Neetel Inside 文芸新都
表紙

一枚絵文章化企画2017
「夢」作:ヤスノミユキ 0324 00:19

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 いらぬ自尊心が己の人生を妨げている。
 石澤は、重々承知していた。しかし、未練を断つことができないのだ。憤懣やるかたない気持ちを、御しきることができないのだ。
 事務机の前である。パソコンの液晶に映る経理資料を睨みつけながら、石澤は低い唸りを上げた。
「ぬ゛うううぅぅぅ……ん」
 地の底から汲んできたような声は、狭い事務所内に響き渡る。室内全員の耳に届いただろうが、いちいち反応する者はない。日常茶飯事のことだ。
 怨嗟は、経理資料に向けたのではなかった。資料の作成に手間取ったわけではない。会社の経理状況を憂いていたわけでもない。石澤の憤りはひとえに、己の置かれた現状に向けられていた。
 工務店の小さな事務所。その片隅。薄汚れた事務机と旧式のパソコンだけが与えられている。活気に乏しく、おまけにヤニ臭い男ばかりでむさくるしい。直上の蛍光灯が、ただでさえ薄暗いのに、チラチラと点滅するのも悪かった。
「ぬ゛うううぅぅぅ……ん」
 いますぐにでもこの場を飛び出さなければならない。さもなくば、猛然と立ち上がり、パソコンやらファイルやら、近くにあるものをすべて叩き壊さなければならない。そういう使命感がむくむくと湧き起こった。しかし、実行には移せない。蟲のように蠢くものが克己を促し、胸のあたりを占拠している。石澤はそれに抗えない。葛藤の末、狂人の域に達していないことが、彼自身、不思議なくらいだった。
 少年時代、「偉人になること」が石澤の夢だった。何についての偉人なのかは明らかでない。模糊としたイメージのなかでは、むやみに光沢のある床を歩き、白くて広々とした建物にいた。そして最も重要なことには、周りの人間の誰もが、石澤を尊敬しているのだ。一人として彼を軽んじる者はなく、「先生」と呼んで慕ってくる。曖昧な空想にもかかわらず、夢はほとんど確信だった。
 石澤には、野心に見合う学才もあるはずだった。神童と持て囃され、傲慢を許される特別な存在であるはずだった。だから、人間関係のこじれで大学の研究室を追われたときも、些細な躓きだと信じて疑わなかったのだ。
 いまの職には、叔父の紹介で就いた。就職活動の捗らない甥を見かねての采配だったが、石澤はこれを屈辱と捉えた。
 「私は入社致しますが、この会社は腰掛に過ぎません。私は本来、このような下賤な場所にいるような人間ではありませんから、皆さんもそのように扱ってください」。入社挨拶の日、石澤はこのような旨を公言した。社員たちの顰蹙を買ったのは言うまでもない。
 現在、入社から十数年の時が経つ。石澤が向かう机は、未だに変わらない。
「ねぇ石澤さん、コーヒーを淹れるんですが、飲まれますか?」
 硬直したままでいると、いつの間にか隣に女がいた。
 庶務の広崎だ。先月入社したばかりの新人で、職場の紅一点。男ばかりでむさくるしいと全社員からの意見を受けて、社長が採用した。輪郭が丸く、洗練された美人というわけではないが、愛嬌と若さがそれを補っている。入社挨拶の一件から社員と折り合わない石澤にとって、まともに口を利けるのは彼女くらいだった。しかし。
「コーヒー……」
「はい、コーヒーです。いかがですか?」
 石澤はコーヒーが苦手だった。独特の苦みもカフェインの作用も、彼にとってはうまくない。ところが、広崎はそのことを知らない。
 素直に告白し、他の飲み物を頼めばよいものを、下らぬ自尊心はここでも働いた。大の大人たるもの、コーヒーも飲めないのでは馬鹿にされる。新入りの女に舐められるようなことがあってはならない。
「いらん。いま仕事に集中しているんだ。見ればわかるだろう」
「あっ、そうですか。それは、失礼しました」
 広崎は苦笑いを浮かべて、そそくさと去っていく。
 結局、事務机の端にカップが置かれることはない。機会を逃した後になって、後悔は訪れるものだ。石澤は急激に喉の渇きを感じた。また、新人を相手に乱暴な言葉遣いをしたことも、まずかったのではないかと思われてくる。そして、目の前には変わらず、進捗のない資料が立ちふさがっている。気力はますます落ち込んだ。
 唐突だが、石澤は異世界に行き来することができる。意図して変性意識を呼び起こすことにより、次元の狭間を超える特技があった。平たく言えば、妄想の中に逃げ込む悪癖があった。
 残りの仕事を豪胆にも投げ出した石澤は、さっそく瞑想に入る。キーボードに手を置いたまま、白目をむいた。
 まずは、世界設定だ。舞台は、中世ヨーロッパを基調としたファンタジー世界。剣と魔法が当たり前に存在し、日常に馴染んでいる。大精霊の加護を受ける城郭都市カルガソンの人々はみな穏やかで、協調して豊かに暮らしていた。
 しかしあるとき、平和は突如、脅かされる。街の城壁の外、オポリス山にドラゴンが現れたのだ。ドラゴンは体長100メートルもあり、1億度の炎を吐く。強い破壊衝動を持ち合わせる凶悪な生物は、破壊の限りを尽くした。
 世はすでに末期の様相。街の人口は十分の一以下にまで落ち込み、いよいよ破滅かと思われたとき。まばゆい光の中から、一人の男が現れた。彼こそは戦士イシザーワー。遠い未来から転生し、類まれな頭脳と卓越した剣技をもつ才人だ。
 街の人々はイシザーワーを讃えた。救世のために現れた神の使いに違いないと信じ、祝福を与えた。「きみはすごいやつだ」、「我々はきみの才能に頼るほかない」、「きみこそは選ばれし存在なのだ」。言って、口々におだてた。乗せられれば、悪い気がしないのが人間のサガである。イシザーワーは「やれやれ」とわざとらしくため息を吐くと、ドラゴン退治に臨んでいったのだった。
 オポリス山の頂へと至る道程は困難だった。困難だったが、描写は大胆に省かれた。それが石澤の妄想力の限界であったし、重要なのはとにかく、ドラゴンを倒す手柄だった。
 かくして、最大の敵ドラゴンの前に立ったのだが、ここで問題が起こった。ドラゴンが必要を遥かに超えて強大だったのである。体長は100メートル、1億度の炎を吐く生物は、いくらイシザーワーの剣技が優れているといっても手に余る。設定段階での不備を、石澤は悔いた。しかし、いまさらドラゴンを縮小するのでは格好がつかない。そこで、石澤は妙案を思いついた。簡単なこと、イシザーワーの方を強化すれば世話はないのだ。
 イシザーワーは、道端に捨てられたままの手鏡を見つけた。何気なく手に取って鏡面をのぞき込む。すると、なんと、体がみるみる大きくなっていくではないか。たちまち、辺りの樹木を見下ろすようになる。巨大化はとどまることなく続き、ドラゴンの体長さえ追い越した。それでもイシザーワーの増長は止まらない。オポリス山に倍するまでになって、ようやく現象は収まりをみせた。
「やったぞ、これならばドラゴンなど一捻りだろう」
 イシザーワーは勝ち誇ったように笑う。体と同じに大きくなった剣を握りこみ、振るわんとして構えをとった。しかし、ここで想定外のことが起こる。
 はじめは、小さな異常。巨大化し、拾う範囲も広くなった耳に声が届く。うっすらと聞き覚えのある声だった。
「なんてことだ、化け物が出たぞ」
「ドラゴンなんて比ではない。なんて大きさだ」
「あんな巨人が歩いて来たら、それだけで街が潰れてしまう」
「なんとしても、倒さなくてはならないぞ」
 騒ぎ立てるのは、カルガソンの方向から。あの街の人々だった。目を凝らすと、みな蒼い顔をしている。
「待て、そう怯えるな。私だ、イシザーワーだ!!」
 イシザーワーは彼らに聞こえるよう、大声で叫んだ。
 なのにもかかわらず、騒ぎが収まる様子はない。人々にとっては、巨人がイシザーワーであることなど、もはやどうでもよさそうなのだ。
「いまこそ力を合わせるときだ」
「我々で巨人を倒すのだ」
「容赦はいらない」
「殺せ」
 いつの間にか、街の人々は兵器を持ち出していた。剣と魔法の世界に似合わない、近代的な機械の数々。物騒なミサイルの弾頭がこちらを向いている。まさに打ち放とうとする人間に、かつてあったはずの穏やかさは見られない。
「そんなもの、どこに隠していたんだ!? いや、違うっ。私はドラゴンを倒そうとしていただけだっ。私は敵ではないんだっ。ほら、ここにドラゴンがいるだろう!!」
 目を向ければ、ドラゴンは忽然と姿を消していた。この世界に敵はひとり、イシザーワーのみ。
 ミサイルが放たれる。強力無比な近代兵器が、鼻先に迫る。
「違うんだぁっ!! 私はドラゴンを倒したかっただけなんだぁぁあああああああっ!!」
 ――石澤が気が付くと、場面は事務所に移り変わっていた。否、現実に帰っていた。薄汚れた事務机、旧式のパソコン、点滅する蛍光灯。周りにいる同僚たちは、石澤を凝視している。突然の、しかも意味不明の叫びに困惑しているようだった。
「石澤さんっ!? どうかされたんですかっ」
 いつもは笑顔の広崎が、血相を変えて走り寄ってくる。汗に濡れた石澤の顔を見て、心配そうに眉尻を下げた。
「あの、大丈夫ですか……?」
 じっくり観察すれば、愛嬌と若さを差し引いても美人かもしれない。などと広崎の顔を眺めながら、石澤は言った。人生史上、おそらくは最も情けない声で。
「お水が飲みたいよぅ」

       

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