Neetel Inside ニートノベル
表紙

なつのひ
1

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蝉の声、川のせせらぎ、風が通り抜け葉が擦れかさかさと音を立てた時にふわりと薫る、緑の匂い。
季節に『匂い』を感じるのは奇妙なことかもしれないが、それでも朝倉あきらは祖母が暮らす群馬の片田舎で『夏の匂い』をはっきりと感じていた。

8月半ば、所謂盆休み。
東京の私立高校に通うあきらにとっては夏休みという天国中である。
先祖に顔見せだのなんだのは昨日のうちに済ませ、今は滞在二日目でなにもすることがない。
ならば『働け』と、野暮用を頼まれて畑へと繰り出していた。

時刻は午前10時。
西の空に高く浮かんだ太陽は、まだ正午前だというのに容赦なくあきらの身体を炙ってくる。
しかしそこは都会の女子高生、夏休みの思い出に日焼け跡は要らない。
麦わら帽子を祖母の家から借り、露出した部分にはSPF50、PA++++の日焼け止めを完璧に塗ってきた。
お気に入りのプリントTシャツに、ジーンズのホットパンツ、履き慣れたスニーカー。
周りから見ればこんな姿のあきらなど田舎町の少女にしか見えないかもしれないが、それでもよかった。
最新コスメや俳優やドラマの話題についていかなければいけない東京とは違うのだから。
今はただの夏休み中の少女として、田舎を満喫する権利がある。

祖母、イツの頼みは至極簡単。
『畑に水やりをしてくれ』。
『いい具合に育ったきゅうりがあったら収穫してきてくれ』。
『おやつに食べるすいかを川で冷やしてきてくれ』。

たったこれだけである。
重みではち切れそうだったビニール袋に収まったすいかはとりあえず畦道の隅に寄せておき、間違って蹴られたり踏まれたりしないように念のため近場になぜかあった金ダライを被せておいた。
なんとなく、日除けにもなる気がする。
本来であれば持ち歩くのが理想ではあったが、軽く5kgはありそうなくらいでかでかとしたすいかなんぞを持ち歩いたら、日が暮れる前に腰を壊してしまう。
なので仕方なく、仮の置き場としてあそこに置いてあるだけである。
先に川に行ってすいかを冷やしてくることも考えたが、川へは軽く徒歩10分はかかる。
ならばとっとと水やりときゅうりの収穫を済ませ、イツにきゅうりを渡してから畑に戻ってすいかを持って川へ行くのが最も効率が良い、という判断からこうなった。

イツは今年の春あたりからリウマチを患っていることが発覚し、畑の世話もままならなくなってしまった。
母は『私達と暮らして、東京で治療を受けよう』と提言し続けているのだが、イツは慣れ親しんだこの田舎町に郷愁を抱いているらしく、離れることを嫌がった。
結局、隣町にある車で30分はかかる小さな総合病院で治療を受けているらしい。

ぷつん、と軽い音を立てて、少し捻じれながらも大きく育ったきゅうりがあきらの右手に収まる。
少しぶつぶつとしていて、軽く握るとその棘のようなものがほどよい刺激を与えてきた。

リウマチを患いながら、普通の人より時間をかけながら、それでも祖母、イツが愛してきた畑。
そう思うと、面倒な頼みも無碍にはしづらい。

「……はぁ。私もつくづくお人よしだ」

そもそもおやつ用に冷やせと言われたすいかだって、食べるのはあきら一人ではない。
祖母は当然として母も父ももちろん食べるし、死んだ祖父の位牌の置かれた仏壇にだって供えられるし、近所に住む子どもらも来るだろう。
確かにあきらは暇を持て余しているが、だからと言って自分一人がこき使われる道理はない。
むしろ、前倒しで高校から出された宿題を全て片付けたご褒美に田舎の自然を満喫してダラダラ過ごさせて欲しいくらいだ。
それでもイツの頼みを断れないのは、イツの愛する田舎町に自分の存在を少しだけでも刻み付けたいからなのかもしれない。
ただ都会であくせく生きていくのとは違った時間が流れている気がした。
羨望なのか、ただの興味なのか、その感情にまだ名前は付けられない。

     

きゅうりの収穫はただ単純にもいでいくだけで良いので意外と簡単であったが、育つのが早いのか結構な量になってしまった。
籠いっぱいに収まった鮮やかな緑に嘆息を漏らすと、イツのところへ持って行こう、と持ち上げる。
日差しは先ほどより苛烈さを増していて、麦わら帽子が鮮明な影をあきらの顔に落とす。
さすが栄養素が無い野菜と言われるだけあって、籠の重さは大したことがなかった。

「あらぁ、早いねぇあきらちゃん。ありがとう。助かるよ」
「ううん、このくらい簡単だし。まだすいか冷やしてないから、ちょっと行ってくる」
「はいはい、お願いね」

やりとりは、言葉少なに交わされる。
年に1、2度会うだけの存在であるが、あきらにとってイツはそれなりに好きなお婆ちゃんである。
しかし、ここ最近はイツのリウマチの件もあって、どう接すればいいのか分からなくなってしまった。
母や父はイツを心配して東京に来いと言うし、私までおばあちゃんの田舎暮らしを否定したら、居場所が無くなってしまうのではないだろうかと思って。

あきらだって、心配していないわけではないのだ。
2011年の震災で崩れ落ちなかったのが不思議なほど、イツの家は古ぼけている。
母親が産まれるより前に建てられたらしい木造建築の平屋。
風が吹けば鳴るし、人が歩けば少し揺れる。
トイレは暫く汲み取り式だったが、4年前に父が水洗便所に工事させた。
それらがイツを東京に来させようとする母親たちの心配に拍車をかけているのだが、イツは決まって『そのうちねぇ』と言うだけである。

その『そのうち』が、いつまで持つのか。
あきらには分からないし、なんとなく分かりたくないとも思っていた。

とりあえず、私達が来ている3日間だけでもおばあちゃんが楽しく過ごせれば、孫としてはOKなんじゃないだろうか?
逃げの結論とも言えなくはないが、あきらの中ではそういうことに落ち着いた。
一度地面に降ろしてしまったすいかはビニール袋に水をかけて泥を落とし、自分の服が濡れるのも厭わず抱えるように持ち上げた。
どうせ川に行くのだし、ある程度濡れても問題は無いだろう。
持ってきた時同様手提げ形式で行くなんて、今にもはち切れそうなビニール袋の持ち手を見ればそんな選択肢はありえなくなる。

5kgを抱えながら、田舎道をてくてくと歩いて行く。
これが東京であれば、ビルなりコンビニなりカラオケなり、なにかしらの建物が道という隙間を除いてひしめきあっているはずだ。
しかし今のあきらの双眸に映るのは、高く澄む空の青と、水彩画みたいに浮かぶ白い雲と、遠くに見える山の森の緑と。
地に足を付けていてもこんなに遠くが見渡せる場所は、少なくともあきらの知っている東京にはない。

川への道はうろ覚えだったが、意外となんとかなった。
と言うのも、ほぼ一本道で迷う要素が無かったからなのだが。
途中で森のような林を抜ける羽目になったが、それも人の足跡が作ったらしい獣道があったし、水の流れる音を頼りに辿りつくことができた。

まず、記憶との齟齬が1点。

この川、こんなに流れ早かったっけ?

幅としては7~8mあるかどうかというところであったが、水はざあざあと音を立てて激しく流れていた。
そこに関しては昔の記憶と変わらない。
むしろ、自分が成長したことによって川幅が狭く感じられるくらいだ。
さすが田舎なだけあって透き通る流れは太陽の光を反射してきらきらと煌めいている。
流れが激しく見えるのは、自分が大人に近付いて、こういうアトラクション的な物への抵抗が強まっているからだろうか。

遊んでいる子どもでもいるかと思ったが、無人だった。
そりゃそうだ、この町に暮らす人からすればこんなただの川は珍しくもなんともない。
とりあえず、すいかを冷やせそうなところを探すことにした。

「んん~……あの岩の裏なら……」

川の上流目指して河原をてくてくと歩いて行くと、流れを遮るようにでかでかと鎮座する大岩を見つける。
あの岩の足元なら、流されずに、なおかつすいかを完全に水に浸して冷やすことができそうだ。
よし、と自分を奮い起こすと、すいかを抱きしめ直して川に入る。

そして、記憶との齟齬2点目。

この川、こんなに深かったっけ?

岩へあと2~3mというところで、既に水深は太腿のあたりまで。
これ、遠くから見たら岩の傍ってめっちゃナイスポジションに思えたけれど、実はそうじゃないんじゃない?
そんな思いがあきらの脳裏を過ぎったが、他にすいかを上手く冷やせそうな場所は見当たらない。
そもそも、すいかの為にこれ以上あっちこっち右往左往したくない。
ただでさえ5kgを抱えて15分は歩いているのだ、さっさと済ませてイツの家に戻りたい。

ならば、と再び自分を奮い起こすと、すいかを抱きしめ直して岩へと近寄らんとする。
流れに足を掬われないように一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと歩き、なんとか岩の傍まで来ることが出来た。
予想通り、岩に遮られた流れは分断されており、岩の裏側は水の流れが少なくなおかつ影になっている。
ここに置いておけば、おやつ時までには冷えるだろう。
すいかを降ろして川に沈め、少し離れて念のため暫し観察。

よし、大丈夫。
すいかは流れて行かない。
なら、ここで冷やすことにしよう。

     

いっぱい動いたせいか、お腹が空いてきた。
きゅうりを収穫したから、採れたてのきゅうりに味噌を付けて頂くのも良いなぁ。
おばあちゃんの作るカレー、なんか懐かしい味がして美味しいんだよねぇ。

そう思いながら、河原へと戻ろうと足を踏み出したその刹那。

「いっ……!?」

川底のぬめりに足を取られ、あきらの身体はバランスを失う。
激しい流れはそれを後押しし、あきらはあっさりと川に飲み込まれた。
落ち着け、ここは足の付く水深の浅い川なんだ。
そう思って体勢を立て直そうとするも――。



――視界が、ぐるぐると回る。

これは何処かで見たことがあるような、そう、たぶん小学生の頃お父さんに連れて行ってもらったプラネタリウム。

紺碧と閃光とがめまぐるしく入れ替わって、夜と朝を何回も繰り返したような、そんなビジョン。




「……おい」


ぶっきらぼうな声に、縹渺としていた意識を手繰り寄せた。
びしょ濡れの身体は日差しに炙られて生ぬるくて気持ち悪くて、でも何が起きたか分からないからとりあえずうつ伏せの状態から身体を起こす。
太陽を背負ってあきらを見ていたのは――何かどこか見たことのあるような顔をした少年だった。
既視感、と言うのだろうか。
しかしその答えがどこにも見つからなくて、友達の持ってきた雑誌にこういう感じの顔をしたモデルがいたのかもしれない。
地味であるが目鼻立ちは整っていて、少なくともあきらからすれば嫌いじゃない。

少年は小麦色に焼けた腕をあきらへと伸ばし、あきらが立ち上がるのを助けようとする。
あきらはその手を掴み、立ち上がった。
少年はあきらより少しばかり目線が高いが年頃は同じように見える。

「なんか溺れてたから引っ張ってきたけど、お前この辺の奴じゃないよな? 誰の親戚? 送ってやるよ」
「助けてくれたの? ありがとう。じゃあ迷惑かけついでに、送って行って貰ってもいいかな」

……田舎の人って親切だなぁ。
思っても口にはしない。
『田舎』という言葉に差別的なものを感じ取られるかもしれないと思ったから。
溺れていた(とは信じたくないが)自分を助けてくれた恩人の少年に失礼なことは言えない。

溺れてしまったことがイツや母にバレては心配をかけるだろう。
なので、彼の厚意に素直に甘えることにした。
ちょっと遅くなったのは彼と話していたからだということにでもすれば都合が良いと思ったからだ。

少年はさっさと帰るぞと言わんばかりにくるりと踵を返すと、町の方角へ向けて歩き始めた。

「流石に地元で人が溺れ死んだら気分悪いからな。俺は朝倉あきら。お前は?」


――え?


その言葉の意味を理解するのに、幾許かの時間を要する。
今、この子、何て言った?


「ちょ、ちょっと待ってよ。朝倉あきらは私の名前。もしかして私のこと知っててふざけてる?」
「は? どうしてそうなるんだよ。お前の名前なんか知らないし、俺は朝倉あきら。お前こそふざけてんのか?」

胡乱気な視線があきらを射抜く。

まさか。
まさかまさか。

信じられないが――。
いや、ちょっと待った。
その前に確認しておこう。

「分かった。じゃあ一つ確認しよう。おばあちゃんの名前は?」

少女あきらの、ちょっと強気そうに見えるねとよく言われる瞳が、あきらと名乗った少年を見据える。
あきらの想像が間違いでなければ……いや、間違いであってほしい。
そう祈りながら、口を開く。

「「イツ」」

ソプラノとテノールが綺麗に重なった。

……ああ、どうやら、これは。
大変な事になってしまったらしい。

       

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Neetsha