Neetel Inside 文芸新都
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 指が、唇が肌を撫でる。今までに何度も、握って、絡めて、触れて、押し付け合った。口に出さなくてもお互いにイイ場所なんて約束事みたいに覚えている。
 時間が経つほど薄れていく絵を、何度もなぞって描き直すような不毛な行為。
 笑っているのか泣いているのか分からない、悲鳴のような嬌声を上げながら、先生は僕の上で一心不乱に腰を振っていた。
 放課後の静かな学校の中で馬鹿みたいに叫ぶ姿は、酷く滑稽だ。
 錯乱した先生の言葉の中でかろうじて聞き取れたのは、一年以上の付き合いで一回も聞いたことも無い男の名前だった。
 知らない誰かの名前を叫びながら、「好きよ」と繰り返し告げられて頬を撫でられる苦痛に、僕はじっと耐えていた。
 僕はずっとドアにもたれたままで、頭はまだがんがんと痛くて、手もだらんと垂れ下げたまま先生を見上げている。それでも、抵抗できないほどの痛さというわけでは無かった。
 これは自分勝手に、一方的に関係を清算しようとした罰。自由になるための通過儀礼だと僕には思えて、その気持ち悪さから込み上げる吐き気を我慢し続ける。
 そう、酷く気持ち悪かった。
 それが頭痛のせいか、目の前の光景のせいかは分からなかった。多分両方だ。
 まるで壊れた玩具。醜くて、無様で、なにより幼稚だ。
 そういえば、彼女にこんなことを言われていたと、ふと思い出す。
『まぁ、オトナを舐めると後で痛い目見る事になるよってこと。これ、お姉さんからのアドバイスね』
 確かにその言葉に間違いは無かった。彼女を軽んじていたわけでは決して無いと思うが、恋愛というものを履き違えて考えていた僕の身に、こうして踏んだり蹴ったりな事態が起こっている。
 でも、それはきっと自業自得で、これを先生や彼女のせいだとはなんとなく思いたくなかった。
 相手のためを思ってとか、自分のしたことを悔いてとか、そんなんじゃない。ただ、目の前の人をオトナだと受け入れたくはない、ただそれだけの話。
 下校時刻を告げるチャイムが校内に響き渡る。
 機械音声のような下校を促すアナウンス。ざわつく校内。部活を終えた生徒たちが、これから校内をうろつき始めるだろう。
 思えば、このチャイムを聞くのも久しぶりのことだ。彼女がこの学校にやってくる前、僕たちは放課後に会った後、校内から人気がなくなるのを待ってこっそりと一緒に下校したりしていた。
 人目を偲んで逢瀬を重ねる日々。『代用品』だなんて、自覚する前の話。僕たちが互いに、いくつもの暗黙の了解を抱えて過ごしていた時間。
 先生のことを本当に好きになることなんて、有り得ないことだったけれど、その時間は全く楽しくなかったなんてことも、多分なかった。
 最後に一緒に下校したのは、確か彼女が来る前の週だったか。もう随分と前のことのように感じる。あの頃はまだ、僕たちは互いの歪さに気づいていない……フリができていたのに。
「先生……覚えてますか? あの時に、僕がした話を」
 口の中でだけ呟いた言葉は、きっと誰にも届かない。
 あの時の――茨姫と王子の、打算に満ちた疑惑の話。
 訂正したい。先生は決して、王子なんかではなかった。僕だってそうだ。僕たちは愚かな眠り姫。現実から逃避して、気持ちいい夢を見続けて、都合よく寄り掛かれる王子様がやってくるのを寝て待つことしかしない、惨めなビッチ。
 現実は無残だ。王子なんて現れない。待つだけじゃあ何も変えられないし、だれも救ってなんかくれやしない。ただ夢に溺れて、自分じゃあ見えない背中から腐っていくだけ。
 今ならそれが分かる。僕たちは似た者同士だから。
 自分の見たくない汚い部分だって、本当はいつも目の前にあったんだから。
 先生は相変わらず、僕の上でみっともなく嬌声を上げている。まるで外界のことなど全く目に入っていないかのように、周りに自分の声が聞かれるだろうことも構わずに。
 先生をこうしてしまったのは、僕だ。
 もしかしたら、僕だってこんな風になっていたのかもしれない。先生に当たり散らし、彼女に無残に扱われて、そうなってもおかしくない時はいくつもあった。
 だから、僕には先生を止める権利なんてない。滑る唾液の不快に、背中に食い込む爪の痛みに、ただ堪えるだけ。
 ――だって、そんな時間が永遠に続くわけなんてないんだから。
 遠くから聞こえる生徒たちのざわめき、張り上げるような先生の声、それだけしか音のない空間だったはずの図書準備室に、ノックの音が妙に大きく響く。
 扉に背中を合わせていた僕は、その心臓を直接叩かれたのかと思うほどの振動に飛び上がるかと思うほど驚いた。
 それまで何もかも意識の外だった先生すら、動きを止めていた。
 再びノックが二回。摺りガラスの向こうに移る黒い人影。何故今まで気づかなかったのか。
 間違いなく、この扉の向こうに誰かがいる。
 こちらからそれを問うまでもなく、向こう側から野太い男の声が飛び込んできた。
「おい! ここに誰かいることは分かってるんだぞ、とっとと出て来い!」
 ガタガタと戸が揺れる。ノックではなく、扉を開けようとしているのだ。カギがかかっていたことに心底安堵しながらも、状況はどこまでも絶望的だった。
 図書準備室には逃げ場などない。あるのは今僕が背にしている扉以外には、図書館に繋がる扉が一つだけ。それにしたって、図書館から廊下に出れば図書準備室の前にいるであろう人影の主には絶対に見つかってしまう。必ず捕まって、そうなれば知らぬ存ぜぬではいられない。
「さっきまでギャーギャー騒いどいて、今さら静かになっても無駄なんだよ! ここはお前らのためのホテルじゃねぇんだぞ!」
 思わず舌打ちをしそうになる。誰か生徒が聞きつけて告げ口したのか、見回りをしていたこの教師が通りすがりに気付いたのかは分からないが、こいつは僕たちがここで何をしていたのか、大体察している。
 図書準備室のカギは先生が持っているから、ここの扉を開けるには職員室にあるマスターキーを使うしかない。
 もしかすると、この教師はすでにマスターキーを持っているのかもしれない。僕たちが何を知っているから、身支度を整える時間を与えてくれているのかもしれない。
 ここまで考えて、僕はおかしくて吹き出してしまいそうになった。
 さっきまで、何もかもどうでもいいと思っていた自分。それが、ちょっと逃げ道を塞がれただけで保身を考え、慌てふためいてしまうなんて。
 結局のところ、僕はどこまでいっても中途半端なんだ。
 大きなため息を一つ吐くと、観念した。どちらにしても、もうどうしようもないのだ。なら、恥を最低限にするのが一番利口な選択だろう。
 素直に服を着て、出ていこう。この一件は大学への進学などに大きく響くのかもしれないが、それこそもうどうでもよかった。
 そして僕は見上げた、先生の顔を。
 一瞬だけ目が合う。その時の先生の目を、おそらく僕は一生忘れないだろう。
 要らない玩具、似た者同士、保身、この体勢。その目を見ただけで、点と線が面白いように繋がり、僕は先生の手が扉のカギに伸びるのをただ茫然と見送った。
 これから何が起こるのか、手に取るように分かったのに。
『まぁ、オトナを舐めると――』
 彼女のその言葉が、呪いのように頭の中で再生される。
「き……ぃぃぃぃぃいいいいいいいやあああああああああああ!!!!」
 耳をつんざくような悲鳴と共に、先生はあられもない恰好のまま扉から走り出ると、そこにいた中年の男性教師の胸に飛び込んだ。
 僕はそれを――僕もみっともない姿のまま――ただ見ていることしかできない。
「助けてっ! 助けてください! この生徒が、私を――」
 先生が泣き叫びながら僕に無理やり襲われた顛末について語っているのも、どこか別世界の出来事のようだった。
 気持ち悪い。
 可笑しくて吹き出してしまいそうだった。本当にその通りにしたら、笑い声よりも先に胃の中の内容物が逆流して飛び出した。
 気持ち悪い。
 頭の上から降ってくる悲鳴、怒号。何を言ってるのか全然聞き取れない。
 少し黙っていて欲しい。僕は気分がこんなに悪いのに。目の前が白く染まっていく。地に付いているはずの腕の感覚さえない。
 こんなに気持ち悪いのなら、いっそこのまま死んでしまえればいいのに、と。
 廊下にくず折れながら、僕は本気でそう思った。

       

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