「海辺(かいへん)メタモルフォーゼ」作:ふろくふろく 0402 05:00

他人の家にいると妙に緊張する。自分ひとりだけではあるが、あまりにも手持無沙汰だ。
なにかありはしないかと視線を巡らせると、食器棚の上にほこりの被ったCDコンポが置かれていた。電源が入るのを確認しそのまま再生ボタンを押す。昔の流行曲が流れ出した。
 誰の趣味かは存ぜぬが、この家の住人にも人並の感性を持ち合わせている人間がいると見える。その音楽は勝手の知らない部屋の中にある種のムードと共に私に居心地を与えてくれた。

耳馴染みのある懐かしいその曲が、空気を振るわせる旋律と共に、十年以上は遡るだろうか、まだ女子高生だった自分にかえらせてくれた。

 あの時も好きな人がいた。

 結局、実りはしなかったけれど、今なら分かる、それは実らなくて良かったことなのだと。



 暫くすると夫と共に家主である義父と義母と、義兄の家族も帰ってきた。無言のうちに義母が音楽を止める。こんなやりとりを何度繰り返してきただろう。
 私が振りまくほんの些細な存在の誇示。この女はそれをめざとく歩き回っては踏み消していく。そうして私には一言も声をかけず眼もくれずに目の前を通り過ぎていく。
 何もありはしなかったかのように義兄の嫁と義母とが仲良く台所の方へ姿を消していった。夕食の準備であろうか。夕食の段になっても私には何も用意されないはずだ、義父も義兄も家族全員がこの調子なのだ。
 彼らの世界では私は透明人間に成り下がる。なんて嫌味で不気味な連中だろう。それが彼らの常套手段なのだ。



 林立する針葉樹の隙間を縫って、ぬるりとした潮風が吹いてきていた。
 海岸の方には街灯がチラホラと多少心もとない数だがついている、夫の実家周辺には外灯の一つもなく、夜になると完全な闇に覆われる。そう思うと少しだけ急ぎ足になっていた。

 夫には、「申し訳ないけれど、少し海辺の方まで散歩してきます」と断って家を出た。
 所在無げな私を引き留めることは出来ないと彼も強くは言い出せなかったのだろうか。ただブツブツと、「こんな天気の悪い日に外へ出ることもないが、海岸の方へ行くならそれもいいだろう」と、濁った目を泳がせて私には目もくれようとしなかった。

 頼りない男とは思わない。夫には申し訳ないことばかりしてきた気がする。自分が間違いを起こしているかと問われれば即座に否定するくらいには、自分というものを譲らずに生きてきたと思う。私の居場所の一席も夫が設けてくれなかったとしても、それは私の手落ち以外の何物でもないとそう自分に言い聞かせている。

 何故、結婚なぞという社会的制約に踏み切ったのか、私らしくもないと思うし、今でも理由はわからない。
 今まで好きになってきた人たちには明確な共通点があった、それが夫には見えない。今までの共通点がなかったこと。それが私にとっての唯一の救いであり彼の美点であった。

「君になにかを望んだりはしない、君の好きなようにするといい」 

 彼からのプロポーズの言葉であった、言葉とは裏腹に瞳の中には、本音と嘘を混ぜ合わせたような澱んだ輝きが一瞬だが灯っていた。
 今となってはその正体も分からないが、幾度となく、なにもない田舎の只中の夫の実家へと都心から片道三時間もかけ連れてこられては私とて不平の一つもこぼしたくなる、そうした感情は表面上にはつゆとも出さずに笑顔を振りまいていたとしても、そもそもの初めから血のつながりという歴然としたへだたりが私たちを敵対させてきた気がする。
 私と彼らの家族では流れている血の温度が違うのだろう。何にも興味を持たず、関心も持たない冷血な家族に思える。
 では、義兄家族の場合はどうかと言えば、これは夫の言だが、昔は義兄嫁も私と同じであったらしく、今のように最初から家族の一員であったかのように染まってはいなかったらしい。それがともすると先程のような有様になるから、時間の流れというのは恐ろしい。
 私には一生かかっても無理であろう。とにかく、これが今私の置かれている渦中そのもののあらましで間違いない。



 鼠色の雲はいつしか空全体を覆い、日の熱を地表に一瞬たりとも届けはしないと巌とした冷徹さを湛えていた。カーディガンを羽織ってきたが、晩秋ともなると、我慢出来ないような寒さになる。
 それでもあの家に残っているよりは、凍るような寒さに身も心も預け、自愛的に歩を進める方がずっと自分には似合っている。



 海が見えてきた―――それよりも先に視界に入ってきたものにも驚いたが―――そこには大海に陣取るように大きな壁がそびえていた。
 いったいどうしてこんなところに地平線ごと景観を飲み込むような大きな壁をしつらえなければいけなかったのだろう。こんなに地盤の緩い海辺にこの壁はどうやって立っているのだろうか、何か杭のようなものが地中深くに突き刺さっているのか、それとも壁の裏側からついたてのようなものでもって支えているのだろうか。
 その壁に向かってうねる波が体当たりしては波濤をいくつも打ち上げては飛沫を残して消えてゆく。私はただじっと海岸に立ち尽くしてはその打擲(ちょうちゃく)する鞭のような荒ぶる波と壁とを見るともなくぼんやりと眺めていた。

 この壁がこの巨大な壁を望む街の人々の心ごと閉じ込めてしまったのだろうか。
 そんな事を真面目に考えている自分が馬鹿らしく思え、複雑に高まった気がほつれていく。もっと早くこの場所に逃げ込むようにすれば良かった、ここに海岸があるのは知ってはいたが、こんなにも高まった気をいさめてくれるとは思ってもみなかったことだ。

 
 私はそこいらに靴とカーディガンを転がしておき、白のブラウスに膝下まである紺のスカートといういでたちで裸足になって砂浜へと降りていった。少々童心に帰り過ぎたいでたちで、もっと近くで観察してみようと恐れも知らずに海のほうへと向かっていく。
 すると、だんだんと視界に靄(もや)がかかり、それで辺りに霧が立ち込めて来たのは分かるのだが、もっと近づかなければこの壁の正体がわからないと私は何かに乗り移られたかのようだった。

 秋、それも夕刻に差しかかった砂浜は裸足で歩くには冷たかったが、なぜだか服などというもの自体に執着を感じなくなってきていた。ただただ目の前に見える壁に向かって一心不乱に向かって行く。ただそれだけが重要なことに思えてならないのだ。 一瞬のことだった。けつまずいたのかと思うと、身体のコントロールがきかなくなり、前のめりに倒れこみそうになる、慌ててバランスを取ろうとするが、驚いたことに、足先が砂にはまって抜けなくなっていた。 
 壁はもう目の前だというのに、童話に出てくるガラスの靴のようにぴったりはまった足は抜けないどころか、下肢の方から少しずつ砂に飲み込まれていっていた。
 不意に夫の言っていた言葉を思い出した。

「海岸の方へ行くならそれもいいだろう」

 私がこうなると知っていたのではないか。 
 昔からあの男のは得体の知れないものがあった。
 私は今壁の正体を見ようとして、あの男の正体に踏み込んでしまったのではないか。
 考えている間にも身体が地中に深く沈みこんでいく。肢体を動かせば動かすほど、もがけばもがくほど更に深く沈みこんでいく。
 なぜだか、私はもがくのをやめて、ただ空を見上げながら諦念を抱き始めていた。

 私は何者だろう。

 今やそれさえも私にとってはどうでもいい事柄であった。




 
――――最初は実の兄だった。まだ幼かった彼女はその身に灯る感情の表し方もわからず、撥ねつけられるように拒否されて最初の恋を終えた。

――――その次は高校の教師だった。この男とはチャンスがあったが、すんでのところで彼女の精神の未熟さを感じた教師が自分の不埒さを棚上げし、教師としての倫理観と説教を始め、これも未遂で終わってしまった。

――――その次は父親だった。結論からいえば、この一件で彼女の家庭は崩壊し、彼女自身の求めたものさえついには手に入らなかった。

――――その次はテレビに映った連続殺人犯だった。当然のことながらこれも成就せずに終わった。


 彼女はこうした禁忌が肥大化していき、自分が求めるものがどんどんと遠くのものになっていくことにきづいていた。
 罪の意識と共に、そう遠くない未来、自分が破滅しているだろうことも悟り始め。 恐ろしい未来の予感と自分の内から求めるものの釣り合いのなさに身体中が砕けそうになっていた。
 そんな時に出会ったのが、今の夫だった。
 そうして彼女は救いを得た。
 夫の家族とは円満とは程遠い関係性に陥ってしまったが、自分が掴んだ平凡な未来の方がよっぽど重要であることを理解していた。


 
 日はとっくに暮れ落ち、海と夜闇との分水嶺さえも見分けがつかないほどだった。
 あの大きな壁は忽然と消え失せていたが、彼女の関心はもう既にどこにも向かなくなっていた。
 履いていた靴も。羽織っていたカーディガンも。その場に放置したまま彼女はゆっくりと裸足で家路へと、元来た道を歩いていく。
 そうして、あの家の玄関の戸を開けた時。 

 彼女は初めて、歓待される。

 彼女は彼女自身も知らずして、自分の内側がもっとも欲していたもの。遠く遠くもっとも人間から離れた場所で禁忌を得る。
 しかしそこには喜びも今までの彼女もいはしない。もうどこにも。