3 メーデー

「あたしにもさ、神様が見えるんだよ」
 滴り落ちた水滴が、ぽちゃんと水面に波紋を生み出す。
 立ち上る湯気。反響する声。空気がしんと冷えるから、湯船に肩まで浸かりたくなる。
 ここは無人だ。無人っていうのはつまり、私の知らない人がいないっていう意味で、この町にひとつしかない大衆浴場には、私と萌々子と――先輩の三人だけ。
 番台にいるお婆ちゃんは見るたびに死に近付いている雰囲気で、話しかけてもうんともすんとも言わないから、お金についてはちょっとだけ誤魔化している。
 銭湯に行こうと言い出したのは先輩だ。汗をかいたわけでもなければ、この銭湯に何か特別な効用があるという話を聞いたわけでもないから、多分彼女は裸になりたかっただけなのだろうと思う。
 先輩が直前になって「料金システムがよくわからない」と泣き言を言い出したのには呆れた。誰もいないからといって身体も洗わず湯船に飛び込むところが大嫌いだし、自分の身体を洗わないくせに私の背中を執拗に洗おうとしてくるところにぞっとしてしまう。
 死ねばいいのな、と思いながら、私は湯船のなかでぶくぶくと泡を立てる。
 先輩は早くものぼせてしまった様子で、足先だけをお湯に浸しながら、どこか懐古的な眼差しで壁に描かれた噴火中の富士山を見上げていた。
「初めてあれが見えたのは、小学五年の運動会でだったかなあ」
 以下、回想。
 先輩は頭があんまり良くなかった。それなのに好奇心だけは人一倍旺盛だから、先輩のお母さんはノイローゼになって五回ほど自殺未遂を繰り返したあと、電車のホームに身投げして本当の本当に死んでしまったそうだ。
 先輩は走るのが得意だった。周りの女の子たちが、足の速い男の子にお股を濡らしている間に、先輩は夜の遅くまで走り込んで、相手が男子だろうと相撲取りだろうと誰にも負けない完璧な肉体を作り込むに執心していたそうだ。
 小学五年生になった時、運動会の学級対抗リレーでアンカーを務めることになったらしい。
 先輩にはライバルの男子がいた。一一歳にして身長一七〇㎝を超える巨躯を誇り、一〇〇メートル走の非公式記録で一二秒台前半を叩き出す紛れもない怪物だったそうだ。
 件のリレーで先輩とその男子の直接対決が実現する運びとなった。
 周りは大いに盛り上がったそうだ。世紀の一戦。伝説の始まり、或いは終わり。ララパルーザ。地元の新聞も悪ノリ気味にその対決を囃し立て、運動会当日、集まった来場者数は五千人いるという町の人口のおよそ七割を占めていたとも言われている。
 ところが、周りの盛り上がりに反して、先輩の心中は穏やかではなかった。速い速いと言っても、所詮は女子の割りに――というレベルだったからだ。しかも小学五年生ともなると、一時的に女子が男子の体格を上回る時期でもある。しかし、彼に対してそんな誤魔化しは通用しない。
 野次馬たちが勝手に期待しているだけ。そう思えるなら先輩も楽だった。けれど、先輩は彼に勝とう――と思ってしまった。そのために厳しい鍛練を積んだ。山籠もりをし、素手で熊と格闘し、岩肌が剥き出しの崖から自ら転げ落ちたりもした。
 運動会前日に叩き出した記録は自己ベストを大幅に更新する好タイムだった。
 しかし、彼は当日、会場に姿を現さなかった。不戦勝。いや、不戦敗だと思った。
 なぜなら、その翌々日、近所の川べりで、彼が遺体となって発見されたからだ。

「その事故、……知ってる」
 それも当然。
 私はその当時、小学三年生。同じ学校の、同じ運動会に参加していた。直接対決がどうのこうのという話も聞いていたし、上級生が亡くなったからと黙祷させられたのも覚えていた。
 先輩は物憂げに自分のおっぱい揉みながら、はーっとため息を吐く。
「あれ、さ。犯人、あたしなんだよね」
 かこーん、と鹿威しのような音が鳴る。見ると、髪と身体を丁寧に洗い終えた萌々子が湯桶を踏んで、宙を三回転しているところだった。
「そう、ちょうどあんなふうにさ」
 先輩が笑う。
「普通に事故として処理されちゃったけど、こんな簡単に完全犯罪って成り立つものなんだ――って思ったの、覚えてる」
 濡れた髪から雫が落ちる。
 抜け落ちた長い髪が、先輩の濡れた肩に張り付いて、私はどうして――身体から離れてしまった元自分の一部たるそれら老廃物が、こうも不快で醜くおぞましい存在に感じるのだろうと不思議に思う。
「神ってやつはさ、あたしらが当然持ってる、善悪の価値観ってやつにはまるで興味がないみたいなんだ」
 先輩がすらりとした脚を片方、持ち上げる。まるで外国人モデルみたいだ、と思う。骨格から私と違う。神に愛されたとしか思えない、完璧に美しい造形。多分、心臓の形も違うのだろう。
 嫌いな人に抱く憧れほど背徳的な気持ちはないと思う。
 それを快楽的に感じる私もいることを、神様がいるなら赦してくれるだろうか。
 そういえば、この人は、
 この人と、萌々子は――。
「あたしは、神の野郎の声を聴いた」
 先輩が言う。
 あの野郎は、人を一人殺した罪深いあたしに、こう言いやがったんだ。
「ここは任せて、はやく逃げろ――って」
 人間の皮膚って、水溶性なんじゃないかと思う。肌が溶けたあとは、肉を削いで、その奥に眠る何かを剥き出しにさせる。それは追い詰められたみたいに、どこか必死に、必死に。
 先輩は――前屈みになると早熟な色気たっぷりな笑みを浮かべて、ぽちゃんと湯船に飛び込み、ぬらりと私に迫ってくる。
「あたしは言うとおりにした。逃げたんだ。尻尾を巻いて、逃げ出した。そしたら、殺しの事実はなくなった。あたしは何も知らない。無垢なまま。あいつは何の意味も理由もなく、ただ事故死したってことになっちまった」
 ふと見ると、萌々子がまた髪を洗い直している。シャンプーハットを装着した彼女の頭が、素晴らしい泡立ちによって二倍か三倍かに膨れあがっているように見えた。
「先輩は、自首しようとか思わなかったんですか」
「思わんね」
 首に腕が絡んでくる。密着する肌には妙なぬめりがあって、敏感な刺激が肌の下に潜り込んでくる。
「ど、どうして?」
「捕まりたくないからだ。それに」
 あれは本当に――事故だった。
 囁くような声で先輩が言う。
 だけど、さっきは自分が殺したって言ったはずだ。
 その矛盾っぷりにも腹が立つ。
「萌々子も、あいつの声を聴けるんだろ?」
 先輩が私の背後に回り込む。そして恋人を抱くように、私の肩にあごを乗せて、耳を甘く優しく唇だけでそっと咬んで、
「なあ、桜木」
 四十度近いお湯のなかで、私は寒気を感じていた。
「あの子は、どうしてそんな嘘を吐いているんだ?」
「――え」
 かこーん、とまた鹿威しが鳴った。
 見ると、萌々子がまた別の湯桶を踏んで、宙を四回転半しているところだった。