろうという推論があっただけ。
 ただ、誰かと正面から戦って、その上で力負けするというあって当たり前の想定が、心のどこにもなかっただけで。
 四体の悪魔に囲まれて、食い下がりながらも常に死を隣り合わせに感じた五分間。それを経ても尚、勝利の道筋がまるで見えなかった連中をほんの一瞬で肉塊へと変えてしまった――あの怪物と対峙して。
 思い知った。その瞬間に理解した。
 自分は自由ではない。頭上を仰げば見えない糸が垂れていて、自分より強い誰かがその気になればいつでも簡単に操られてしまう哀れな人形でしかないのだ、と。


 大宮駅から高崎線沿いに北へ向かう途中にフロリダという喫茶店がある。男はつらいよで寅さんが喫茶店を「きっちゃてん」と読み間違えた頃から続く老舗の純喫茶であり、ワンコインで満腹になれるモーニングやランチといった代々続く定番メニューが二一世紀になった今も人気を博している。
 そんなフロリダでぎこちなくメニューを指しながらブレンド珈琲を注文しているのが石動堅悟である。しゃれた店内には小洒落た客が少なくない。ありもしない視線をちくちくと感じながら、どこか所在なげに身体のあちこちを掻いている。
 何をする時もそうだが、初めてのことは苦手なのだ。勝手が分かればなんてことない。勝手が分かるまでは、意味もなくきょどきょどしてしまう。
 スタバで待ち合わせさせられるよりはましか、と堅悟は思う。
 そう。これは待ち合わせだ。指定された時間をすでに一〇分は過ぎているが、時間通りに現れる相手だとは思っていない。
 窓際のテーブル席に運ばれてきた珈琲は、当たり前だが苦かった。堅悟にはそれがアメリカンだと言われても味の違いはわからないから、角砂糖はあるだけ入れる。ミルクもそれがカプチーノみたいな色になるまで入れると、ようやく飲める味になったと感じられた。
 半分くらい飲んでから、カップが空になると待ち合わせの相手が現れるまでますます所在がなくなってしまうことに気が付いた。追加で注文――と思っても、それだけのことがなんとなく出来なくて、下を向いて苦笑いする。
 そのうち、客がひとり、勘定を済ませて帰って行った。続けて、もうひとり、今度は二人組のカップルが、チェック柄のシャツを着た大学生が、職業不詳の太ったおじさんが――と立て続けにドアベルを鳴らして帰って行く。
 五分も経たずに、がらんとした。なかなかに異様な光景だが、さして気にするふうでもないマスターは、ひとり店に残った堅悟には一瞥もくれずカウンターの奥へと引っ込んでいく。
 からんころん、とまたドアベルが鳴った。出て行く客の影などもうない。来客である。そこには、見知らぬ少年の姿があった。
 それでも、堅悟は「やっとか」と思う。少年は堅悟の姿を見つけると、そのまま堅悟の向かいに腰を下ろした。“東中”とプリントされた――どこかの中学校の指定ジャージに、肩から提げた通学鞄とエナメルバッグ。まるで部活帰りみたいな格好。
「遅刻してごめんなさい」
 存外素直なその声を聴いて、堅悟は戸惑いを隠せない。
 幼げながらも整いすぎた顔立ちが彼――或いは彼女の性別を隠蔽している。
「改めまして、石動堅悟さん。……四谷真琴よつや まことです」
 いよいよ、堅悟は混乱してしまう。
「それも、お前が見せてる幻覚なのか?」
「ん、ああ、この姿ですか」
 きょとんとした顔も、すぐにぱあっと輝かせたその笑顔も、どこか少年的で、どこか少女的で、そのどちらもの全てを持っている。
 四谷はぱちんと指を鳴らす。すると奥に引っ込んでいた店主が、ハムサンドとクリームソーダを持って現れた。その目はどこか虚ろ。思えば、帰って行った客たちも、同じような目をしていたような気がする。
「もちろん、ここにいる僕は僕じゃない。公平性を保つ意味で、ちゃんと実体はありますけどね、容姿や今名乗っている氏名なんかは飽くまで偽り。このお話がなかったことになってしまった時のための保険です」
 いつの間にかからからに喉が渇いている。
 以前初めて顔を合わせた時の――彼と、今ここにいる四谷の印象があまりにも違いすぎている。
 疑念が堅悟の肩を叩く。
 本当に――こいつが自分を呼び出した張本人なのか。
 要するに、すでに本物の四谷は殺されていて、目の前にいるのは天使か悪魔か――或いはカイザー陣営の誰かなのではないか。
 そういう疑心暗鬼が十二指腸を駆けずり回っているのである。
 それこそがつまり、マーリンとの邂逅かいこう以来、自分が感じ続けている恐怖そのものなのだと自覚する。
 結局、弱者は強者に支配される。特に堅悟のように特異な力を持ってしまった者は、強い支配力を持った誰かの思惑のなかで溺れて喘いで操られるしかない。
 自分はまだ、自由ではない。放し飼いにされただけの――牧場を彷徨さまよう家畜に過ぎなかった。
 それをマーリンとの一件で思い知ったから、堅悟は四谷の誘いに乗ったのだ。
 これから先、何者にも従わずに生きていくためには、より強大な力が必要になる。それも単なる個人としての力ではなく、堅悟が最も苦手とする――チームとしての力である。
 だから、堅悟の“切断”で四谷を斬ってその正体を見極めることは、仮に四谷が四谷本人であるとわかったとしても、そこに結束や信頼という言葉は残らない。
 四谷はクリームソーダをかき混ぜる。溶け始めたフロートがメロンソーダを濁らせる。すっと壁際へと向けられた視線を追うと、地元のサッカークラブが新規生を募集しているポスターに衝突した。
「石動――先輩は、前に言っていましたよね。これは俺のための戦いだ……って」
 その言葉の意味を、四谷はずっと考え続けていたという。
「僕は、非正規英雄なんて退屈でくだらないと思っていました。折角馬鹿な天使どもが素晴らしい力を手に入れたのに、やることが命がけの戦いなんて――知性のかけらもない。動物的で実に野蛮だ」
「趣味で人を殺していた人間の言葉とは思えないな」
「殺し“も”、ですよ、石動先輩。別に、あれに限ったことじゃなかった。アーティファクトを使って出来ることなら、どんなことでも試したいと思いました。他人を意のままに操れるって素敵ですよ。虐待されていた知り合いに幸せな少年時代の記憶を与えてみたり、一生の友情を誓い合ったふたりに、死ぬまで消えない怨恨の記憶を植え付けたり、難関大学に合格したっていう受験生に幻覚で万引きをさせてみたり!」
 気が付けば――。
 四谷の表情は狂気に壊れていた。
 これから話し合う内容を考えれば、手を引くべき相手としか思えない。しかし、堅悟は絶対的な正義や倫理観のために戦っているわけではなかった。
 それでも、と彼は四谷を睨む。
「……これ以上は、やめろ。俺と手を組むつもりなら、今後そう言った退屈でくだらない遊びは一切赦さねえ」
 ふと己の世界からの帰還を果たした四谷が頬杖をつく。
「そう言われてもなぁ」
「だったら、交渉は決裂だ」
 そこまで言うと四谷は急に真顔になって、ストローを口に含んだ。するとそのままクリームソーダを飲みもせずに、またぱちんと指を鳴らした。
 からんころん、とドアベルが鳴った。来客。それを赦したのは、恐らく四谷だ。扉の向こうから現れたのは、上下灰色のスウェットすら着こなせていない猫背の少女。ただでさえ幼い四谷よりも更にいくつか年が下に見えるが、目の下には分厚い雨雲のような隈があり、拒食症を思わせるほどがりがりの痩せこけているのが服の上からでもわかる。
 その虚ろ過ぎる眼差しから彼女も四谷に操られているのかとも思ったが、こちらに近寄ってくることもなく気怠そうに一番近い椅子を引くとその上に体育座りをしてそのまま沈黙してしまう。
 堅悟は四谷に向き直る。
「……あの子は?」
「即戦力」
「非正規英雄か?」
「違いますね。近くに天使の気配がありますか?」
「それは、お前や俺の担当天使みたいに……どうにでもなるだろ」
 天使などどうにでも出来る――が、それ以前に四谷の言葉を信じるなら、彼女は非正規英雄ですらないという。
「見込みがあるってことか?」
「あるように見えますか」
 それを言えば、自分も四谷も“英雄”なんて呆れた称号を得るに足る存在ではないだろうと心の中で突っ込みを入れるが、そろそろ野暮だ。
「回りくどいな。どうしてあの子を連れてきた。単刀直入に言えよ」
「準悪魔です」
 反射的に椅子を蹴るように立ち上がり、少女に向けてエクスカリバーを構えていた。
 ばくばくと鳴る鼓動。小刻みな呼吸。血走った左目。
 それに対して少女はどこまでも無関心だ。膝を抱えたまま、ぼんやりと自分にまっすぐと向けられた大剣の切っ先を見つめている。
「先輩、びびりすぎです」
 四谷が笑う。
「そもそも先輩はすでに非正規英雄の陣営にはいない。それこそマーリンクラスの悪魔の首を持ち帰るでもしない限りは、謝ったって抹殺されるのが現実でしょう。だからといって、悪魔の陣営に与しているわけでもない。むしろ他の非正規英雄と同様に、基本的には対立している立場だ。それは中途半端とも言えるし、四面楚歌とも言えるし、――新たな第三勢力の可能性とも考えられるってわけです」
「……カイザーのようにか」
 と言っても、四谷には伝わらなかったようで肩を竦められてしまうが、代わりに離れた席に座ったままの少女が胡乱うろんとした様子のまま反応する。
「わたし……なにも、したくない」
 言葉自体に脈絡はない。しかし、明らかな協力拒否の言葉に、堅悟の心は次第に屈折していく。
「結局、これはどういう集まりなんだ! お前の認識……思惑を話せよ、四谷」
「もちろん、この三人でパーティを組もうって話ですよ」
 四谷が皿もコップも空にする。それを店長が無言で引き上げていく。
 同盟締結。堅悟がここに来た目的と相違ない結論だ。
「だったら、そのガキはどういうつもりで連れてきた。何もしたくねーっつってるみたいだけどよ」
「心許ないですか? そもそも信用なんて出来るはずのない準悪魔ですもんね。命のやり取りをする相手ではあっても、共闘なんて出来るはずもない」
 その通りだ。
 そう答えるよりも早く、四谷が続ける。
「……だから、石動先輩は脆いんですよ」
「どういうことだ」
 びびらせるくらいの気合いで睨むが、四谷は涼しい顔をしている。
「戦ってみればわかります。彼女――此原燐このはら りんと」
 一度、命のやり取りをしてみればいいんです、と。
 現役の非正規英雄が完全にぶっ壊れた笑みを浮かべていた。
 此原燐このはら りんは、不幸とは何かを知らなかった。
 父親の顔を知らない。――普通。
 母親が中学三年生の時に自分を妊娠した。――普通。
 気に入らないことがあると腕や背中に熱湯をかけられた。――普通。
 母親が覚醒剤所持で逮捕されて、祖父母の家に引き取られた。――普通。
 放火犯がたまたまターゲットに選んだ家がそんな祖父母の家だった。――普通。
 助かったのは、自分だけ。
 ――幸運?

 燐には、周りの大人達がいう「可哀想」という言葉の意味が理解できない。
 辞書を引いても、“同情”であるとか、“不憫”であるとか――“不幸”であるとか。もっと分からない言葉で上書きされているだけで、傾げすぎた首がいつもすてんと床に落っこちた。
 此原さんは可哀想な子だから、みんな仲良くしてあげてね。
 教師がそう言う。
 可哀想な子だから、という条件式が、燐をますます混乱させた。
 燐には、友達の作り方もわからない。
 それに結局友達なんて出来なかった。
 喋らない。笑わない。一緒にいて楽しくない。
 可哀想な子供であることとは全く無関係な理由から、燐は集団の輪から“いらない子”として排斥された。

 みんながそう言っているから正しいんだ。
 燐には、そういう意見も理解が出来ない。
 多数決で何かを決めることは――わかる。そういうルール。場を支配する形の一種だ。けれどそれは“正しさ”を証明することではない。最大公約数的な幸福を求めることが少数派の心を槍で突き刺すこととイコールにはならない。
 頑なに自身を“不幸である”と認めたがらない燐に対し、同情的な視線を燐に送っていた大人たちが怒り狂う。
 同情させろ。哀れませろ。心強い存在のように振る舞わせてくれ。自分のなかにあるはずの優しさのような何かを思い出させてくれ。
 燐は、そういう嘆きに晒された。悪い噂が流れ始める。味方がひとりもいなくなっていく。四面楚歌。
 ある日ふと目を覚ますと、首筋にくっきりと赤い手形が浮かび上がっていたみたいに。
 哀れだな――と思った。
 なんて。
「可哀想な人たち」
 と。

 燐は他人の心が理解できるようになった。
 それと同時に、自分の心がわからなくなった。
 確かに自分は相対的に見れば不幸で可哀想な人間なのかもしれない。
 だけどそれを自分でそうとは感じられない。テレビに映る楽しくて暖かくて幸せそうな家族の姿を見ても、少しも羨ましくはならなかったし、今も服役中の母親を恨む気持ちすらも想起できない。
 ただ、あるだけ。そこにいるだけ。ここにあるだけ。
 物質的だと自分で思った。他人の心は、いくら理解できても所詮は観測と推測のみで成り立つ――不安定な情報を読み解いた成果物でしかない。けれど、自分の心は直接覗けてしまうのに、それをもやはり客観的な視点から、観測と推測によって読み解くしかないことに気付いて。
 狂いそうになった。
 実際、狂っていたのかもしれない。
 燐は、たびたび、悪魔の姿を見るようになった。尤も、その“男”がそう名乗っていただけで、燐には――その本意も客観的に推測するしかなかったのだが。
 小学五年生になった秋。学校からの帰り道。紅葉が綺麗だった。
 出所した母親が、燐のもとに現れた。
 一緒に帰ろう。そう言って手を差し出された。
 燐は自分のなかに生じた――得体の知れない熱に惑った。
 何かが喉の奥からこみ上げてくる。
 心とは、即ち思考だ。燐は、小学三年生の時に、心の意味をそう定義した。だったら、思考とはなんだ。結局、辞書的な説明だ。知らない言葉を知るのに、また頁を繰る必要がある。
 もっと直感的に物事を理解できればいいのに。
 それは既に実現された願望だった。
 目の前で微笑む――実の母に対して、燐が抱いた感情は。
 嫌悪。
 それで多分、恐らく、きっと――間違いない。
 なのに涙が溢れてくるのは、悲しみもまたそこにあるからなのか。
 燐には、他人の心が理解できるようになっていた。
 以前の燐なら、ただ意味も理由も心もなく、母の言葉に従っていた。
 だけど、今は「嫌だ」と思う。それは駄目だ、と。
 その差し伸べられたように垂らされた糸を掴んだ先にある絶対的絶望を、今の燐なら、すべてわかるからだ。
 母の背後に止まる黒いキャラバン。その窓からこちらを見つめる見知らぬ男。
 燐は何も言わずに目を瞑った。それは、単にはっきりと、目の前にある現実から逃れたいと願ったからだ。
 それを聞き届けたのが天使ではなく悪魔であったことが、今にしてみれば実に自分らしいと燐は思う。
 そしてその時、燐は生まれて初めて――人を殺した。
 頭が潰れて醜く変形した母の姿は、あまりにも物質的で、あまりにも――可哀想で、あまりにも馬鹿馬鹿しかった。
「あハ。――ハハ。アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
 赤く濁った瞳で笑う。左右のこめかみから生えた鋭い角と、色素の奪われた真っ白な肌と、未だかつて経験したこともない――食欲と飢餓でもって笑う。
 その開放的な笑みには自由があった。悦楽があった。戸惑いがあった。
 そしてやはり――何かをなくした悲しみがあった。
 今、燐は準悪魔として生きている。
 時折暴れ回って、人を殺して、血の臭いをかぎ付けてきた非正規英雄を返り討ちにして。
 後はずっと――東京は板橋区の外れにある月/六八〇〇〇円のアパートの一室で、引きこもり同然の生活を送っている。
 決して、何かが嫌になったからそうしているのではない。寧ろ、何もかもが順風満帆であることを感じていた。身元不詳の中学二年生である自分にありとあらゆる法を破りながらも部屋を貸してくれる仲介業者と出会えたのは幸運という他なかったし、生活資金は潤沢過ぎるほどにある。
 ただ、漫画やアニメ、ネットゲームといった未知なる娯楽を知ってしまったことで燐が感じる日々の充実度と反比例して人間社会に対する興味は失われていってしまった。
 今はもう、ネトゲの期間限定イベントのことしか頭にない。昼に目覚めればログインボーナスのことが頭を過ぎるし、一週間の区切りは漫画雑誌の発売曜日が基準となっている。アニメは実況板でレスバトルをしながら観るのが常で、最近は趣味としてイラストも描き始めたことで某SNSではそこそこ名の知れた存在となっている。
 不満などない。怯える必要などない。ここは素晴らしい。
 だけど――。
「スクブスー! スクブスいる~!? あたしあたし! 不愉快なる反逆者、ベリアルちゃんの登場なんだけど~」
 がんがんとノックされた扉が薄い金属板かと錯覚させられるほどに呆気なく凹む。先日付け替えたばかりの鍵がばきりと歪な音を立てて、扉の蝶番がぎいいと錆びた音を立てる。
 燐は――理解していなかった。
 準悪魔になるということが、その名を冠した一種の巨大なコミュニティに属することに直結しているということに。
 玄関の扉を破壊してずんずんと部屋のなかに押し入ってくる真っ赤な洋服を着た少女の名前を――ベリアルという。これは無論、自称だ。彼女は紛れもなく純血の日本人だし普段は現役女子大生として暮らしている――ただの準悪魔なのだから。
 それっぽい名前で自らを縛る理由などない。――ない、はずだ。少なくとも燐は聞いたことがないし、そういう欲求に対する共感も覚えたことがない。
 だから、スクブス――夢魔の一種でサキュバスとも――などというぞっとする名前で呼ばれるのは不本意だし、彼女のこともベリアルではなく飽くまで山辺莉愛やまべ りあとしか認識していない。
 山辺は実にふれんどりぃな女だった。たまたま一度同じ現場で仕事をしただけなのに、強引に連絡先を交換させられ、頻繁に「今どこにいる?」「何してる?」と目的も意味もないメッセージが送られてくる。
 もちろん基本的に無視しているし、必要以上に仲良くしたくないという気持ちはへたくそながらも完璧に伝えきったはずなのに、それでも彼女はこうして家にまで押しかけてくる。
「スクブスさ~、最近ちゃんと仕事してる~? なんかどこの現場行ってもあんたの姿見ないから、どっかで死んじゃったのかな~って心配してたんだけど~。そんで調べてみたら、ネトゲにはちゃんと毎日ログインしてるし~」
 山辺が閉め切られていたカーテンをしゃーっと開ける。一週間ぶりの日光を浴びた燐は、有害物質を頭から被ってしまったかのように呻き悶え這い蹲る。
「か、かえって……。と、……とゆうか、な、ななな、なんで、ログインとか……山辺が、……し、し、知ってる……」
「なんで~って、あんたと同じクランに入ってるし~」
「え、……ええ!?」
 久しぶりに腹の底から声が出た。
 クランとは同じネトゲのユーザー同士で組めるチームのようなものである。
 慌てて確認すると、山辺と思しき“ベリアルちゃん”なるユーザーが一ヶ月ほど前に燐の所属するクランに加入していた記録が見つかった。メンバー一〇〇人を超える大所帯だし、人の出入りも激しいから気が付かなかった。
「す、すす、すとーかー!」
「スクブスがさ~、心配なんだよね~」
 心配。
 それは――可哀想という意味か。
 陳腐で安易で量産的な――哀れみなのか。
 そんな視線を飛ばした燐だが、すぐに彼女――山辺の微塵も隠そうとしない軽薄なへらへらとした笑いに、絆されてしまう。
 言葉とそこに宿る感情が全く以て釣り合っていない。
 だけどそこに矛盾はなくて、形もそれほど歪じゃなくて。
 憎らしくもあるけれど、それが彼女の嘘偽りのない本心であることくらいは――流石の燐にもすぐにわかった。
 これでも人を見る目はあるほうだ、と燐は思っている。
 山辺は悪い奴ではない。
 だけど、それでも……燐にとっては余計なお世話なのだ。
 生きとし生けるものどもは、孤独に逃れたい者と、真に孤独を愛する者で大別される。燐は自身が後者であることに強い確信と誇りを持って生きている。
 いくら心の底から気にかけてくれたって、友達だ――って思ってくれたって。
 この神聖なる六畳間に、山辺の居場所はないのである。
 改めてその気持ちと決意を三〇分ばかりかけて一生懸命説くのだが、
「いや~、あたしはさ~、スクブスのこと、妹みたいに思ってんだよね~」
 まるで話が通じなかった。


 四谷真琴。
 彼はそう名乗った。
 いくら怠惰であるとはいえ、此原燐は準悪魔である。
 非正規英雄と出会えば死合う。
 ある霧の深い朝の河川敷。ジャージ姿でジョギングする大学生の姿も、犬を連れて散歩をする老人の姿も――まるで見えない。
 燐は、そこで溺れる夢を見た。
 それは全てが上手くいく夢だ。
 公園を走り回る――幼い燐と、それを心配そうに見守る父と母。誕生日パーティには学校の友達もみんな集まって主役の燐が蝋燭の火を吹き消すのを今か今かと待ち侘びている。
 笑っていた。みんな楽しげに笑っていた。血なんて誰も流さない。些細なことで怒ったりしない。悲しいからって、泣いたりもしない。
 狂って解れて壊れてしまったとある世界の物語。
 人は寿命を迎えない。病気もしないし、汚らわしいから恋も愛も存在しない。ただ笑っている。笑っていれば幸せになれるから。ただ、笑い続けるだけの世界。確かに幸せそうではあるけれど。
「気持ち悪い」
 燐は、改めて思った。
 やっぱり、自分はそこそこイケてる人生を送ってきたんだ――と。
 目を覚ますと、燐は川の浅瀬で水浸しになりながら、もやのかかった空を仰いでいた。
「君も、帰ってきたんだね」
 川べりに立った四谷が見下ろしている。
 いつでも殺せるはずなのに、彼は武器さえその手に見せもせず、ただ悠然と微笑んでいた。
「なあ、僕らの敵よ。――悪は正義か? 正義は悪か?」
「……興味、ない。私は……ひとりに、なりたいだけ」
「わかるよ。だけど、他人が放っておかないだろう」
 燐は四谷と目を合わせる。
 あれ――と思った。当たり前のように男性だと思っていたけれど――。
「放っておかれるのにも、相互理解が必要なんだよ。君が本当の意味での孤独を希求するならば、君はその思想を理解してくれる仲間を得る必要がある」
 ――人は独りじゃ孤独にもなれないのさ。
 彼はそう言う。
 燐は、そうかもしれないと思った。
 差し伸べられた手を――燐は無意識に掴んでいた。


 喫茶店フロリダ。
 そこに彼がいた。
 石動堅悟。
 いつか山辺に要注意人物として見せられた写真よりかはいくらか精悍な顔つきになっていると思った。それが彼にとっての成長なのか――或いはその逆なのかはわかり得ない。
 この男は強い――という話だ。
 けれど力の強さを語るなら、カイザーやバハムート、彼と同じ非正規英雄ならリザといった教科書に載るクラスの化け物どもだけで充分じゃないのか。
 石動堅悟がそのレベルに達しているようにはとてもじゃないが思えない。
 それでも彼には明らかすぎる実力差を埋める――或いは覆す、何かがある。
 四谷から聞いた言葉を、今度は自分自身のものとして燐は物言わずに反芻する。
 だけど、強さとは正面からのぶつかり合いだけで測れるものではない。仮に堅悟がいずれ最強の男に成長しても今から見える未来は呆気なく訪れる当然の死だけだ。
 強い力を持ちながらも馬鹿みたいに無力。
 自分と同じだ――と燐は思う。
 求めるものと必要なものがあまりに相反していて現実と向き合うのが辛い。怖い。辛い。
 ――燐は堅悟を殺すつもりでここに来た。
 四谷がそうしろと言ったからではない。
 人を見る目だけはある。燐は今でもそう思っている。
 見誤ったことなど一度もない。だから、今度もそうだと確信している。
 石動堅悟は、生きていてはいけない。
 この男は――最悪である、と。
 燐の体内に棲み着く黄金色の虫が、告げていた。
 四谷真琴がその行列を見たのは彼がまだ五歳の頃だった。
 何かを待ち受けるように寝間着姿の男たちが、俯きながら列を作っている。けれど、その先頭の男が目の前にしているのは、何もないただの壁だ。
 暖簾のれん格子戸こうしども暖かな光もない。
 それでも彼らは導かれている。
 彼らは一体、どこへ向かおうとしているのだろう。

 元非正規英雄と現役準悪魔による殺し合いが始まったのはその日の最高気温を記録した午後二時三十五分のことだった。
 場所は大宮にある半世紀以上の歴史を持つ競輪場だ。本来ならレース中の時間のはずだが、四谷の能力によって来場客も選手も――運営スタッフもみんなが眠りこけている。
 戦ってみればわかる。
 四谷真琴はそう言った。
 しかし、石動堅悟には此原燐の右腕を吹き飛ばした今になってもわからない。ひょっとすると、このまま彼女の息の根を止めてもわかり得ないのではないのかとさえ思う。
 燐の傷口が煙を立てる。あぶくを立て始める血液を見て、堅悟は土煙のなかで舌打ちを鳴らす。
 燐の戦闘スタイルは接近戦が主だ。武器を持たず、丸太のように発達した両腕を用いて一撃必殺の攻撃を繰り出してくる。膂力りょりょくに絶対的な自信があるのか、彼女の戦術には芸がない。猪突猛進の如く、正面から突っ込んでくるばかりだ。
 堅悟はそれを真正面から切り伏せる。燐は避けない。腕が飛ぶ、脚が飛ぶ、噴き出た血飛沫が競輪場のバンクを汚す。それでも燐は止まらない。口の端に笑みを浮かべ、致命傷だけを避けながら堅悟の心臓か頸動脈を狙い澄ます。
 脅威となるのは切断の能力だけだ。格闘技の心得もあるようだが、燐にとって致命の一打は持っていない。それと何か――違う生き物に変身する能力もあるようだが、今のところは脅威とは呼べない。
 ただ、堅悟の呼吸は安定している。目の前に迫る敵に対して、どのように立ち回れば良いかを完全に心得ているかのように、回避から攻撃、間合いの取り方まで全てが滑らかに繋がっていた。
 燐は思う。この男は、強い――と。だが、それと同時に確信を深めていく。この男は、ここで死んでおくべきだ。そもそも長生きをするような人間ではない、と。
 今度は、燐の喉笛が切り裂かれる。水道管が破裂したように、粘着質な血液が塊となって弾け飛ぶ。
「あーあ、弱いなあ、燐ちゃん」
 観戦スタンドにて鯛焼きを頬張りながら四谷がため息をもらす。
「……いや、石動先輩が強すぎるのかな?」
 それにしても酷い戦闘風景だと思った。堅悟も燐も血みどろのどろどろ。遠く離れた場所にいるはずの四谷にさえ血の雨が降りかかっている。そして、血を浴びた時に思ったのだが、この血液は何故か――熱い。どこか燃えるような熱を保っている。それは乾いてジャージの染みになった今も変わらない。
「まあ、“まだ”だよね? 燐ちゃん」
 四谷は頸動脈を切り裂かれても尚復活した燐に笑いかけた。
 堅悟はじりじりと皮膚を焼かれる痛みに耐えながら、それでも大剣を燐の脳天に振り下ろした。全てを断ち切るつもりが、間に差し込まれた右腕一本に邪魔される。宙をくるくると舞うのは、その片腕一本だけ。
 舌打ちを鳴らす。また血を浴びた。――熱い。まるで焼けるような熱さだ。その熱が、堅悟の集中力を奪う。
 彼女の致命傷とは、一体どこを断てば探り当てられるんだ。
 そもそも、殺す?
 それが本当に俺の――選択肢なのか?
 堅悟は目許を拭う。それと同時に心の隙間に生じたふとした迷いも振り払った。
sage