多々良木士郎(フィルター・マン)

多々良木士郎(フィルター・マン)

 多々良木士郎(たたらき・しろう)、43歳。阿弥ノ薬品株式会社、品質管理部、精製チーム所属。テクニカル・エリアは毒性生体分子薬の精製・保存。

 朝、出勤でチビ共を押しのけ横断歩道を渡る癖、いつから始めたのかは彼も覚えていない。
 190cm近くある身長に100kgを超す体重、いわんや、その体型。多々良木にしてみれば一日の始まりに自分の強さを確かめる儀式のようなものだったのかもしれない。もちろん、他のヒューマンが彼に道を譲る理由は体型ではなく肥大化した咽頭のせいだろう。

 勤続21年目にしてベテランの技術者兼管理者、一目を置かれる反面、部下が一人もいないことが彼を朝の凶行に走らせたのだろうか。しかたがない、彼のラボは常に生暖かい空気が流れ、その中心に屹立する男の喉仏はソフトボール並に腫れ上がっているのだ。多々良木にとってはただただ不幸なことではあるが、彼のもとに送られた才気溢れる部下候補たちは自分の未来を想像し、逃げた。
 喉仏に関して彼を糾弾するのはお角違いなのだろう。そもそも企業がまともな換気システムを備えた設備を準備するべきなのだ。疑問を呈すとすれば、なぜ多々良木はそんなラボでがんばり続けてしまったのか、その1点に尽きる。
 そうして21年、バタバタと倒れる同僚・先輩・後輩を見送りつつ、多々良木は来る日も来る日も検体を前処理し、分注し、分析器にロードし続け、そうして喉仏は少しずつ、皮が厚くなってるという表現ではごまかせないレベルで大きくなっていった。

 それが旧馬喰町交差点に毎朝8時に現れるモンスターの生い立ちだ。

 今日も製造部の若造が恐る恐る多々良木のラボへやってくる。全身防護服に身を包んでいても、その所作から彼が怯えていることが分かる。対する多々良木は素顔すら見せない小僧を蔑みの目で見下し(とんだ礼儀知らずだ、目上の者の前でマスクすら取らんとは)、手荒く検体を奪い取る。ボトルの中の検体がぬるりと揺れた。
 ボトルに密封されているとはいえその乱暴な扱いに小僧は少し憤りを覚えたらしい。マスク越しにぼそぼそとつぶやいた。
「あん?聞こえんなあ?マスク取って話せや!」
 一喝して小僧をラボから追い出す。ここ最近マスクを外す根性のある奴はついぞ見ない(昔はいたが、外したその若者は喀血して死んだ)。多々良木はため息をつきつつ作業に取り掛かる。

 最近妙な連中が増えたのが気に食わない。今朝は頭が光る男を見かけた(一体どこの工場だ?いまいましい)。貧弱な若者ならそのまま突き飛ばして我が道を歩いたろうに、多々良木は思わず道を譲ってしまったのだ。由々しきことだ。最後に彼の朝の儀式が邪魔されたのはいつだったか。多々良木から朝の小さな楽しみを奪っていった豆電球野郎は、あろうことか彼に向かって会釈したのだ。まるで怖がらせてごめんなさいという風に。思い出すだけで喉元が熱くなった。
 品管システムの業者の小僧もそうだ。瞳孔が妙にのっぺり拡がったと思ったらそのまま無言で出て行きやがった。あいつは根性があると思って目をかけてやったのに。ああいうやつはもうだめだ。こっちのことも理解しようともせず自分だけがつらいと思ってる手合い。あいつが仕事で成功することはないだろう。

 そんな多々良木でも朝は、彼にとっての本当の朝は、自分の人生への悔恨と悲しみで始まるのだ。
 肥大化した咽頭は夜、彼が寝ている間に彼の生命を守るため、昼間貯めこんだ微粒子群をろ過・排出する。多々良木が目を覚ますのにアラームはいらない。首筋に冷たいものを感じて慌てて起きる。彼のフィルター・スロートが汗腺を通じてベタつく粘液を分泌するのだ。枕と布団を汚さぬよう、多々良木は毎朝小走りに洗面台に突進する。階下の住人はその足音に自分の精神の限界を感じる。
 いっそのこと人外の器官として完全に置換されてしまえばいいのに。首の付け根あたりのフィルターはまだヒューマンだった頃を覚えていて、滲み出た粘液の下からプチプチとひげが伸びている。それを安物の髭剃りでこそげ落としている時、多々良木はたまに目頭が熱くなるのを堪えられなくなる。

 頑固一徹で仕事一筋、保守的で礼儀を重んじる。そんな男達にも化学物質は平等で、首都にいくつかある工業地帯では、働く場所さえ違えば美徳と賛じられる気質をもったヒューマン達が、不気味な信念に基づく異常な企業人と化していた。

 おそらくは市政のことなど気にせず、自らが奉じると決めた企業に今も尽くしているのだろう。特区からこのタイプの変異体が出てきたという噂をついぞ聞かない。彼らが特区の中でうまくやっているとは思い難いが、それでも彼らはそこで生きていくしかなく、互いの存在に気づくことをただ祈るばかりだ(ざっくり1組織に1体程度の確率なので、彼らはいつも孤独に苦しめられていた)。


<多々良木士郎(フィルター・マン)・完>
sage