人通りも少なくない駅前には、会社帰りのサラリーマンが何人もせわしなく歩いている。
恥ずかしげも無く唇を重ねる僕たちを、幾つもの視線が貫いてはすり抜けていった。
いや、僕だって恥ずかしくないわけじゃあ決してない。むしろ、こんな突発的な行動に出てしまった自分に驚いて、衝動的な自分を抑えきれなかったことが情けなくて、それでも自分から離れる気にはなれなかった。
五分か、十分か。本当はごく短い時間だったのかもしれないが、僕には永遠とも思われる時間の後。
頭に上った熱が治まって気恥ずかしさがやっと脳に届いてから、僕はゆっくりと顔を離す。
さすがの彼女でもこんなことには慣れていないのだろう。羞恥にしばらく顔を俯けていたが、すぐに顔を上げると彼女らしい飄々とした顔で僕を見上げてきた。
「キス、上手くなったね」なんて、憎たらしいことを口にして。
「そりゃあ、色々と場数を踏みましたから……」
「清水先生で?」
「ご存じの通りですよ」
彼女はクスリと笑うと、ステップを踏むように僕から一歩離れる。
「言うようになっちゃって、ホントに」
そう言って、くるりと背を向けた。
その動作に不自然な所など何もない。だって、今僕らは学校からの帰り道の途中で、彼女はこれから駅へ向かう。何の矛盾もない、ただそれだけのことなのに。
僕にはそれが、どうしようもなく耐えられなかった。
「――――っ!」
彼女のではない、これは僕自身の息をのむ声。
気が付いた瞬間に、僕は後ろから彼女を抱きしめていた。
今度こそ恥ずかしげもなく。細い肩、柔らかい肌、髪から香る匂い。白く白く、彼女以外の全てが頭の中から消え去っていく。
「そうやってまた……僕の前からいなくなるんですね」
絞り出すように、みっともなく口走った。
彼女の手が、肩に回されている僕の腕に添えられる。拒絶されるかと思ったそれは、しかしそっと置かれただけで。
「うん、バレちゃったか」
その態度とは不釣り合いな底抜けに明るい声で、彼女は言った。
「そんなの、分からないわけがないでしょう。だって今日のアナタは、全部前の時の焼き直しじゃないですか」
三年前の、あの時と全く同じシチュエーション。
あの時、僕はなぜ彼女が僕の唇を奪ったのか、その意図に見当も付かなかった。今だってそれは同じ、全然何も分からないままだ。説明されたところで理解もできないだろう。
好きでないのなら、付き合えないのなら、どうしてそんなことをするのか。意味が分からなくて、彼女の態度に憤って、それでも気持ちは少しも陰らなくて。
それが子供だと言われるなら、僕にはどうしようもない。
だって、頭では分かっていてもこうして体が動いてしまうんだから。
「アナタは……ズルい」
「……うん」
穏やかなその声は、子供をなだめる母親のよう。
「最悪だ。人の気持ちも何もかも、全部分かってるくせに。僕の方を向いてくれる気だって全然無いくせに、どうしてそんな風に……どうして、忘れさせてくれないんだ……」
嘔吐するように言葉を吐き出す。
そうだ、彼女が僕に振り向くつもりがないからこそ、僕は先生という『代用品』に溺れていたのに。
彼女にわざと見つかるようなここ一週間の行動だって、全部彼女を振り切るためのものなのに。
彼女に回した腕をそっと解いて、肩の上に置いた。彼女の顔を見る勇気がなかったから、こちらに振り向かないよう押さえつけるために。名残惜しげに腕に残った彼女の手が、じんわりと暖かい。
「このままじゃ、僕はずっと自由になれない。こんなことをされた後にいなくなられたら、僕はまたアナタを忘れられない」
ずっと三年前のまま。彼女への変わらない気持ちを胸に秘めたまま。蜃気楼のような彼女の背中をずっとずっと追い続ける。
誘惑に簡単に負けてしまった僕の口から言えるセリフじゃないことなんて分かってる。それでも、もう本当に――――
「こんなのは、もうたくさんだ……」
どうせ切り捨てるのなら、思い切って全てを否定して欲しい。
あえて地獄に置くのなら、どうして蜘蛛の糸など垂らそうとするのだろうか。
ままごとのような優しさが、全身を刺すように痛くて堪らない。
「もう……答えをください」
肩を掴む指に自然と力がこもる。顔を見て言う度胸もないくせに、僕はいつだって口だけは一人前だ。
「僕は、アナタのことが好きです」