Neetel Inside 文芸新都
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百合小片
麝香豌豆(後)

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3: 10年前


 目を覚ますと、はたはたという音が窓や壁ごしに聞こえてきて、雨だとわかった。横になった姿勢のままカーテンをすこしめくると、細い隙間から空も建物もぜんぶ一様に灰色に烟って見えた。春の雨はあまり好きではない。花を散らしてしまうばかりか、部屋の中に雨の音が静かに浸みこむのと一緒にその灰色までもがすべりこんできて、色を奪ってしまうような気がする。ここ最近は雨ばかりで、いつもならこんな天気には気が滅入ってしまうところだが、今日はちがう。
 壁の時計に目をやると9時をすこし過ぎたところだったが、隣でかわいらしい寝息をたてているこじかはまだ目を覚ましそうにない。無理もない、昨日はひと月ぶりの再会で、わたしもこじかもいささか興奮ぎみだった。けっきょく空が薄明るくなるまで眠ることができなかったのだ。予定もないことだから、しばらく寝かせておくことにした。
 わたしたちはこの春に高校を卒業したばかりだった。こじかは地元に残り、わたしは上京した。彼女は美大に進学したがっていたのだけれど、ありふれた親との軋轢のために諦めざるを得なかったのだ。それで彼女は実家から出て行かずに働いて、必要なお金を貯めている。こじかはそんなお金の一部を崩して、わざわざ会いに来てくれたのだった。
 こじかにもういちど目をやる。髪は今では地毛の黒だ。わざわざ染めるのも面倒になったらしく、高校最後の夏にばっさりと切ってしまった。それまではあんなにばさばさと傷んでいたのに、嘘みたいにつやつやの黒髪がそのあとに現れた。ひと月前よりさらに長くなった髪を嬉しそうになんども撫でるさまがかわいらしかった。
 寝息をたてるこじかの髪に手を伸ばして触れてみると、か細くやわらかく、このまま撫で続けたいと思った。ふと、頬にかかった髪がやけに色気じみて感じられて、思わず耳に引っかけてよけてしまう。そうしてあらわになったこじかの顔は、しかし、昔と変わらない幼さがまだわずかに感じられた。呼吸をする度に、ふう、とかすかに息のもれるくちびるの、はっとするような赤さに昨晩のことが思い出されて、すこし恥ずかしくなった。わたしはこのくちびるの柔らかさをよく知っている。何年もの間、誰にも知られることなくこっそり触れて、その形をなぞってきたのだ。そのことを思うと少し動悸がするような気がした。
 顔を寄せてみると、かすかに煙草の匂いがする。すんすんとかいでみると、こじかの髪からただよう甘い香りとあいまって、いつもの彼女の匂いがした。ひと月もこの匂いから離れていたなんて、これまでのことを思うとなんだか信じられない。そのためか、妙にあれこれ思い出されて仕方なかった。きっと、脳の中で記憶と嗅覚をそれぞれ司る部位が隣合っているせいだ。そのせいでわたしは、こじかの煙草に火をつけてあげるのが好きだったこととか、夏の濃い影や2両編成のワンマン列車なんかを懐かしく思ってしまったのだろう。
 こっそり隠れられる場所をあちこち探して周るのが好きだった。そのあと待ちわびたようにこじかがするりと身を寄せてきて、そうして手をつよく握ってくれるのもたまらなく好きだった。
 でもいまこの街でならこじかと一緒に手をつないで街を歩こうとも、場合によってはキスをしようとも、誰も何も思うまい。この街のそういうつめたい無関心さが、わたしにはひどく心地いい。
 雨の音は少しずつ強くなっていくようだった。

 けっきょくこじかが目を覚ましたのは10時半頃だった。そのあと傘をひとつだけ持って外に出て、甘いものを食べたり可愛い雑貨を見たり、そんなありふれた恋人どうしのような過ごし方をした。一緒にお風呂に入り、昨夜と同じようにふたりでベッドに寝て、服を脱いで肌の温度をたしかめあった。
 あくる日の午前中には駅までこじかを見送りに行った。わたしはちょっと待っててと言い、駅のお花屋さんで買った一輪の花をこじかにわたす。甘い香りのする、ひらひらとした羽のように繊細な花をつける可憐な花だった。それから念のためにとマッチもわたす。ありがと、とこじかは言う。それからわたしたちはキスをして別れた。

 こじかに会ったのはそれが最後だった。




4:3時間後


 「意外ですね」とマツモトは言った、
 清潔なシーツの敷かれたベッドは例のごとくいい寝心地だった。それ以外には、いつ来ても気の利いた間接照明も調度も生活感さえない薄暗い部屋だったが、このマツモトという男にはベッド選びに関してだけは才能があるらしい。その他には最低限の物があるだけで、おしゃれなポスターも、水着の女がポーズをとった写真も貼っていない。郵便受けにも本棚にもクローゼットにも常に乱れがない。男の一人暮らしにしては整っている。
 「先輩もっとこう、そういうことに興味がないのかと思ってましたから」
 「それはお前との関係のこと? それとも私が昔レズだった話?」
 うーん、といいながらマツモトは私を後ろから抱きすくめる。背中に肌が触れて温かい。少し考えてマツモトは言った、全体的にですかね。こいつはいつだってそういう適当なやつだ(本当に考えてものを言っているのだろうか?)。とはいえわたしも気負わなくてすむ方が居心地がいいし、マツモトもそれを察知していた。だからこそふたりの曖昧な関係もゆるやかに続いて、すでに1年近く経とうとしている。おかげでわたしは思わず、する必要もないカミングアウトをしてしまったのだった。
 不意にマツモトがわたしの手をぎゅうと握った。
 「もう煙草はいいんですか?」

       

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