麝香豌豆(前)

1: 15分前

 鞄から煙草を取り出すと、後輩のマツモトは意外そうな顔をした。構わず新品のハイライト・メンソールの封を切る。ソフトの場合どちらから開けるかなんてくだらない事を説教じみた口調でくどくど話してくるおじさんもいたっけと思い出しながら、ろくに考えもせずに勢いよく破ると、周辺までぼそぼそと汚く破れてしまった。さらに力まかせに1本を引き抜くと裂け目はより大きくなり、いよいよみすぼらしい。しばらく人差し指と中指の間で弄びながら、香りを嗅ぐ。火を点ける前の、このすっとするような重厚な匂いだけは好きだ。
 「先輩…煙草吸うんですね、しかもハイライトとか。意外」
 いつまでも目を瞑って煙草をくんくんしているだけのわたしの様子に困惑したマツモトは、ようやくそれだけの言葉を発したものの、無視して返事をせずにいるとまた黙りこくっている。そこへちょうどやってきた揚げ出し豆腐を見ると、ナイスタイミングとばかりに手を伸ばした。じつに旨そうに食べる。ふうふうと息を吹きかけて冷ますそのたびに、柔らかそうな猫っ毛がふわふわと揺れた。
 「すわないよ」と、唐突にわたしが返事を寄越すと、マツモトはへえ?と声を上げる。「吸わない、煙草は。酒は飲むけど。これは今日だけとくべつなんだ」
 さっきコンビニでハイライトと一緒に買ったライターの石をしゅっと回す。うまく着火できず、もう一度しゅっと。息を深く吸い込みながら煙草の先を炙ると、じわじわという心地よい音がする。この音がたまらなく好きだ。
 しかし途端にむせてしまう。激しく咳き込むわたしをマツモトがきょとんと見ている。はずかしい。背中をさすってくれながら、マツモトは言う。
 「確かに、吸わないみたいですね」



  2: 15年前


 こじかちゃん、とわたしは呼びかける。こじかは振り向かない。もう一度、もっと大きい声で呼びかける。こ じ か ち ゃ ん 。するとこじかは勢いよく振り返った。
 「やめてって言っとるじゃん、それ」
 つよい口調でそう抗議すると、こじかは再びそっぽを向いてしまう。「恥ずかしいんだってば」
 でもわたしはやめる気などさらさらない。セーラー服から伸びる腕も脚もか細く小柄で、いつもほんのり日焼けしている肌はうっすらと栗毛色を連想させるし、おまけに名前も小島かなだ。この子はこじかだと、直感でそう思った。そんなわけでわたしは尚もこじかちゃんあのさ、と続ける。なにい。眉間に不満げなしわを刻んだままではあるものの、諦めたようにこじかは問い返してきた。
 「こじかちゃんの手、すべすべでやわらかくてつないでると安心するからすき」
 「うるさいわ」
 こじかは照れたようにまたしてもそっぽを向いてしまうが、ぎゅうと手を握ってくれて、それでわたしはいとも簡単に嬉しい心持ちになってしまう。
 天井あたりに備え付けられたスピーカーから、間もなく列車が到着する旨を知らせるアナウンスが流れた。田舎特有の単線で2両編成の各駅停車。しかしこじかはどこか遠くを睨むふりをしながらわたしの手の感触を確かめるのに夢中で、それに気がついていないようだった。念のため教えておいてあげなくっちゃ。それで、こじかちゃん電車くるってよとわたしが言うと、ぱっと跳ねるようにして手を離した。
 こじかは人前では決して手をつないでくれない。こうやってひと気もなく薄暗い駅舎の待合なんかでふたりきりでこっそりでないと、手はおろか並んで歩くことさえも恥ずかしがってしまう。そんなぎこちないとかえって怪しまれるよと言っても、うるさいの一点張りだった。女の子どうしなんだから、堂々としていれば分からないのに。

 こじかは世間一般には不良少女と言われる部類の女の子だ。髪も明るい茶色に染めているし、スカートもおなかの所でぐるぐると巻いて短くしている。先生に注意されてもじつに堂々としたもので、わたしなどは感心してしまうのだった。切れ長の一重まぶたも相まって、睨みつける目つきなどは本当に様になっている。幼馴染でなければ怖くて話もできなかったに違いない。
 そんなこじかと仲良くしていると、先生たちにはよく意外がられた。わたしはその度に不満なきもちになって、ふくれっつらをしてみるなど、ささやかな抵抗をし続けた。わたしだって、べつに好きで優等生やってるわけじゃないもの。そんなふうに嫌がって見せているのにも関わらず一向に意外がる先生が後を絶たないのは、おそらくわたしの抗議が結実していないためだろう。遺憾なことだ。
 でも、優等生でなくとも、たばこは嫌いだ。倫理だとかを抜きにしても、単純にあの臭いが耐えがたい。
 「こじかちゃん、いくらなんでもこんな駅舎で吸っとったらみつかるよ」
 こじかは返事もせず、たばこをくわえたままでポケットやら鞄やらあちこちをごそごそとまさぐっている。ライターがないらしい。仕方ないので生地の薄い夏制服のスカートのポケットから、マッチを差し出してやった。ありがと、とこじかが素直な口調で言うと、あっけなく嬉しい気持ちになってしまう。あまつさえ火をつけてやりさえする。
 そのほんの一瞬、顔を寄せたこじかの髪の匂いが甘く漂った気がしたが、摩擦の後に燃える火薬の香りと、続く煙草の臭いとにかき消されてしまった。
 「だいじょぶだいじょぶ」、ふうと息を吐き出しながらこじかは言った。「こんだけ日差しが強けりゃこん中はすっごい暗いから、外からは見えんって」
 この煙が苦手だ。むせそうになる。仕方なく手と距離を離す。自業自得だよこじかちゃん。椅子と接していたふとももがうっすらと汗ばんでいた。もう夏なのだ。日差しはいやに強く輝いていて、木々の根元にも、電柱から複雑に伸びる電線の下にも、たしかに一様に濃い影が落ちていた。
 しばらくして携帯灰皿に吸い殻をねじこんだこじかが、そそくさという擬音を立てて(わたしの主観だ)擦り寄ってきた。さっきよりも近く、肩が触れ合っている。こんなに外は暑く汗ばむのに、こじかの肌はここちよい温度をたたえて柔らかかった。指や手のひらは相変わらずすべすべとしていた。
 わたしは半ば反射的にこじかに顔を寄せる。同じく反射的に軽くのけぞるこじか。しかし顔を背けずに言う、「こ、こんなとこで…したら…見られちゃうよ」
 見られたとして、そこに何の問題があると言うのだろう? 女の子どうしなのだから堂々としていればいいのだ。
 「大丈夫だよこじかちゃん」
 すこし強引に引き寄せると、こじかは今度はろくな抵抗もなしにわたしを受け入れてくれた。くちびるも舌も温かく濡れている。ふとももに置かれたこじかの左手は、夏服のスカートの上からでもひどく熱を帯びて、そうして湿っているのがはっきり分かった。
 「ここはすっごい暗くて外からは見ないから」
 こじかはくちびるが離れるやいなや、すぐさま俯いて顔を隠してしまった。ぎゅうと手が握られる。駅舎の外では蝉の声が急に鳴り響いた。