Neetel Inside 文芸新都
表紙

僕たちは恋してない
Child play(8) -告白-

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 彼女の結婚式から二週間後、僕は三年ぶりに母校の敷居を跨いだ。
 母校と言っても、一年しか通っていない卒業した学校のことではない。たとえ途中で追い出された場所だとしても、僕にとっての母校は先生や友達との思い出が三年分詰まったこの学校だ。
 平日の夕方。下校する生徒たちの波が落ち着いた頃に校内へと入る。陰る日差しの中、部活中の生徒たちの声が遠く聞こえた。
 思えば、いつも先生と会っていたのも、大体このくらいの時間帯だった。
 こんな物騒なご時世だからだろう、校舎内に入る時に守衛に呼び止められてしまった。卒業生でもない僕には、やっかい極まりないことだ。
 「退学したが落ち着いたので、当時の先生に挨拶したい」と正直に言っても、本当にこの学校に在籍していたのかを確認する資料がなければ校内には入れない。
 退学した生徒がお礼参りに来るなど、めったにないことなのだろう。資料は急に見つかるわけもなく、結局思いだす限りの教師の名前を羅列して、たまたま職員室で手が空いていた教員に事実確認をしてもらうことになった。
 待つことしばし。やってきて僕の顔を見るなり顔をしかめたその教員は、なんと僕が学校を辞めるきっかけになったあの日。図書準備室の前で声を張り上げていた、中年の教師その人だった。
 あの時は顔をちらっと見ただけで誰だか判別付かなかったが、確か当時は学年主任を務めていたはずだ。名前は……原本だっただろうか。
「何をしに来たんだ?」
 とりあえず連れてこられた応接室で、さも嫌そうな顔で言う原本にさっき守衛に言ったのと同じセリフを返す。それを聞いて、原本の眉根に寄せられていた皺が、より一層深くなった気がした。
「あんなことをやらかしたってのに、会わせるとでも思ってるのか?」
 確かに、僕がやったと言われたことを考えればそれは当然だ。でも、こうして直接来る以外の方法なんてなかった。
 意外かもしれないが、僕は先生のケータイの番号も、メールアドレスすら知らないのだから。
 個人的に会うのは学校でだけ、それも放課後のみ。お互いに会いたい時に会う感じだったから、わざわざ示し合わせることの方が少なかった。
 まぁ、知っていたとしてもあんな事件の後だ。両方とも変更されてしまっているはずだろうけれど。
「どうしても、もう一度会ってお話しさせていただきたいんです」
 だから僕には、そう言って誠意を見せつけることしかできない。ソファーに座り姿勢を正し、目を見てはっきりとそう言った。しかし――
「それは無理だ」
 即答される。原本の顔は真剣だった。でも、それで引き下がるわけにもいかない。
「どうしてですか?」
 原本はシャツの胸ポケットからおもむろに煙草の箱を取り出すと、一本取り出して何も言わずに火をつけた。あれから三年も経ったというのに、この学校の悪法はいまだに改善されていないらしい。
「理由は二つある」
 煙を吐き出し、原本は言った。
「まず、お前が起こしたことが性的なものだということだな。一応被害者である彼女は、周囲の人間には分からない心の傷を抱えて生きているかもしれない。三年経ったとはいえ、お前と会うことでその傷が開いてしまう危険性は十分にある。それだけで、会わせられない理由には上等だ」
 一応、という言葉に一瞬覚えた違和感を置き去りにして、原本は続ける。
「中には、何年も異性と手も触れられないほど酷いダメージを受ける被害者だっているそうだぞ? 大げさに聞こえるかもしれんが、冗談じゃなく性的なことってのはそれだけ尾を引くんだ」
「……それは、そうですね」
 本当は逆に、僕の方が押し倒され、無理やりに事に及ばされた。僕にトラウマなんて程のものは残らなかったし、先生にそんなものがあったとも思えない。
 でも、真実を話すことができない僕には、それに言い返すだけの言葉がなかった。原本の告げる理由は十分すぎるほどに正論だ。嘘やその場限りの屁理屈で、覆せるようなものじゃない。
「でも、本当にもう一度だけ……」
 絞り出すような僕の言葉に、原本はばつが悪そうに頭をかいた。
「まぁ、もう一つの理由はしごく単純なんだがな……」
 そうして、僕のここでの抵抗はあっけなく意味をなくしたのだ。
「清水先生は、もうこの学校にはいない」
 頼んで見せてもらった図書準備室は、三年前とはまるで様変わりをしていた。
 コーヒーメーカーや冷蔵庫は運び出され、机の物の配置も変わっていた。新しい住人は先生のようにここに入り浸っているわけではないらしく、物が極端に少なくなって、がらんとしてしまった印象を受ける。
 そこに先生の面影はない。新しい住人の色さえない。ただ、古い本とカビの臭いしかしない、薄暗い空間があるだけだ。
 三年前、先生は僕より少し遅れて、その年度の卒業生の担任だけはやり通した後で学校を辞めたという。
 僕の処遇が停学止まりだった理由の一つに、事件の詳細がよく分かっていないというものがあったらしい。
 僕が吐いて倒れている間に、先生は原本たち数人の教師の前で強姦事件の顛末を話して聞かせた。しかしそれは、どうにも要領を得ない部分が多々あったそうだ。
 事件のショックで錯乱しているという可能性もあったが、それにしては口調がハッキリしすぎていること、発見された時の僕の挙動がおかしすぎたことと、意識を取り戻した僕が何も話さなかったこと。逆に、先生は声高に自分が被害者であると主張するなど、客観的に落ち着いてみれば、確かに不審な点が多すぎる。
 そもそも、性的事件の被害者はそのことに触れることを避けようとするのが大多数だという。裁判の場で詳しい事件の解説をされるのが嫌で、示談止まりになってしまうことが多いというのもたまに聞く話だ。
 そうなると、ベラベラと喋っていた先生に疑惑の目が行くのも自然なことだったのかもしれない。
 いや、確かに先生は錯乱していたんだ。だから、そんな簡単な『ミス』を犯した。
「それで、先生は結局?」
「お前と同じ処分だ……まぁ、要するに停職だな」
 先生が担任を持っていたのは、僕たち三年生だ。受験に与える影響も鑑みられ、その年度末までは例外的に職務を続けさせてもらえたのだろう。
 その後のことは、こちらから質問する気にすらなれなかった。
 住所や電話番号は個人情報だ。知っていたとしても部外者に――いや、違う。関係者だからこそ、教えるはずがない。
 この学校にいないと分かった時点で、それ以上の情報を得ることはできないとはっきりと分かってしまったから。
「満足したか?」
 図書準備室を出るなり、原本はそう聞いてきた。
「はい」
「そうか」
 それだけ言って、鍵を閉める。
 満足など出来るはずもなかった。でも、納得はできた気がする。ここに来ても何のけじめにもならなかったなら、やっぱり僕は先生に直接会わなくちゃいけない。
 何の当てもなくても。それが僕自身だけのためのわがままでも。
 学校を出る際、校門まで付いてきた原本はなんでもない世間話のように、煙草の煙を吐くついでみたいに聞いてきた。
「……あの時、襲ったのは結局どっちだったんだ?」
 原本の顔は僕を見ていなかった。僕がどう答えようと、それを心の内に留めてくれるつもりなのかもしれない。ほとんど話したことがなかった教師なのに、何故かそんな確信があった。
 だから僕は、あの日から誰にも話さなかった事件について、初めて一言だけ漏らしてしまった。
「さぁ? ……でも、あの事件の被害者は清水先生です。それは、間違いないですよ」
 もう二度と来ることはないだろう。そう思いながら、僕は学校を後にした。


 次の日から、僕は暇さえあれば電話をかけまくった。
 前の学校でのクラスメイトを中心に、学校で付き合いのあったほとんどの人に、先生の所在を聞いて回ったのだ。
 幸いだったのは、事件のことが公にされておらず、生徒には僕が停学になった理由は『一身上の都合』だとされていたことだ。連絡した際にいちいち質問攻めにされるのは面倒だったが、レイプ事件の犯人だと思われているよりはよっぽどマシだ。
 しかし、そんなことをしてみても、成果の方は芳しくなかった。
 先生が学校を辞めたのは、僕たちの学年が卒業した後なのだ。僕たちの代には先生が辞めるということが知らされたり、次の行き先が告げられたりする機会はなかったらしく、その事実に驚いてすらいる者がほとんどだった。
 部活をしていたもので後輩にツテがありそうな奴には、下の学年でそういったことがなかったか聞いてみてもらったものの、それも空振り。
 先生は僕たちが一年生だった時に赴任してきて、三年間担任をやっただけで辞めてしまった。部活の顧問もしていなかったのだから、他の学年ではそれほど顔が知れていなかったのかもしれない。
「――ああ、いや。こっちこそ無理言って悪かったな。……うん、ありがとう。今度飯でも奢るから。ああ、じゃあな」
 受話器を置いて、大きなため息を吐きだす。
 三年分のクラスメイト、そしてその後輩のツテ。僕の少ない人脈は、あっけなく全滅だ。
 僕と個人的に付き合いのある教師なんて、先生の他にはいない。いたとしても、あの事件を知っている学校関係者が僕に何かを教えることはないだろう。
 生徒もダメ、教師もダメ。傍から見れば八方塞がりに見えるだろうが、実のところ、僕には最初から思いついていた手が、まだ一つだけ残されていた。
 要は、あの当時は学校関係者で先生と交流も持っていて、今はあの学校と全く関係がない人物ならいいのだ。
 そんな都合のよすぎる人物が、やっかいなことに一人、難なく思い浮かんだ。
 僕は再び受話器を取ると、その人物の電話番号を手元のはがき――結婚式の招待状を見ながら押す。
 数回の着信音の後に出たのは、予想していた通りの若い男の声。
「もしもし、樋口さんのお宅ですか? ……私は、夏樹先生に以前教育実習でお世話になった者で……はい、その時の生徒で……はい。今日は少し伺いたいことがありまして、お取次ぎしていただけますか?」
 保留状態で流れる電子音のメロディーを聞きながら、僕はまたため息を吐きたくなって、それをごまかすように苦笑した。
 この間、あれだけキッパリと別れておきながらのこの体たらく。まさか一ヶ月も経たずにこちらから連絡することになるなんて、思いもしなかったのだから。
「どうしたの、何か用事?」
 電話の向こうから聞こえる声に、もう心が揺れることはなかった。


 そこでの会話は割愛させてもらうが、結論から言えば、彼女は先生の居場所を知っていた。
 先生は辞職した後に実家へと帰ったらしく、ご丁寧にもその住所まで教えてくれた。
 なぜ先生は、自分がああいうことになってしまった原因とも言える彼女にそこまで教えたのか。彼女と先生は、あの後にどんな話をしたのか。
 気にはなることは多々あったが、それを彼女に聞くのは間違っている気がして、僕は情報だけを事務的に教えてもらうと丁重にお礼を言って早々と彼女との通話を断ち切った。
 それを聞くのなら先生の口から。僕がけじめをつける相手は、あくまで先生なのだから。
 先生の実家は思っていたより遠くなかった。県外だ、などと言われたら大きな休みまで待たなければならないところだったが、地元のローカル線を使って一時間ちょっとで行ける距離だ。
 それならと。僕は次の週末を利用して、その場所を訪れることにした。
 休日の昼間、繁華街とは逆へ向かう各駅停車に人はまばらで、白い光の差す車内はまるで夢の中のようだ。いや、もしかしたら本当に眠ってしまっていたのかもしれない。秋も終わりにさしかかっているというのに、今日の日差しは春のように暖かい。
 電車に心地よく揺られながら、僕は考える。
 あの人のこと、本当にどうでもいいと思っていた。今でも先生は僕にとって何なのか、誰かに聞かれたとしても上手い肩書きが思い浮かばない。
 でも、そうではなかったはずなんだ。だからこそ僕は三年前、彼女にフラれて満身創痍だった状態で、それでもきっぱりと終わらせようと思ったんだから。
 きちんと関係を終わらせられないままで、わだかまった気持ちを抱えたままで先へは進むことは、きっとできない。彼女の時のように、いつまでもしこりが胸に残り続ける。
 三年前は、そのやり方に失敗してしまったけれど。今なら、それができる気がする。
 だから僕は考える。
 先生と、何から話すべきか。何を言うべきなのか。
 電車から降り、知らない街をゆっくりと歩く。
 メモに記された住所を目指すと、着いたのはどこの町にでもありそうな、商店街の中ほどだった。
 休日の昼間だ。それなりに賑わっていて活気がある。周りから聞こえる店員のおじさんが叫ぶ声や、子供連れの主婦が上げる声が騒がしい。
 全く知らない人間のはしゃぐ声はどこか別世界のもののようで。だからこそ、その聞き慣れた懐かしい声が、すぐに耳に付いた。
「はい、350円のお返しです。ありがとうございましたー」
 八百屋の店先だった。
 綺麗に肩口で切り揃えられていた髪は、ざっくりと背中にかかるくらいまで伸ばされていて。いつも着ていたパリッとしたスーツが印象的だった姿は、トレーナーとジーパンという、思えば一回も見たことのなかった私服に包まれていた。
 その姿はあの頃とは程遠くて、でも、僕はそれ以外にこの人の呼び方なんて知らなかったから。
「……先生」
 そう、声に出た。距離は離れていた。呼んだのではなくて、漏れるように滑り落ちた言葉。
 それでも、彼女はこちらを向いた。
「片瀬……君?」
 振り向いたその顔に表情はない。
「話を、しにきました。今度は、本当に話をするために」
 あの時みたいに、一方的に終わりを押し付けるのではなくて。二人で、きちんと過ちを清算するために。

     

「お母さーん! ちょっとの間お店お願い。ちょっと出てくるから!」
 先生は店の奥に向かって大声でそう張り上げた後、僕のそばへゆっくりと歩いてきた。
「おまたせ」
 特にかしこまった挨拶もなく、僕の前に立つ。あまりにもあっさりしたその態度に、僕の方が戸惑ってしまいそうになった。
「いいんですか、お店の方。お忙しいようなら、もう少し遅い時間でも僕は……」
「いいのいいの。私が帰ってきてから、お父さんもお母さんも私に色々任せっきりなんだから。少しくらい運動させてあげるのも親孝行なのよ」
 手を振って笑う先生は、三年前とは印象が明らかに変わっていた。外見だけの話ではなくて、どこか――柔らかいというか、軽い雰囲気になったような気がする。
「話って言ってたけど、どこか入る? っていうか、私こんな格好なんだけど……着替えてきてもいいかな?」
「ええ、もちろん」
 それから僕たちは、先生の着替えを待って町に出た。先生の私服は、着替えたと言ってもジーパンはそのまま。上は薄手のシャツにスニーカーという出で立ちで、先生の私服を初めて見る僕にはそれでも十分新鮮に感じた。
 僕は、もちろんこの町のどこに何があるかなんて分かっていない。なので、先生の知っている商店街の近くにある喫茶店に入ることとなった。
 落ち着いた調度品に囲まれた喫茶店の店内は、休日らしく待ち合わせや暇つぶしをしているらしい人でそこそこに混み合っている。
 ゆったりとした、静かで本を読んだりするのに向いているような雰囲気が、先生が好きそうな感じだと思った。
 席について、注文をして、一息ついて。最初に口を開いたのは先生の方だった。
「私のこと、恨んでる?」
 それは謝罪の意を含んでの言葉ではなく、ただの確認のように聞こえた。だから僕も、できるだけ平坦な声色で返す。
「いいえ……。先生こそ、僕のことを恨んでないんですか?」
 僕の言葉を聞いて、先生はそれが意外であるような顔をして「どうして?」と聞き返した。
「だって、あの時の僕は余裕なくて……一方的に、ちゃんと話もしないで終わらせようとしてしまいました。そのせいで、結局はあんなことになってしまったじゃないですか」
 そこで、注文したコーヒーが店員によって運ばれてきた。先生は僕の顔を見ずに、ミルクと砂糖をその中に落としてゆく。混じり合った黒と白。次第にあいまいになっていく境界線。
「私ね、あの後ちょっと考えてたんだ。私たちの関係って、いったい何だったのかなって」
 はっとして目を見開く。それは、僕が三年前にずっと考えていて、しかし答えが出せなかった問いだった。
「彼氏彼女……じゃなかったよね。一番近いのはセフレかなーとか思ったんだけど、それにしてはちょっとベタベタし過ぎてた気がする。って、これは私が一方的にって感じだったけど」
 僕は、それに軽く頷いた。
「それに、僕たちはきっと、お互いのことを見たかったわけじゃなかったんですよね。誰か別の人を重ねて、代わりにしたかっただけだったんだと思います」
 僕は彼女を、先生は知らない男の人を。そういう『代用品』として、お互いを見ていた。
「うん……だからね、あれもなるべくしてなったことだと思うの。夏樹先生が現れなくても――片瀬君が何かしなくても、どうせ、いつかあんな感じになっただろう。だから仕方ないって、そう思うことにしたの」
 そこまで言ってから、先生は顔を上げてすまなそうな顔をして笑った。
「あはは、ごめん。少しウソかも。今そういう風に思えるのは、三年も経ったからかな。こっち戻ってきて最初は、正直恨んでた時もあったよ」
 そう言ってもらって、僕は逆に少し気が楽になっている自分に気付いた。
 確かに何も気にしていないと言われるのは、僕にとっては救われたことになるのかもしれない。
 でも、ずっと自分の責任だと思っていたそれを全く責められないままなのは、なんだか居心地が悪い。
「三年か……思ったより長くなかったな」
 先生はそう言うと、ふと思い出したかのように聞いてきた。
「片瀬君は、あの後夏樹先生とは?」
「……一回だけ、会いました」
 そう言われて、先生と彼女は三年前、最後になんらかの形で話をしていたということを思い出す。
「先生は、あの人と何か話しましたか?」
「うん、まぁ少しね……でもあの頃は一番不安定な時期だったから、いろいろと酷いことを言っちゃったかもしれない……。彼女の様子、どうだった?」
 心配そうな顔を浮かべる先生に、僕はとりあえず彼女の結婚式の様子を詳細に伝え、彼女と話したことも、そこでどう感じたかも話した。
 周囲から惜しみなく祝福され、幸せそうだった彼女。最後に言われた言葉、それでも振り切った感情。それは、どちらかというと僕の方に堪えるものがある話だった。
 正直、彼女が先生に何か言われたことを引きずっているとはとても思えなかった僕は、
「あの人は、相変わらずでしたよ」
 そう言って、できるだけあっさりと話を終えた。先生は、胸を撫で下ろしたようにほっと息を吐く。
『あの人は、僕のことを何か言ってましたか?』
 未練はない。そう思っていても、そのセリフを飲み込むのに必死だった。
「先生の方は、どうですか」
 余計な一言が出る前に、今度は僕の方が聞き役になろうと問いかける。
「え?」
「名前しか知らないですけど……ほら、あの最後の日に名前を呼んでた人。あれが先生の……」
「あー、うん」
 先生は、言いたくないというよりはどう言葉にしたものか考えあぐねている様子で、肩にかかった毛先をいじり始めた。
「私の場合もね、本当に未練がましい感じだったから」
 そう前置いて、先生はぽつぽつと語り出す。
 僕たちの学校に赴任してくる少し前に、彼氏にこっぴどくフラれたこと。
 よりを戻そうとあれこれやってみたけれど、それも全てダメだったこと。
 慣れない仕事と味気ない私生活との板挟みで、あの頃は本当にまいっていたと告げた後、僕の驚いた顔を見て先生は苦笑した。
「意外だった?」
「はい。先生は、その……凄くそつなく、教師の仕事をこなしていたように見えたので」
「そんなことないよ。ほら、覚えてる? 初めて図書準備室で会った時のこと」
 忘れるわけがない。椅子に浅く腰かけて、だらしない恰好で胸元をあおいでいた先生は、僕の中にいたその『そつない教師』という印象をぶち壊してくれたのだから。
 僕たちはその時のことを同時に思い出し、顔を見合わせて笑った。
「ね? 人の目の届かないところだとあんな感じだったわけ。本当は凄くいっぱいいっぱいだった。そんなとき、片瀬君に見つかって――」
 僕は、つたない脅しを先生にかけた。本当に、偶然としか言いようのない利害の一致がなければ絶対に成立しなかったであろう、僕たちの関係の始まり。
 先生の懐かしむような瞳を真正面から受けとめる。きっと、僕も同じ目をしているだろう。
「きっと、何でも良かった。寂しさを埋めてくれる何か。生活に潤いを与えてくれる何かが欲しかっただけ」
「潤い……ですか?」
 生活に潤いを――とはよく聞く言葉だが、それは僕たちがしてきたこととは少々ニュアンスが異なるように思えた。
 しかし、先生はしっかりとした口調で、
「そう、潤い」と断言した。
「とてもいい結末だったとは言えないし、何かのプラスになったとも思えないけど……あの関係は、何も嫌なことばっかりだったわけじゃないでしょ? 簡単に綻んでしまうような結び目だったけど、それがあったおかげで、少なくとも私は慰められたよ」
 なるほど。何の足しにもならない、状況の解決には何の関係もない。けれど、どうしようもなかった日々にほんの少しだけ色を足すことができる。それが、たとえ一時凌ぎのものでしかなかったとしても。
 それはまさしく、砂漠で与えられたコップ一杯だけの水のように。
「確かに、僕も気を紛れさせることができてたと思います……でも――」
 そこで、僕はたまらず吹き出してしまった。
「お互いにそう思ってたとしても、何のプラスにもならない関係って言うのは……酷いですよね。本当に」
 そう言って、また二人で笑い合った。


 僕たちは、いろいろなことを話した。
 図書準備室で会っていたころの思い出話や、この三年間何をしていたか。果てには、お互いの昔話にまで及んだ。僕も調子に乗って、いろいろと恥ずかしい話をしてしまった気がする。
 僕たちはお互いのことを知らなさ過ぎて、時間はあっという間に過ぎていった。
 三年という時間。そして、ちぐはぐだった心と身体の距離の差を埋めるには、丸一日を使ってもとても足りない。
 話を始めたころには高かったはずの太陽が完全に姿を隠して、ようやく僕たちは喫茶店からでることにした。
 夜の街を先生の実家とは別の方向へ向かって、どちらともなく散歩でもするように歩き出す。
 午前中の暖気とは打って変わって、まさしく秋の夜というような冷気が肌から染み込んできた。
 正直、こんなに長居するつもりではなかった僕の格好では少々堪える気温。部屋着も同然で出てきてしまった先生も、それは同じだろう。
 でも、僕たちは距離を近づけることなく、他人のような知り合いのような、微妙な距離を保ちながら歩いた。
 それが、僕たちの正しい距離なんだとどこかで感じながら。
「ねぇ、片瀬君」
「なんですか?」
 聞き返しながら、きっと僕が考えていることと同じようなことを言うのだろうと思った。
「私たちって、たぶん今までが他人だったのよね」
 ただ、身体だけが触れ合っていただけ。そこには理解も興味もなかっただけ。
「そうですね」
「だから、全部これから」
 そう、これから。僕たちは、やっと前へと歩き出せる。
「片瀬君、来年の今頃は就職活動でしょ? もう行きたい会社とかは決めてるの?」
「いえ、まだです。けど、そろそろちゃんと決めないといけないですね……。先生は、このまま実家で?」
 先生は少し考えるような素振りを見せた後、
「うーん、実家にずっといても仕方ないし、出会いもないし。いい機会だし私も仕事探そうかなー」と、休日の予定でも話すかのように軽く呟いた。
「出会いって……」
 僕は、母校で原本教諭が話していたことを思い出して苦笑する。先生に限っては、トラウマどころか恋愛に対しての引け目すら、すでに微塵もないらしい。
 いいことではあるはずなのに、どこか複雑な気分になった。
「あ、笑わないでよ。私だってもう二十七なんですからね。そろそろ焦らなきゃいけない時期なんだから」
 そこで先生は何か思いついたように言った。三年前なら絶対に見せなかったであろう、子供みたいな笑顔で。
「それとも、片瀬君がもらってくれる?」
 だから僕も、満面の笑みでそれに答える。
「それだけは、絶対にお断りします」
 僕たちは進み始める。寄り道だってするし、回り道もするけれど、それでも少しずつ少しずつ成長しながら。
 子供が大人へ変わっていくように。今ではないどこかへ。

                            「Child play」 完

       

表紙

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Neetsha