Neetel Inside 文芸新都
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 新学期が始まっても、先生は何も言ってくる事は無かった。
 他の教員からも何も言われないということは、僕のしたことは誰にも話されていないのだろう。
 まるで『秘密を握ったのはお互い様だ』とでも言うかのように、先生は僕に対して不可侵の態度を取り続けた。
 僕はその意図について詳しく聞きたい衝動にたびたび襲われたが、自分にしか非がないと分かりきっているのに僕から何か行動する勇気など出てくるわけも無い。
 なにしろ、他の人を想って唇を奪ってしまったのだ。しかも、勢いに任せて無理やりに。
 許されるならいっそ土下座でもして謝ってしまいたいくらいに、僕はひたすら気に病むしかなかった。
 それこそ、きっかけさえあればすぐにでも図書準備室に向かっただろう。
 でも、夏休み直前に日直を済ませてしまい、現国の補修を受けるわけでもない僕が先生に会いに行くのは不自然以外の何者でもない。
 そんな悶々とした状況が、一ヶ月ほども続いた。
 さすがにそれだけの期間が経てば思考も楽観的な方へ向き始める。
 先生はあのことを、子供の戯言だと認識してくれたのではないか。
 そうとも、誰かに言うつもりなんてあるわけが無い。彼女はこれを『お互い様』だと思っているんだから。
 だから、僕ももう忘れてしまっていい。彼女のことをぶり返したなんてみっともないことは忘れてしまって、無かったことにしてもいいのだ。
 どこか心にしこりのようなものを感じながらも、僕はそんなことを自分に言い聞かせるようになっていた。
「片瀬君、ちょっといいかな?」
 しかし、そうは問屋が卸してくれなかったようだ。
 授業の終わり。先生はまるで何も気に留めることも無いような自然な表情で、僕に話しかけてくる。
「な、なんでしょう?」
「あのさ、先週に配った進路希望のプリントあったでしょ。伊藤先生に言われたんだけど、片瀬君のだけまだ出てないって。悪いんだけど、今日中になんとか形にして図書準備室まで持ってきてくれないかな?」
 進路希望のプリント? 身に覚えならある。それは確かに先週に配られたはずのものだ。しかし、僕はそれを普通に提出したはずだった。
 一瞬だけ思案して、すぐに得心が行く。
 この年、先生はまだ僕らのクラスの担任ではなく伊藤先生のサポートとして副担任に就いていた。プリントの回収を言いつけられるのも分からないでもない。
 なるほど、これは遠回しで自然を装った『お呼び出し』なわけだ。
「分かりました、あとで伺います」
 僕にはそう答えるしかない。
 思い返せば、まるで今とは立場が逆のやり取りで笑えてくる。
 本当にその時期、僕は押されっぱなしだったのだ。

 ノックを二回、これも三度目になる。
「どうぞ」という返答を待って図書準備室に入ると、先生は椅子ではなく机に腰掛けて僕を真正面から見据えた。
 その姿はまるで夏休みのあの時の、僕が出て行く前の情景そのままだ。それを見て僕はさらに及び腰になってしまう。
「よかった、来てくれて」
「あんな呼び出し方されて……来ないわけにいかないでしょう」
「そうだね」
 口元は微かに吊り上っていて、笑っているように見えるが何を考えているのか読み取れない。
 それでも僕は、ずっと言わずにいてしまったこと―――言わなければならなかったことを口にした。
「この間は、本当に申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げる。
 ここに呼び出されたのは何らかの罰を与えられるためかもしれない。口止めの見返りに何かを要求されるのかもしれない。
 それでも、ここで何の謝罪もせずにいることは最低だと思ったから。
 じっと頭を下げている僕に、先生は少しきょとんとした表情を見せた後になんと笑い出してしまった。
「ははは、ちょっと何それ? 私、そんなつもりで呼んだんじゃないよ」
「は?」
 驚いて顔を上げる。先生は本当に見当違いだったらしい行動をしている僕を見下ろして、本当に愉快そうに笑っている。心底誠実な空気を作って謝っている人間を前にして、はたしてその行動は教育者としてどうなんだ。
「じゃあ、どういうつもりで僕を呼んだんですか?」
 思わず不機嫌さが声に出てしまった。
「『どういうつもり』は、こっちのセリフ」
 しかし、返ってきた言葉もまた不機嫌さを含んでいて。
 先生が腰を預けていた机から離れて、僕に向かって一歩近付く。僕は扉を背にした状態から動けない。この前とは、本当に立場が逆転していた。
「口止め料じゃない……ってこの前言ってたじゃない。あれはどういうつもりだったの?」
 何故、今それを聞くのか。無かったことにしてくれないのなら、この一ヶ月はなんなんだったのか。
 近付いてくる先生を真っ直ぐ見られずに目を逸らす。
「捨て台詞みたいなものじゃないですか。カッコ悪いから、思い出させないでくださいよ」
 本当にカッコ悪い。謝ったのは最初だけで、後から出てくるのは強がりばかりだ。
「セリフの事じゃないよ。分かってて言ってるでしょ?」
 詰め寄る先生の影に振り向くと、驚くほど近くに先生の顔があった。眉を吊り上げて下から強気に見上げる先生の顔は、やはり年上の女性のそれで。急激に鼓動が早くなるのを意識した。
「ちょっと……癇に障っただけです」
「癇に障ったら、君は相手にキスするの?」
「いや……」
「まぁ、言いたくないのならそれでもいいけど」
「え?」
 気が付けば、首に手が回っていた。
「んんっ……!」
 扉に体ごと押し付けられ、ガタンといやに大きな音がする。唇に触れる柔らかい感触に驚く間もないまま、ぬるりとした舌が無理やり口の中に割り込んできた。
 ひたすらにかき回される咥内の感触は、まるで快感の押し売りだ。
 目を見開いたまま、目の前にある真っ赤な顔の先生をただ見ていることしか出来ない。
 ぷはっ、なんて言って顔を離した先生は、呆然としている僕に完全に女の顔でこう言った。
「君が私に言ったんだよ?……あれから色々考えたんだけど、私って本当に『真面目そう』なだけだったみたい」
 そうだ、その時になって僕はやっと分かった。
 無関心な態度をとり続けた先生を、一ヶ月も長々と気にしていた理由。
 先生とのことを無かったことにしてもいいと考えた時に、どこか心にわだかまりがあった理由。
 僕は、先生をこのまま手放してしまいたくなかったのだ。
 彼女と似ても似つかない年上の女性。彼女を引きずっていると自覚してしまったからこそ、きっと僕は先生に惹かれた。
 でも、それは好意なんかではない。
 先生を支配下においておきたかった。彼女に拒絶された僕。僕を置いていなくなった彼女。その圧倒的な劣等感を埋めてくれるのは彼女の代役であるしかない。でも、彼女が僕をもう見ないことは嫌というほど自覚している。
 僕と先生、双方にとって災難だったのは、先生は僕にとって都合の良すぎる存在だったこと。
 似ている必要なんか無い。年上というそれだけで良かった。目上の人間を思い通りに抱いた時、僕はこれ以上ないほど心地よく満たされていた。
 だから、依存した。僕たちは互いが互いにハマっていった。
 蜜壺に落ちた蟲のように、茨に絡め捕られた哀れな男のように。
 そんな、どうしようもない僕と先生の始まり。そして今まで。


 そんなことを、思い出していた。
 代わりを見つけて満足していたはずなのに、あんなにも恋焦がれていた貴女が、――今さら――傍にいるだけで僕は狂ってしまう。
 振り向いて、詰め寄って、痛いかもなんて考えもせず肩を掴んで引き寄せて。
 思い切り、深く口付けた。
 あの時、先生にそうしたように。

       

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