「フーズ・ベル・ザ・キャット」作:黒兎 0319 01:26



 やつが脱走を企ててから、一ヶ月が経った。

 おれたちは知っている。
 この世界は箱庭に過ぎない。いつまでも青いままの空はきっとペンキで塗られていて、生い茂る草もどこか作り物だ。腹が減ってくると、いつの間にかエサがどこかに置かれている。何者かが居るのだろうか。気になって辺りを捜索してみると、案の条、脱出口のようなものが見つかった。そこには妙な金属が引っ付いていた。テトラに聞くと、これは人間の使う「ハシゴ」というものだそうだ。
「これはおそらく、人間どもが自分たちのために用意したものだ」
 テトラは金の毛並みを揺らしながら、穴を覗き込む。
 脱出口は闇の温床で、どこまで続いているのかわからない。テトラは脱出口の奥へ一度行ったことがあるそうだが、あいにく「外の世界」へはたどり着けず、錠前のついた扉の前で立ち往生してしまったそうだ。だからテトラはいつも「鍵のようなものを見なかったか」と叫んでいたのだと、おれはようやく理解した。今、テトラは見つけた鍵を足元に置いている。
「ベル、戻ってくるのかなあ」
 同じように覗き込んでいるペンタがつぶやく。ベルというのは一ヶ月前、この脱出口に身を投じた仲間だ。ただ、どうもベルは猫見知り・・・・が激しく、おれたちとは一定の距離を置いたままで、ある日突然この四角い闇のなかに身を投じてしまった。
 おれたちは、ベルが死にたいと思って飛び込んだとは考えない。猫づきあいの悪かったベルだが、「いつかこの箱庭から抜け出してやる」とディンゴが恨めしく言うと、ベルもそれに合わせて肯いていたのだ。
 だからおれたちは思った。
 ベルは、逃げ場を失って闇に吸い寄せられたのではない。
 逃げ場を見つけ、光を求めて飛び込んだのではないか。
「戻ってくると思うか」
 斑模様、ディンゴがいつもの鋭い目つきのまま言う。
「いや、思わないね。おれは思わない。あいつは、ベルは脱出に成功したんだ。だから戻ってこない。外の世界に出られたのなら、わざわざ引き返す理由もねえだろう。間違いない。やつはこのクソッタレな箱庭から、見事脱出してみせたんだ。笑えるね」
「はたしてそうかな」
 テトラが静かに応える。
「たとえばディンゴが、大きな井戸に落ちてしまったとしよう。私たちはディンゴに呼びかけるが、ディンゴから返事はない。そこで私たちは結論付ける。『ディンゴはきっと井戸のなかの生活に慣れてしまったから、今さら助けなど求めていないのだろう。放っておこう』。さて、ディンゴはこれが正しいと思うかな?」
「アホか。んなわけねえだろ。井戸のなかで満足できるのはカエルくらいだ。つうか、井戸のなかに落ちたんだったら、もしかしたら死んでるかもしれねえだろうが。……おい、テトラ。お前まさか、ベルのやつが死んだって思ってるんじゃねえだろうな」
「あくまで可能性さ。否定も肯定もできやしない」
 怒気を孕んだ声で問い詰められても、テトラは落ち着いていた。
「確かめてみるまではね。幸い、私は鍵を手に入れた。闇の深さがどれくらいなのかも計算済みだ。あとは現地に向かって、鍵が一致するかどうか、そこまで確かめる必要がある。もしそこで扉が開いていたのなら、ベルは脱出に成功していたのかもしれない。もちろん、扉を開けることができず、野垂れ死にしている可能性もあるわけだ」
「ぼくたちも、そうなる可能性は高いんだよね」
 ペンタの声が震える。そうだ。このなかに飛び込んでしまえば、後戻りはできない。ハシゴは人間が使うためのものだ。つるつるの壁を猫の爪で登ることは不可能。扉を開けることができなければ、その時点でゲーム・オーバー。そこにいるかどうかもわからないベル(もしくはその亡骸)とともに、命の灯が消えるのを待つしかない。後にも先にも道はない。
「さて。君はどうする、シグマ」
 テトラがおれの名前を呼ぶ。
「全員で一蓮托生となって、ここへ飛び込んでみるか。それとも、特に不自由のない箱庭の生活でいつまでも満足しているか。二つに一つだ。決定権はリーダーにある」
 忘れていた。おれはだいぶ前に、箱庭の猫族における「リーダー」という位置づけを割り当てられていたのだ。
 おれはそういうのはテトラがいいだろうと反論したが、テトラは「私はそういうものには向いていないから」と柔和に断った。気づけばテトラはじめ、残りの二匹の目線もおれに向いている。
「おれは絶対に飛び込むぜ」
 先にディンゴが口を開いた。
「生きていようが死んでようが、ベルのやつを放っておけねえ。残りたいやつは勝手に残ればいい。別にそいつを責めるつもりはねえ」
「……ぼくは、ここに残っていたいかな。うまく飛び降りる自信もないし、それに、箱庭の生活も慣れれば悪いものじゃないと思う。少なくとも、ぼくは満足してる」
 勝手なことを言ってくれる。これじゃあ、どちらを選んだとしても満足の行かない結果になる。ジレンマに悩まされるとはこのことだ。
 おれはまだ決められていない。ディンゴの言うとおり、ベルのことが心配じゃないと言うならそれは嘘になる。かと言って、箱庭の不自由のない生活を投げ捨ててまで飛び込む価値があるのかと問われると、二の句が継げなくなってしまう。テトラに委ねたところで「私は君の意見に従うよ」と流されてしまうに違いない。
 天秤はまだ、微妙なバランスのまま保たれている。
 さらなる自由のため、闇に身を投じるか。それとも今ある安寧のため、動かないままでいるか。わからない。おれにはその二つを、秤にかけることができない。
 でも、どちらかを選ばなければならない。
 おれはそういう場面に立たされている。
 暗がりを覗き込む。脱出口を塞ぐ闇は、二度と戻れない恐怖で満たされているようであり、光の差し込む余地がある希望にも見える。
 沈黙だけが俺を包む。視線を一身に感じながら、おれは心のなかで思う。
 ああ、どうして、どうしてどちらかしか選べないんだ。
 両方の道が存在したままでも、いいじゃないか。