第七皿目 ネパール人がやってるカレー屋で出てくるヨーグルトは信用できない

――週末の光川町にあるシアターホール。その入り口で俺はカバンから取り出したチケットを握り締めた。ティーンエイジアイドルのポスターが目に飛び込んで呼吸が荒くなる。大丈夫だ。落ち着け。今回の対戦相手はアクターじゃなくて女の子だ。

 俺は道脇にずれて深呼吸をひとつ。その手で折り目をつけたアイドル握手券を手の平から開いて力強くそこから一歩を踏み出した。


「六実ちゃん、来週から修学旅行ねー。お土産とか気にしないで楽しんでいらっしゃい」「うん、あんがとー」

 いつもの夕飯後の時間。テーブルについてカップアイスを食べている妹の六実に食器を洗いながら母さんが言った。俺はパソコンで視聴していた動画が終わったタイミングで立ち上がり、妹に訊ねた。

「しゅ、修学旅行は何処にいくんだ?」「んーラスベガス」「ちょ、おまえベガスって!最近の高校生はマセてんなー!」想像せぬ地名に噴出すと憎々しげに六実がチケットを取り出してテーブルの上に置いた。

「半年前に取った握手券だけど、日程がカブっちゃったからお母さん、観にいきなよ」「まぁ!最近テレビでよく見る『暗闇坂42』の八木沢理香子ちゃんのレーンじゃない!でもお母さん、その日法事で田舎の方に戻らなくちゃいけないのよね~」

 母さんはそういうと俺の方をチラッとみてヘタクソなウインクを飛ばした。「ま、せっかく取ったチケット塵にすんのも悪いし。行って来なよごく潰し」「ありがとなす!」


 そういう経緯で俺は今人気絶頂のアイドルグループ『暗闇坂42』の握手会に行くこととなった。

 俺は集団を眺めるのが苦手なのでアイドルよりソロシンガーの方が好きだったからよく知らなかったんだけど件の『暗闇坂』はテレビでその姿を見ない日はないといわれるほどの国民的人気を誇っているらしい。

 まーあんまし乗り気じゃないけどこれも社会勉強の一環だし?って感じで俺は同じように会場に向かうオタク達を心の中でマウントとりながら光川駅の改札をくぐった。「英造くーん。」間の抜けた声が辺りに響いて俺ははっとして後ろを振り返る。

 バッグにつけた缶バッジをジャラジャラ鳴らしながら短い前髪に丸眼鏡をかけた元同級生がはみ出た出っ歯を見せて俺にひょいと手の平を向けた。

「く、熊倉!お前大丈夫なのか!?」以前戦った時と変わらない見た目に驚くといつもと変わらない口調で『アジョラ・ボカ』熊倉拓二は笑顔を見せながら言った。

「僕の人生なんて元々終わってるようなもんだしー。今更個人情報晒されてもノーダメージだよー。心配してくれてありがとー。」「そ、そうだったのか…それより、なんだその格好」

 俺はワザとごほん、と大げさに咳払いをして熊倉のオタクファッションを見下ろした。「『暗闇坂』の握手会に行くんだよー。英造君も行くんじゃないのかいー?」「ば、馬鹿言え!誰がそんなミーハーなオタクイベントに行くかよ!せいぜいカツアゲに会わないように気をつけるこったなぁ!」

「あ、英造くんー?」俺はポケットに両手を突っ込んで会場とは反対方向の出口に向かって歩いた…驚いた拍子に昔の自分が出てしまった。インドマンとしてアクターの姿で和解は済ませたものの、いじめていた相手と一緒はどうも居心地が悪い。

 幸い開場までまだ時間がある。俺はアイツと再び出くわさないよう、コンビ二で軽く買い物を済ませると駅の反対側に行くためにガード下へ向かう。薄暗い細い通路には夏だというのにフードの付いたパーカーを着た若者達がたむろしていた。

 隣の小さな公園では短パンの男がローラーボードに興じていて奥の壁には強烈な色のスプレーで暗号のようなアルファベットが書かれていた――思い出した。ここは光川町で悪名高い『カツアゲ・ストリート』。しかし、駅の向こうに行くにはこの道が圧倒的に早い。

 意を決めて早足で軽く頭を下げながら彼らの輪の中心を縫うように進んでいく。反対側の通路ではバンダナを巻いた痩せた男が58マイク片手にラジカセから流れるビートに合わせてライムを刻んでいた。新都社の漫画で読んだ事があるが、ラッパーとは増殖する生き物らしくその発信源に合わせてぞろぞろとヤンキー達が集まってきた。

 どん。勢いよく俺にぶつかったベースボールキャップを被ったポニーテールの男が俺に向かって「YO!」と声を掛けてきた。ビビッていない事を周りに示すために「HO」と声を返すとその男は顎ヒゲを一撫でして俺に言った。

「お兄さん、この場所初めて?いいブツ有るけどやってかない?」「は!?」驚いて辺りを見渡すが皆、中心でラップを歌う人物に目を取られて俺達のやりとりに気付く様子は無い。

「最初はタダにしてるから。よかったらまた来なよ」「あ、ちょっと!」男はバッグにむりやりにソレを詰め込むと俺の背中を叩いてその輪の方へ向かっていった。開場の時間が近づいてる事に気がついて俺はそそくさとその場を立ち去った。


「そしてこれがそのブツか…」握手会場のトイレの個室。俺はカバンからソレを取り出すと手にとってニオイを嗅いだ。はやる気持ちを抑えてプラ袋から取り出すとしかるべき箇所に置いてその中心に指を落とした。

 身体の敏感な部分に電流が流れる感覚。「そうか、コレか。こういう事か」俺はそのフレーバーを一通り堪能すると再び指を置いてソレをカバンに収めて個室を出た。向かいで小便をしていた年配の警備員が不審そうに俺に声を掛ける。

「お兄ちゃん、大丈夫?長くかかったようだけど」「ああ、コレですか」視線を注がれたバッグを身の潔白とばかりに開いてみせる。

「こ、これは!」「いやぁ。僕もびっくりしましたよ。こんな時代に焼きCD配布とはね。西口のガード下の若者から頂きました。ドープなライミング、聴かせてもらいましたよ」

 なぜかドヤ顔をキメてトイレを出る俺。頑張れ。ストリートで音楽を続ける若者。くたばれ。手相の勉強をしている若者。本筋回帰。俺は既に大勢の列が伸びた『暗闇坂』センター八木沢理香子が待つレーンに並んだ。