Neetel Inside 文芸新都
表紙

僕たちは恋してない
Child play(5) -決別-

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 人通りも少なくない駅前には、会社帰りのサラリーマンが何人もせわしなく歩いている。
 恥ずかしげも無く唇を重ねる僕たちを、幾つもの視線が貫いてはすり抜けていった。
 いや、僕だって恥ずかしくないわけじゃあ決してない。むしろ、こんな突発的な行動に出てしまった自分に驚いて、衝動的な自分を抑えきれなかったことが情けなくて、それでも自分から離れる気にはなれなかった。
 五分か、十分か。本当はごく短い時間だったのかもしれないが、僕には永遠とも思われる時間の後。
 頭に上った熱が治まって気恥ずかしさがやっと脳に届いてから、僕はゆっくりと顔を離す。
 さすがの彼女でもこんなことには慣れていないのだろう。羞恥にしばらく顔を俯けていたが、すぐに顔を上げると彼女らしい飄々とした顔で僕を見上げてきた。
「キス、上手くなったね」なんて、憎たらしいことを口にして。
「そりゃあ、色々と場数を踏みましたから……」
「清水先生で?」
「ご存じの通りですよ」
 彼女はクスリと笑うと、ステップを踏むように僕から一歩離れる。
「言うようになっちゃって、ホントに」
 そう言って、くるりと背を向けた。
 その動作に不自然な所など何もない。だって、今僕らは学校からの帰り道の途中で、彼女はこれから駅へ向かう。何の矛盾もない、ただそれだけのことなのに。
 僕にはそれが、どうしようもなく耐えられなかった。
「――――っ!」
 彼女のではない、これは僕自身の息をのむ声。
 気が付いた瞬間に、僕は後ろから彼女を抱きしめていた。
 今度こそ恥ずかしげもなく。細い肩、柔らかい肌、髪から香る匂い。白く白く、彼女以外の全てが頭の中から消え去っていく。
「そうやってまた……僕の前からいなくなるんですね」
 絞り出すように、みっともなく口走った。
 彼女の手が、肩に回されている僕の腕に添えられる。拒絶されるかと思ったそれは、しかしそっと置かれただけで。
「うん、バレちゃったか」
 その態度とは不釣り合いな底抜けに明るい声で、彼女は言った。
「そんなの、分からないわけがないでしょう。だって今日のアナタは、全部前の時の焼き直しじゃないですか」
 三年前の、あの時と全く同じシチュエーション。
 あの時、僕はなぜ彼女が僕の唇を奪ったのか、その意図に見当も付かなかった。今だってそれは同じ、全然何も分からないままだ。説明されたところで理解もできないだろう。
 好きでないのなら、付き合えないのなら、どうしてそんなことをするのか。意味が分からなくて、彼女の態度に憤って、それでも気持ちは少しも陰らなくて。
 それが子供だと言われるなら、僕にはどうしようもない。
 だって、頭では分かっていてもこうして体が動いてしまうんだから。
「アナタは……ズルい」
「……うん」
 穏やかなその声は、子供をなだめる母親のよう。
「最悪だ。人の気持ちも何もかも、全部分かってるくせに。僕の方を向いてくれる気だって全然無いくせに、どうしてそんな風に……どうして、忘れさせてくれないんだ……」
 嘔吐するように言葉を吐き出す。
 そうだ、彼女が僕に振り向くつもりがないからこそ、僕は先生という『代用品』に溺れていたのに。
 彼女にわざと見つかるようなここ一週間の行動だって、全部彼女を振り切るためのものなのに。
 彼女に回した腕をそっと解いて、肩の上に置いた。彼女の顔を見る勇気がなかったから、こちらに振り向かないよう押さえつけるために。名残惜しげに腕に残った彼女の手が、じんわりと暖かい。
「このままじゃ、僕はずっと自由になれない。こんなことをされた後にいなくなられたら、僕はまたアナタを忘れられない」
 ずっと三年前のまま。彼女への変わらない気持ちを胸に秘めたまま。蜃気楼のような彼女の背中をずっとずっと追い続ける。
 誘惑に簡単に負けてしまった僕の口から言えるセリフじゃないことなんて分かってる。それでも、もう本当に――――
「こんなのは、もうたくさんだ……」
 どうせ切り捨てるのなら、思い切って全てを否定して欲しい。
 あえて地獄に置くのなら、どうして蜘蛛の糸など垂らそうとするのだろうか。
 ままごとのような優しさが、全身を刺すように痛くて堪らない。
「もう……答えをください」
 肩を掴む指に自然と力がこもる。顔を見て言う度胸もないくせに、僕はいつだって口だけは一人前だ。

「僕は、アナタのことが好きです」

     

 答えの分かっている質問に、意味が無いことなど知っていた。
 それでも、彼女の口から明確な答えが無ければダメだという確信があった。
 今までのようなうやむやで、どこか煙に巻くような発言ではなく、キッパリと切り捨てられなければいけない。
 それほどまでに、僕に絡みつく『初恋』は根深すぎた。
 夕陽の射す温かな秋空の下で、真冬みたいに震えながらも彼女の肩から手を離す事が出来ない僕の両手が、それを雄弁に物語っている。
「ごめんね、片瀬くん」
 その声はいつもの飄々と掴みどころのない彼女のままで―――
「あたしは、君のこと好きにはなれないよ」
 僕はそれが、正真正銘の『初恋』の終わりだと知った。
 思えば、そんなものを振り払う作業まで、ねだって、すがりついて、挙句の果てに人にやらせてしまうなんて、僕はどうしようもなく子供だといつものように思う。
 僕は彼女から目を背けるように顔を俯けた。頭を追って、彼女の肩に乗せていた腕がだらりと落ちる。
 彼女は、こちらを振り返らなかった。
「…………」
 このまま、どこかへ駆け出してしまえばよかった。
 結末は最初から決まっていて、それは予想されていたことを確認しただけ。これだけでいいはずなのに、ものすごい脱力感が僕を襲う。
 根付いていた恋はすでに僕の一部と言ってもいい。それが丸ごとなくなってしまった僕は、きっともう以前の僕とは違ってしまっていたんだろう。
 だからかもしれない―――
「じゃあ、どうして……」
 それは、絶対に言うべきではないと思っていたはずの言葉なのに。
「どうして、あの時キスなんてさせたんですか……?」
 これ以上、彼女と言葉を交わすつもりは無かった。ただみっともなく、無様に醜態を晒すだけなのは目に見えていたから。自分を切り捨ててくれただけで満足だったのに、その理由まで求めるなんてどうかしてる。
「あの時だって、今だって……こんなこと先にさせておいてっ! 期待させておいて……なんでダメだなんて言うんですか!」
 子供だと自覚したことを都合よく解釈して、それを逃げ道に開き直るなんてことは一番やっちゃいけないことだと分かっていたのに。
「なんとか言ってくださいよ……。お願いですから……」
 言葉を止めることはできなかった。むしろ、周りの人を気にして思い切り叫び出さなかっただけ我慢した方だと思う。そのくらい、今の僕には理性というものが働いていない。
 苛立ちをぶつける自分を最低だと自覚はしていた。それでも、心のどこかでこの質問を当然の権利だとでも思っていた。
 自分から一方通行に叩きつけた問いに、くれるのが当たり前だと回答を強要する。単位が足りないことは確定しているのに、しつこく教授に逆ギレする大学生より性質が悪い。
 だから、当然のように彼女は振り向かなかった。
 少し考えるように身じろぎするだけで、それ以上動く気配が感じられない。
 さっきは自分で振り向かないように抑えていたくせに、彼女が自分の意志で僕の方を見ないことが無性に僕を苛立たせた。
 彼女の後姿はしばらく沈黙を保っていたが、しばらくするとその肩が震え始めていることに僕は気付いた。そろそろ日も完全に暮れようとしている。彼女が寒さを感じ始めたのかと考えて、頭の熱は急速に冷めていく。
 謝ろう。
 冷えた頭は今の自分の酷さだけを浮き彫りにする。何を謝るかは自分の中でも定かではないが、それだけ言って今度こそ逃げ出してしまおう。詳しく聞きたいだなんて我が侭が過ぎたのだ、これ以上程度の低い態度を見せたくない。
 そして背中に声をかけようとして、その時にも僕はまだ思い出していなかった。
「…………ぷっ」
 僕が何かに気付くのは、何事も手遅れなほど遅いのだということに。
「キスをさせたのに、理由なんかあるはずないよ」
 その残酷な一言は、背中に氷柱を突っ込んだみたいに体中から血の気を奪う。
「そんなものにいちいち細かい理由があるなんて思ってるのがもう……さ。子供っぽいんだよね」
 彼女は笑っていた。
 クスクスと、肩を震わせて。どうしようもなく馬鹿な漫才でも見て失笑を溢すように。
「三年前のことなんて、絶対忘れてると思ってたのにね。あたしだって片瀬くんに言われるまではほとんど覚えてなかったし。たまたまシチュエーションが重なった時に持ちだすから、引き摺ってるのかなとは思ったけど……あはは、まさかねー」
 押し殺したような笑いから、はっきりとした嘲笑に変わる。
 混乱した頭に、彼女の笑い混じりの声は反響するノイズみたいに耳の中でざらついて、上手く聞き取れない。
「な……んで?」
 一歩後ずさる。脳がぐらりと揺れて、体の重心を真っ直ぐに保っていられない。自分の問いが、何に向けての疑問なのかさえ分かっていなかった。
「一つ聞くけど、もしも片瀬くんと付き合ったとして、あたしにどういう利益があるの? 君はあたしに何をしてくれるの?」
 『何も与えられない』という答えを前提とした、答えようがない問い。
「多分、片瀬くんはあたしのことを大人だと思ってるよね。実際にあたしの方が年齢は上で、経験も積んでる。あたしと付き合うことで、片瀬くんが成長できる部分は色々とあると思う。じゃあ、あたしは?」
 恋愛の全てが好きや嫌いで済むなんてことは僕も思わない。こうやってごねていたって、気持ちだけではどうしようもできない事柄が、不得手な僕には想像のつかないくらいたくさんあるだろうことも理解してる。
 だけど、それでも……そこまで損得勘定を持ちだされるとは思わなかった。
 いや、彼女だって本気でそこまで考えているのでは無いのかもしれない。与えられるものが具体的に無ければ付き合えない。そんな人間はいないと思いたい。
 いや違う。なんだその被害者ぶった考え方は。
 そもそも、彼女に僕への気持ちなんてハナから無かったのだ。それに僕がごねただけ。彼女はそれをあしらっているだけ。
「違う……だって、僕は……」
 その言葉に、言い返せるわけが無い。
 それは理不尽でどうしようもない問いなんかじゃなく、正論で一つも間違うところのない答えだ。
 最初からそうだった。
 僕は、彼女の大人な部分に憧れた。飄々と、自分の考えたことを何でも言えて、どうとでも行動できる。何物にも物怖じせずに、何事にも積極的で、何を考えているのか分からない。
 そんな不可解な存在だった彼女が好きだった。きっと、子供な僕を知らない世界へ導いてくれそうだったから。
 でも、それは全部彼女に寄り掛かっているということ。
 それはとても、恋愛とは、呼べない。
 目の前が真っ暗に染まっていく。俯けた頭は異常に重くて、とても持ち上げられそうにない。膝を付きそうなのを堪えるだけで精いっぱいだ。
 いつのまにか、彼女はこちらを向いていた。自分を見下ろしているだろう彼女の顔を見る勇気なんてあるはずが無くて、こちらに向いているつま先を絶望的に見下ろすだけ。
 なんて惨め。
「言い返せないなら、そういうこと。じゃあね」
 あまりにもあっさりと、彼女の気配は消え去った。
 目の前は真っ暗だ。何も見えない、見たくない。彼女の後姿すら、見ることを体中で拒否していた。
 それから、どこをどう歩いたのかは本当に覚えていない。もしかすると、今度こそ僕の方から逃げだしたのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
 気が付けば、僕は自室のベッドの上に寝そべっていた。
 体中がだるくて立ち上がる気力もない。おそらくまだ食べていないだろう夕食も口に入るわけがないし、そのことを親に言いに行くことすら億劫だ。
 部屋の電気は消えていて、バッグは足元に放り出してあるようだ。
 そうだ、今日はもう寝てしまおう。親だって、寝てる子供を叩き起こして飯を口に詰め込もうとまでは思うまい。そう思って、もぞもぞと体を寝る体制まで引っ張り上げ、なんとか制服の上着だけは枕元から近い椅子の背に放り投げるようにしてかけた。それが限界だった。
「……ふぅ」
 失恋なんてものは、もっとさっぱりしたものだと思っていた。
 スポーツの試合で負けた時のように、泣いたり悔やんだりしたとしても『仕方が無い、次があるさ』と簡単に前を向いてまた歩き出せる。
 そんなはずがないのだ。
 三年前、寮制の大学へ何も言わずへ行ってしまった彼女に気持ちのぶつけどころを奪われた僕は、ほとんど見えていた結果に見ないふりまでして問題の解決を先送りにした。
 その時にはもう、分かっていたはずなのだ。全身に絡みついた荊を外すには、相応の傷を負わなければならないということを。
「終わりに、しなきゃな……」
 すぐにやってきたまどろみの中で、自分に言い聞かせる。
 明日学校に行ったら、先生と話をしよう。そこで全てを終わりにしてしまおう。いや、そうしなければならない。
 この荊をきれいさっぱり、駆除してしまうために。

       

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Neetsha