陽が沈むころ、俺は江東区のアキコ邸に戻った。
 アキコから預かっていた合鍵で玄関の施錠を解き、扉を開ける。
「ただいま」
 帰宅の合図を告げると、エプロン姿のアキコがやってくる。
「おかえり。ご飯出来てるよ」
 笑顔を浮かべたアキコの姿は妹ではなく、まるで新妻の様だと思った。
「あれ?随分、大荷物だね」彼女はキャリーバッグを見て言う。
「ああ、諸星から貰ったんだ」
 俺が言うと、彼女は首を傾げる。
 そして俺はアキコに合鍵を渡し、続けてキャリーバッグの中から、数枚の紙幣を取り出し手渡した。
「どういうこと?」
「突然だけど、この家を出るつもりだ。これは今までお世話になった御礼、宿泊費に食費に、その他雑費だ。本当にありがとう」そう言って頭を下げる。
 頭を上げるとアキコは手に取った合鍵とお札を眺めている
「住むところは大丈夫なの?」
「アパートは電気以外も止まってるかもしれないな。だけど、いつまでもここに泊まる訳にはいかなくなったから、しばらくは適当な宿で済ませようと思う」
 俺の言葉に対してアキコは「そうなんだ」と言い、少し考える様子を見せるが、「じゃあ支度しないとね」と思いの外あっさりと受容した。
 そして俺は家の中へ足を踏み込む。
 居間では、みそかが渋い顔をして珈琲を啜っている。その様子を見兼ねたアキコはカップへさらさらと砂糖を注いだ。
 俺は少ない荷物をさっさとまとめると、それをキャリーバッグの空いたスペースに詰め込んだ。
「そうだ。みそかも、連れていかなきゃいけないんだ」
 俺が言うと、アキコはみそかを眺めて、「そうなんだ」と言った。
 淡々と、本当に淡々とアキコは作業を進める。荷物が揃うと、玄関先に三人揃って立った。
「なあ。何も聞かないのか?」そう尋ねると、アキコは腰に手を当て、考え込む様子を見せる。
「ずっと話せない事情があるのは分かってるし。この場で引き留める程、空気が読めない訳でもないからね」
「そうか」
 いざという時、アキコが達観した様子を見せるのは相変わらずで、大したものだと感心してしまう。
「だけど、合鍵は受け取らないでおく」
「どうしてだ?」
「本当に短い間だったけど、家族みたいな関係で居られたのは凄く嬉しかった。その関係を解消にはしたくないんだよ。だから、その合鍵が家族の証みたいなものかな」
 家族か。
 両親と兄を亡くして、何年も一人で暮らしてきた彼女の心境を計り知ることはできない。だが家族という関係を欲し続けているのは何となく分かる。
 俺もアキコと同じような状況に置かれているからだろうか。
 そして、「ありがとう」と俺は言って、鍵を受け取る。
「あと、そのコート。凄く高価な物なのは分かるけど、いつもそればっかりだから。これ持っていきなよ」
「…いいのか?」
 アキコが差し出したのは、初めて出会った時、彼女が羽織っていた、兄の形見であるパタゴニアのフリースだった。
「いいよ。だけど、いつか返しに来てね」
「…分かった」
 フリースを手にして、再びアキコと目を合わせた時。理由が出来たと思った。
 全てを片づけて、生き延びなければならない理由が出来た。
「ご飯も作っておくからね」
「ありがとう」
 彼女は別れの際まで笑顔を絶やすことはなかった。
 
 そうして、俺達はアキコの家をあとにする。
 一先ず俺のアパートに戻ってみようか。そんな事を考えながらキーケースを取り出した。
 俺は預かったばかりの合鍵を取り付ける。
「沢山だね」隣のみそかが、キーケースを眺めて言った。
 彼女の言う通り、返却するのを忘れていた前の職場の鍵がついていたり、得体の知れない鍵が付いていたりする。そんな中で、俺のアパートの鍵が2つある事に気がついた。
「アキコに渡しておいても良かったかもしれないな」俺はアパートの鍵を眺めて、呟いた。



 思い返すだけで脳内が色めく。
 すごく良い気分だ。
 何もかも巧くいく。
 まるで神様にでもなったようだ。
 竹ノ内豊も、その仲間達も、華族も組織も、桐谷だってそうだ。
 みんな思い通りに動いてくれるじゃないか。
 否、思い通りというのは些か、誇張気味ではある。
 それでも私の手でみなが都合の良い方向へ動いている事は間違いない。
 だから、つい自己陶酔してしまう。
 だけど。
 私が欲しいのは、神の如き力ではない。
 私が欲しいのは。