Neetel Inside 文芸新都
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一枚絵文章化企画2017
「夜の海に沈む」作:ヤスノミユキ 0430 23:44

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 背後から土を蹴る音が連なって、波のように寄せる。
 追手はすぐそこまで来ている。
 遊郭を抜け出してから、一刻は経ったか。幸い、日は没しかけている。お天道様がそっぽを向いてくれれば、暗闇に紛れて逃げおおせることもできよう――と、千早は努めて楽観的に考えた。
 裸足で砂利を踏みつけて、登り傾斜の道をゆく。履物はどこで失くしてきたのか、思い出すこともできない。華やかな着物の裾を汚しながら、ひたすら先へ。ちらと後ろを見下ろせば、星を散らしたように御用提灯が光っている。そのうちのいくつかは、千早の方へ向かってきているようだった。追いつかれれば最後、残酷な処罰が待ち受けている。
 だというのに、勢い込んで踏み出した千早を、引き留める声があった。
「ち、千早さん、待ってくれなイカ。これ以上、走れなイカら……」
 声の主はずっと並走してきた同伴者。ところが声の発生源は、隣ではなく足元だ。
 千早はしゃがみ込んで応えた。
「だめですよイカ次郎さん、こんなところで立ち止まっては」
「で、でもよぉ……。俺っち、千早さんみたいにうまく走れねぇんだ。足はたくさんついてっけど、地面を這いずることしかできなイカら」
 イカ次郎はうねうねと触手を動かしながら、惨めそうに言った。
 ぷっくりとした外套膜、可愛らしい三角頭巾を撫でて、千早は彼をねぎらう。普段はみずみずしく透明な全身が、いまはかなり乾いてきている。いっそ干からびてしまえば千早が抱えていけるのだが、イカというのは生きているあいだ、ヌメヌメとして掴み難いものだ。
「そうですね。では、ほんの少し休みましょう」
「ああ、でものんびりしてたら捕まっちまイカねない。俺っちのせいで千早さんまで道連れにしちゃあ忍びねぇ。ここは千早さんだけでも――」
「いいのですよ」
 千早は続きを待たず遮った。
「捕まってしまったら、捕まってしまったときです。そのときはおとなしく、打ち首を受け入れることにしましょう。それも、悪くはないと思いませんか?」
「千早さん……」
 消え入りそうなイカ次郎のつぶやきを聞きながら、千早は立ち上がった。あらためて振り返り、来し方を眺める。御用提灯が群がる向こう、薄闇の中に、江戸の街並みが浮かび上がっている。豆粒のように小さな影のひとつは、千早が抜け出した遊郭であるはずだ。長らく帰っていないが、父と母が住む実家も、どこかにはあるはずだった。
 千早は平凡な庶民の娘として生まれた。しかしやがて、自らの意志で実家を飛び出し、遊郭に勤めた。遊郭での下積みに耐え、ついには花魁にまで上り詰め。……そして、その遊郭さえ、つい先ほど後にした。二度と戻ることはない。
(思えば、随分と遠くまで来たものです)
 千早は遠くに視線をやって、目を細める。得も言われぬ充足感が胸に満ちるのが、本人にとっても意外であった。


****


 始まりは、一枚の春画だった。
 絵師は葛飾北斎、題名は「蛸と海女」。裸で倒れる淫らな女を、むくつけき海洋生物が犯すという、奇妙奇天烈な場面を描いた絵画。千早はこれに魅入られた。いや、千早だけではない。男女を問わず、江戸中の好事家・好色家たちのあいだで「蛸と海女」はひそかな流行となった。複製が出回るのはもちろんのこと、北斎に追従する絵師も大量に現れた。誰の指揮でもなく形づくられた一派は、人間と異種との交わりこそが最もエロチックなのだと主張した。なかでも特に、ヌメヌメとした海洋生物がよいのだと。
 そして熱狂が加速するにつれ、淫猥な妄想は現実で試みられるようになる。
 助平どもは海へ走った。捕えたタコやらイカやら貝やらを体に這わせる者が大挙し、海岸は地獄の様相を呈した。己の性欲を満たさんがために、海女や漁師になる者さえいた。
 こうした異常な性的嗜好に、もちろん全員が理解を示したわけではない。手ひどく糾弾する声も上がった。一部の識者はこの流行を社会病理として捉え、幕府の統治責任がうんぬんかんぬんとのたまった。
 さて、変化が起こったのは人間側だけに留まらない。無理やり陸へと引き揚げられ、未知の性器に擦りつけられた各種海洋生物らも、破廉恥な進化を強いられた。とりわけ、イカは凄かった。
 地球環境を生き抜く術として、『共生』を選ぶ生物は少なくない。種族単一で生きることを捨て、信頼の置けるパートナーを見つけるのだ。イソギンチャクに暮らすクマノミの例が有名だろう。どちらがイソギンチャクでどちらがクマノミかは判然としないが、とにかく、人間とイカはそういう関係になった。時代の生物学にパラダイムシフトを迫る勢いで進化を果たしたイカは、人語を話し、ペニスを生やしたわけである。
 この段になって、いよいよ事は一大事となる。
 実際のところ、イカのペニスから放たれる精液に、人間を孕ませる力はない。あくまで、生殖運動を要脚とした文化的交流に留まっていた。ところが、異種姦を解さない多くの一般市民にとって、もたらされる侵略不安はただならぬものだった。人ならざる生物が社会に紛れ、日に日に勢力を増していく。円盤から降り立ったグレイが人の生皮を被るのと、脅威の点では大差ない。
 アレルギー反応を示す保守層は、権力とも結びついていた。公式にイカ排斥のお触れが回れば、大義は容易に確立する。イカのはらわたを引きずりだす荒くれたちに、もはやためらいはなかった。イカは人類の敵、皆殺しにすべし。イカと馴れ合う人間も同罪、打ち首にすべし。イカを常連客に稼いでいた遊郭も、例外ではなかった。
 一斉取締の噂を聞きつけ、千早が逃げ出したのは昨日のこと。先の見えない逃亡劇は、彼女の人生を象徴するようでもある。


****


 小高い丘を越えた先は、雑木林になっていた。
 木々の隙間に蠢く闇は、夜よりもずっと深い。千早はイカ次郎を励まし、連れだって奥へと逃げ込んだ。
「イカ次郎さん、大丈夫ですか。しばらくここで、身を隠しましょう」
「そうするしかなイカ……」
 イカ次郎の返事は弱々しい。
 木の幹に背を預けて座り、ようやく息を吐く。まとわりつくような疲労が、二人に沈黙を落とした。
 視覚のきかないところでは、聴覚が鋭敏になる。輪唱するコオロギの鳴き声が、存在感を増して辺りを包む。追手がいつ雑木林に目をつけるかもわからない。長く留まり続けてはいられないと、急かしているかのようだった。
「千早さん」
 やがておもむろに、イカ次郎が口を開く。
「どうしましたか」
「俺っちは、ここまでみたいだ」
「ここまでって……」
「もう、一ミリたりとも進めそうになイカら、俺の命はここまでだ」
「…………」
 千早は口を噤んで固まった。諦めるなと言うのは簡単だが、行うのはたやすくない。なによりも、イカ次郎の目には覚悟があった。死を受け入れた男の覚悟。これを無下にすれば、彼の生き様をも否定することになる。
「そう険しい顔をしないでくれなイカ、千早さん。俺っちは別に、悲しんでくれというつもりはないんだ。逃避行の連れ合いとはいえ、千早さんにとっちゃ、俺っちは単なる客だしな。だからと言っちゃあなんだが、死んじまう前にひとつ、お願いがある」
「なんでしょう。あたしにできることなら、なんなりと」
「んん、そのぅ」
 千早の真摯な眼差しを受けて、イカ次郎は言い淀んだ。命の危機には似つかわしくない、照れたような様子。ひとつ深呼吸をして、明かした。
「俺っち、最期に、千早さんにイカされてぇっ」
 慌てて触手を外套膜に差し入れ、小判を取り出す。
「ぜ、銭なら払うからよ」
 機嫌を伺うようなイカ次郎の上目遣いに、千早は思わず噴き出した。
「ふふっ、イカ次郎さん、この期に及んで銭だなんて」
「は……はは……。そうだよな、おかしいよな。申し訳ねぇ、いまの話はぜんぶ忘れてくれ。馬鹿なこと言っちまった」
「いいえ」
 慈愛の微笑みを湛えて、千早は着物をはだけた。闇の中でも見えるよう、イカ次郎の目の前に乳房を晒す。
「破廉恥なイカ次郎さんのために、全力でお仕事させていただきます。干からびて死ぬまでイカせて差し上げますから、覚悟していてくださいね?」


****


 雑木林を抜けた先に、道はなかった。
 切り立った崖の端に佇んで、千早は足元を見下ろす。黒い波が岩場に打ち付けて、飛沫を上げる。波は荒い。落ちて即死するほどの高さではないが、泳いで助かることは不可能だろう。
「ここまで、ですか」
 ひとりごちる声に、返る言葉はもうない。代わりに、鼻腔をくすぐる匂いがあった。潮に紛れて漂う、生々しいイカの臭気。千早の指にへばりつく、イカ次郎の精液が出所である。懐には干からび切った死骸も忍ばせてあるが、彼が放出した精液の方にこそ、存在の真実味がある。
「おい、女。そこまでだ」
 立ちすくむ千早の背後から、男の声。振り向かずとも理解する。神妙にお縄につけということだ。
「顔を確認する。こちらを向け。抵抗すればただでは済まさん」
 威圧するような脅し文句にも動じず、千早は悠々と振り返った。
 月の光を受けて、千早の顔が露わになる。その立ち姿に、男たちは全員、息を呑んだ。
 一介の町娘から花魁にまで上り詰めた女は、あまりにも美しかった。神秘、奇跡。そういった類の形容が誰の頭にも浮かぶ。表情をわずかに動かすだけで、男ならば魅了されない者はない。自身に見とれる人間の惚け面も、千早にとっては慣れたものだ。
「御用でしょうか?」
 たった一言の問いかけに、男たちはたじろいだ。
 本来ならば手っ取り早く捕縛するところ。恐る恐る声を発したのは、先頭に立つリーダー格らしき男だった。
「お前……お前はなぜ、こんなことをした? お前のその美貌ならば、まっとうに生きることに困らなかっただろうに。力のある男に嫁ぎ、女としての幸せを享受できただろう。なぜ、遊郭などに勤めた。なぜ、規律を破ってまで、イカの相手などしていた」
 辺りを囲む人間たちは、ひとりとして動きを見せない。千早の返答、一挙手一投足を待っていた。
「簡単なことです。あたしは、あなた方が大事にしている幸せとか、正義とかいったものに、それほど関心がないのです。もちろん、価値観が違うからといって、あなた方を貶めたりは致しません。あたしには、あたしの向かう所がありますから。……後ろ暗い悦びも、あるのですよ」
「なにをっ――」
 男が言い切るよりも先に、千早は地面を蹴った。土にまみれた素足で走り出す。
「逃げる気だっ、囲めっ!」
 号令に起こされ、男たちが緊張を高める。しかし、千早は隙間を縫って逃げ出そうとする気はなかった。素早く方向を転換し、海に向かう。切り立った崖に足を掛け、思い切り、跳んだ。
「飛び降りたぞっ」
「やけになったかっ」
「助からないっ」
 頭上でわめくのが聞こえた直後、水没。千早は前後不覚に陥った。
 回り、回り、定まらない視界が、辛うじて捉えたもの。流されていく着物の中から、イカ次郎の死骸が躍り出る。海底からは、無数の触手が伸びてきていた。ヌメヌメとした官能的な触手が、千早の身体をまさぐる。全身を粘液が這いまわり、極上の快楽をもたらした。
(――ああ、満足だ、あたしは)
 墨色の海水が肺を満たすに至っても、千早は後悔しなかった。

       

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