Neetel Inside 文芸新都
表紙

僕たちは恋してない
Child play(6) -依存-

見開き   最大化      

 図書準備室に入るなり、僕は言った。

「先生、僕、昨日生まれて初めて告白をしたんです」

 思えば、先生とあんな関係になってしまったことが間違いの発端だったに違いない。
 僕と先生の関係は、どちらから始まったと断言できるものじゃない。全てが運のせいだった、とは言わないが、偶発的な出来事の重なりでそう『なってしまった』という見方は間違っていないだろう。
 そして、少なくともその関係の主導は僕が握っていた。
 前にも少し考えたことがあった。僕は、先生を手放したくないのだと。

「ええ、あの人です。前から先生も薄々は気付いていましたよね? その通りですよ。僕は彼女が好きでした。いや……今も、好きです」

 彼女についての結論を先送りにしていた僕にとって、先生の存在は都合が良すぎた。
 年上で、大人で、一見しっかりしているように見えて、その実弱いところだらけで人に寄り掛かる癖まである。
 彼女との結末は目に見えていた。いくら目を逸らしていても、絶望的に無理なことが分からなかったほど僕は馬鹿じゃない。でも、それを認めるわけにもいかなくて、僕は『彼女のような年上の女性とも問題なくやっていける自分』になる必要があった。
 その対象に、先生は打ってつけだったわけだ。
 遠くのバラより近くのたんぽぽ……なんてわけじゃない。言ってみれば、同じバラなら形の似た造花でもいいじゃないか、という話。
 バラが手に入らないことは薄々感付いている。なら、それを似たもので満足してしまうことの何を責められると言うのだろう。
 僕より弱くいてくれる『年上の女性』。まさに代用品にぴったりだったわけだ。
 ……などと、今考えればバカバカしいことこの上ない。

「こっぴどく振られましたよ……。歯牙にもかけられない、っていうのはああいうことを言うんだと思います。いや、それは分かってたことですから。……今日は、そんな話をしに来たんじゃないんです。」

 満足できるわけがない。そんな代用品なんかで。
 本当に僕がするべきだったのは、何もそばに置かず、他の人なんか見ずに、少しずつでもゆっくりと彼女のことを忘れていくことだった。完全に忘れることはできなかったとしても、その間に時間が解決してくれることだってあるかもしれない。割り切れるようになったかもしれない。
 それなのに、彼女に似てもいない先生を、『代用品』という位置付けでそばに置いてしまった。
 そうだ、彼女と先生は全然似ていない。性格も、容姿も、似ても似つかない。
 ただ、なんとなく重視していた年上だという共通項。そして、先生があまりにも僕に都合が良かったから、似ていないことなんか気にしていなかった。

「本当は今日、先生に聞こうと思っていたんです。『先生は、僕のことが好きなんですか?』って。今まで、なぁなぁでこんな関係を続けてきましたけど、その関係がなんだったのかはっきりさせたかった。はっきりさせた上で、自分の気持ちがどうなのかとか、続けるのか続けないのとか、そういう色々なことを考えるつもりでした」

 でも、それじゃあダメに決まってる。
 似てないんだ、決定的な部分が。あまりにも違う。あまりにも足りない。満たされない。
 そんな、違いばかりが際立って見えるようになったら、もうそんな『代用品』では満足できない。
 どこまでも足りない、彼女とは違い過ぎる先生と一緒にいると苛立って仕方無かった。いつだって理想形である彼女を思い出して、比較して、絶望した。
 そんな状態で、彼女を忘れられるわけがなかった。
 それなのに先生と決定的に別れられなかったのは、そんな『代用品』でも無いよりはマシだったから。寂しさを埋めるために先生を抱いて、彼女との差に顔には出さず嘆き続ける。そんな不毛は、もうたくさんだ。

「……先生、聞いてください」
 僕の口上の途中から、先生は耳を塞いで俯いてしまっていた。
「……嫌」
「先生、お願いします」
「イヤッ!」
 追い打ちをかけるような僕の言葉に、先生が激昂する。
 そうなるんじゃないか、とは思っていた。
 僕と同じように、先生にも何かしらの事情があったのかもしれない。いや、あったはずなんだ。
 今はどうだか知らないが、あんな始まり方をした相手のことを初めから好きだったなんてことはないだろう。
 僕たちは抱き合って、慰め合って、支え合って、お互いの汚い所を見ないように努力しながらなんとかやってきたんだ。
 それを今、一方的に終わらせようとする僕は、先生にはどう見えるだろうか。
 理不尽極まりない取り引きを持ちかけるものと言えば、詐欺師か悪魔あたりか。
 どう思われようとかまわない。ただ、僕は自分の気持ちを正直に伝えに、そして全部終わらせるために来ただけだ。それが勝手なことだなんて言うのは分かってる。
 受け入れてもらうつもりなんて、最初から無いんだから。
 息を吸って、一瞬だけ止める。迷いは微塵も無かった。楽しいことが無いわけじゃなかったのに、失うことに何の心残りも無い。その事実が、少しだけ寂しかった。
「もう、授業以外で先生とは会いません。ここにも二度と来ません。何か用事を申し付けられても、何かしらの言い訳を使って誰かに頼みます」
 先生は伏せていた顔を上げ、絶望そのものを浮かべたような顔で僕を見上げる。目は大きく見開かれ、歯の根が合わないのか口は半開きだ。
 その様子は、普段の真面目そうで、大人で、生徒の前に立つ教師だった人からはとても考えられないものだった。醜くて、あまりにも無様。
 でも、と僕は半ば納得しながら思う。
 きっと先生が本当に似ていたのは、彼女では無くて僕だったのだ。何かに依存して、それの代わりを求めてしまった愚か者。僕たちは似た者同士だったからこそ、あんなに自然に寄り添うことができたのだ。
 今、それに気付いた。
 だって多分。彼女に告白を笑い飛ばされたあの時、僕はこんな顔をしていたのだろうから。
 見ているのがあまりにもいたたまれなくなって、僕は踵を返した。
 先生を、じゃない。あの時の自分をだ。
 扉に手をかけた瞬間、背中にぶつかる衝撃があった。
 いつぞやと同じシチュエーション。あまりにも慣れ親しんだ人の重さ。前の時には感じなかった、背中の湿った感触。それに大して、どうとも思わない自分。
「なんで? 私が何かした?」
「いいえ、何も」
「じゃあ、私のこと嫌いになった?」
「……いいえ」
 元から、好きでもなんでもなかった。
 先生だってそれは同じ癖に。
 それでも、ずうずうしいと思っても、以前のように苛立ちが湧き上がってくることはない。ただ、過ぎ去った出来事を眺めるような虚しい気持ちが残るだけだ。
 本当にもう僕は……。僕には―――
「ただ、もう先生が必要なくなっただけです」
「私には、まだ必要なのに!!」
 ダンッと大きい音がして、気が付けば僕は膝を付いていた。
 どうやら、背中を強く叩かれた拍子に目の前の扉に頭をぶつけて倒れてしまったらしい。血は出ていないようだが、酒を飲んだ時のように頭がふらふらする。立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
 無意識に後ろ上を見上げると、物凄い近くに顔があった。怯んだ表紙に、また頭をドアにぶつける。
 唇の感触を確かめる間もなく、いきなりぬるりと舌が咥内に侵入してくる。思わず噛みそうになったのをなんとか堪えた。
 必死に思えるほど口の中をかき回されながら、くらくらした頭で考える。
 流しこまれそうになる唾を、口の端から吐き出す。温い水分が顎を伝う感触すら気持ち悪い。
 こんなことをしても、何もかも全部無駄なのに、と。

     

 指が、唇が肌を撫でる。今までに何度も、握って、絡めて、触れて、押し付け合った。口に出さなくてもお互いにイイ場所なんて約束事みたいに覚えている。
 時間が経つほど薄れていく絵を、何度もなぞって描き直すような不毛な行為。
 笑っているのか泣いているのか分からない、悲鳴のような嬌声を上げながら、先生は僕の上で一心不乱に腰を振っていた。
 放課後の静かな学校の中で馬鹿みたいに叫ぶ姿は、酷く滑稽だ。
 錯乱した先生の言葉の中でかろうじて聞き取れたのは、一年以上の付き合いで一回も聞いたことも無い男の名前だった。
 知らない誰かの名前を叫びながら、「好きよ」と繰り返し告げられて頬を撫でられる苦痛に、僕はじっと耐えていた。
 僕はずっとドアにもたれたままで、頭はまだがんがんと痛くて、手もだらんと垂れ下げたまま先生を見上げている。それでも、抵抗できないほどの痛さというわけでは無かった。
 これは自分勝手に、一方的に関係を清算しようとした罰。自由になるための通過儀礼だと僕には思えて、その気持ち悪さから込み上げる吐き気を我慢し続ける。
 そう、酷く気持ち悪かった。
 それが頭痛のせいか、目の前の光景のせいかは分からなかった。多分両方だ。
 まるで壊れた玩具。醜くて、無様で、なにより幼稚だ。
 そういえば、彼女にこんなことを言われていたと、ふと思い出す。
『まぁ、オトナを舐めると後で痛い目見る事になるよってこと。これ、お姉さんからのアドバイスね』
 確かにその言葉に間違いは無かった。彼女を軽んじていたわけでは決して無いと思うが、恋愛というものを履き違えて考えていた僕の身に、こうして踏んだり蹴ったりな事態が起こっている。
 でも、それはきっと自業自得で、これを先生や彼女のせいだとはなんとなく思いたくなかった。
 相手のためを思ってとか、自分のしたことを悔いてとか、そんなんじゃない。ただ、目の前の人をオトナだと受け入れたくはない、ただそれだけの話。
 下校時刻を告げるチャイムが校内に響き渡る。
 機械音声のような下校を促すアナウンス。ざわつく校内。部活を終えた生徒たちが、これから校内をうろつき始めるだろう。
 思えば、このチャイムを聞くのも久しぶりのことだ。彼女がこの学校にやってくる前、僕たちは放課後に会った後、校内から人気がなくなるのを待ってこっそりと一緒に下校したりしていた。
 人目を偲んで逢瀬を重ねる日々。『代用品』だなんて、自覚する前の話。僕たちが互いに、いくつもの暗黙の了解を抱えて過ごしていた時間。
 先生のことを本当に好きになることなんて、有り得ないことだったけれど、その時間は全く楽しくなかったなんてことも、多分なかった。
 最後に一緒に下校したのは、確か彼女が来る前の週だったか。もう随分と前のことのように感じる。あの頃はまだ、僕たちは互いの歪さに気づいていない……フリができていたのに。
「先生……覚えてますか? あの時に、僕がした話を」
 口の中でだけ呟いた言葉は、きっと誰にも届かない。
 あの時の――茨姫と王子の、打算に満ちた疑惑の話。
 訂正したい。先生は決して、王子なんかではなかった。僕だってそうだ。僕たちは愚かな眠り姫。現実から逃避して、気持ちいい夢を見続けて、都合よく寄り掛かれる王子様がやってくるのを寝て待つことしかしない、惨めなビッチ。
 現実は無残だ。王子なんて現れない。待つだけじゃあ何も変えられないし、だれも救ってなんかくれやしない。ただ夢に溺れて、自分じゃあ見えない背中から腐っていくだけ。
 今ならそれが分かる。僕たちは似た者同士だから。
 自分の見たくない汚い部分だって、本当はいつも目の前にあったんだから。
 先生は相変わらず、僕の上でみっともなく嬌声を上げている。まるで外界のことなど全く目に入っていないかのように、周りに自分の声が聞かれるだろうことも構わずに。
 先生をこうしてしまったのは、僕だ。
 もしかしたら、僕だってこんな風になっていたのかもしれない。先生に当たり散らし、彼女に無残に扱われて、そうなってもおかしくない時はいくつもあった。
 だから、僕には先生を止める権利なんてない。滑る唾液の不快に、背中に食い込む爪の痛みに、ただ堪えるだけ。
 ――だって、そんな時間が永遠に続くわけなんてないんだから。
 遠くから聞こえる生徒たちのざわめき、張り上げるような先生の声、それだけしか音のない空間だったはずの図書準備室に、ノックの音が妙に大きく響く。
 扉に背中を合わせていた僕は、その心臓を直接叩かれたのかと思うほどの振動に飛び上がるかと思うほど驚いた。
 それまで何もかも意識の外だった先生すら、動きを止めていた。
 再びノックが二回。摺りガラスの向こうに移る黒い人影。何故今まで気づかなかったのか。
 間違いなく、この扉の向こうに誰かがいる。
 こちらからそれを問うまでもなく、向こう側から野太い男の声が飛び込んできた。
「おい! ここに誰かいることは分かってるんだぞ、とっとと出て来い!」
 ガタガタと戸が揺れる。ノックではなく、扉を開けようとしているのだ。カギがかかっていたことに心底安堵しながらも、状況はどこまでも絶望的だった。
 図書準備室には逃げ場などない。あるのは今僕が背にしている扉以外には、図書館に繋がる扉が一つだけ。それにしたって、図書館から廊下に出れば図書準備室の前にいるであろう人影の主には絶対に見つかってしまう。必ず捕まって、そうなれば知らぬ存ぜぬではいられない。
「さっきまでギャーギャー騒いどいて、今さら静かになっても無駄なんだよ! ここはお前らのためのホテルじゃねぇんだぞ!」
 思わず舌打ちをしそうになる。誰か生徒が聞きつけて告げ口したのか、見回りをしていたこの教師が通りすがりに気付いたのかは分からないが、こいつは僕たちがここで何をしていたのか、大体察している。
 図書準備室のカギは先生が持っているから、ここの扉を開けるには職員室にあるマスターキーを使うしかない。
 もしかすると、この教師はすでにマスターキーを持っているのかもしれない。僕たちが何を知っているから、身支度を整える時間を与えてくれているのかもしれない。
 ここまで考えて、僕はおかしくて吹き出してしまいそうになった。
 さっきまで、何もかもどうでもいいと思っていた自分。それが、ちょっと逃げ道を塞がれただけで保身を考え、慌てふためいてしまうなんて。
 結局のところ、僕はどこまでいっても中途半端なんだ。
 大きなため息を一つ吐くと、観念した。どちらにしても、もうどうしようもないのだ。なら、恥を最低限にするのが一番利口な選択だろう。
 素直に服を着て、出ていこう。この一件は大学への進学などに大きく響くのかもしれないが、それこそもうどうでもよかった。
 そして僕は見上げた、先生の顔を。
 一瞬だけ目が合う。その時の先生の目を、おそらく僕は一生忘れないだろう。
 要らない玩具、似た者同士、保身、この体勢。その目を見ただけで、点と線が面白いように繋がり、僕は先生の手が扉のカギに伸びるのをただ茫然と見送った。
 これから何が起こるのか、手に取るように分かったのに。
『まぁ、オトナを舐めると――』
 彼女のその言葉が、呪いのように頭の中で再生される。
「き……ぃぃぃぃぃいいいいいいいやあああああああああああ!!!!」
 耳をつんざくような悲鳴と共に、先生はあられもない恰好のまま扉から走り出ると、そこにいた中年の男性教師の胸に飛び込んだ。
 僕はそれを――僕もみっともない姿のまま――ただ見ていることしかできない。
「助けてっ! 助けてください! この生徒が、私を――」
 先生が泣き叫びながら僕に無理やり襲われた顛末について語っているのも、どこか別世界の出来事のようだった。
 気持ち悪い。
 可笑しくて吹き出してしまいそうだった。本当にその通りにしたら、笑い声よりも先に胃の中の内容物が逆流して飛び出した。
 気持ち悪い。
 頭の上から降ってくる悲鳴、怒号。何を言ってるのか全然聞き取れない。
 少し黙っていて欲しい。僕は気分がこんなに悪いのに。目の前が白く染まっていく。地に付いているはずの腕の感覚さえない。
 こんなに気持ち悪いのなら、いっそこのまま死んでしまえればいいのに、と。
 廊下にくず折れながら、僕は本気でそう思った。

       

表紙

犬野郎 [website] 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha