セメント工場の機械がゆっくりと動き始め、太った茶トラのネコが用心もせずにのしのしと横断歩道を横切っていく。まるで昭和で時が止まってしまったような町並み。
何故俺がこんな娯楽施設のひとつもないような田舎町に来たのか。話は今日の朝にさかのぼる。
「これ、お父さんのスーツの内ポケから出てきた」
俺が洗面所で歯を磨いているとパジャマ姿の六実が俺に真っ赤なマッチ箱を差し向けてきた。口をゆすいでそれを受け取ると俺を押しのけて鏡の前でドライヤーを手に取った六実が言う。
「お父さん最近少し変でしょ?帰りが遅くなったしなんか肌がつやつやしてる」まるで嫁さんだな、と茶化すと真面目な顔で六実は立ち去ろうとする俺の裾を摘まんだ。
「事件の予感。調べてきて。どうせヒマでしょ?もしかしたらアクター絡みの一件かもしれないし」六実はそう告げると自慢のツインテールをシュシュで留め始めた。俺はマッチ箱に書かれている名前を読み上げる。
BAR
六実の予想によると親父の英作が仕事終わりに夜な夜なその店に訪れているらしく、亭主の不貞は家族の危機だと感じ、暇人である俺に捜索を依頼したのだった。
「なんだよ、反対側かよ」地図を読み間違えて駅に戻る俺。すると改札を挟んだ向こう側の広場で背の高い男がオバちゃんのサイン攻めにあっている。新手のYouTuberか、と身構えるとその男は筆を片手に決め名乗りをし始めた。
「我が名は真の芸術を追い求める元英雄、マトー。俺の筆で未体験のセカイを描き出してやる!」
「キャー、マトーさん素敵よー」「ウチの家計も『完全自動攻防』してー」
「はは、これは貴婦人。ご冗談がお上手で。…ちょっと失礼」切れ長の目をしたスカしたその絵描きは前髪の毛束を指で摘まむと反対側の手で携帯を取り出して耳に当てた。
「…なんだゴトーさんか。なに…?あの幻の嬢が入店してきただと?…馬鹿げたことをっ!彼女はとっくに業界を引退したはずだ!…えっ、しかも改名して写真も上げてないから今なら2時間予約可能だと…?分かった。今日最終の飛行機で向かおう」
男は通話を終えると名残惜しそうに取り囲んだオバちゃんに別れを告げてそそくさと荷作りをしてその場を立ち退いた。
…あとで調べたことだがこの絵描きは身体の一部に筆を埋め込んで『三刀流』としてパフォーマンスを披露する変態水墨画作家だったようであの時サインを貰わなくて本当に良かったと思っている。
話を元に戻そう。BAR金羅紗を検索してもネットにサイトを出していない形跡で、商店街の親しみのあるおばさんに俺は店の場所を尋ねた。するとその店はとうの昔に閉店したらしく、今はその場所に団地が建っているという。
おかしい、と言ってそのマッチ箱を見せるとおばさんが驚いて「ああ、確かにこれはあの店のものだよ!」と店の奥からまったく同じマッチ箱を探してきて俺に見せてくれた。一体どういう事だ?とりあえずその場所に行って見る。
おばさんが言うとおりその場所には新しく建てられたという団地があり、最近という割には管理人が数年手入れをしていないような古ぼけた印象があった。一階はどこの部屋も電気メーターが動いておらず留守のようだ。塗装が剥げている手すりを掴み二階へ上がる。
一段、一段軋む階段を上りきると奥に扉の開かれた部屋がある。雨ざらしの洗濯機の横を歩いて何かに誘われるようにその扉へ歩いて行く。夕暮れの空に立つ電柱の上でカラスが鳴いた。するとふいに扉の奥から声が聞こえた。
「日比野英造くんだね?」驚いて身構えると愉快そうに次の声が響く。「キミならここまで嗅ぎ付けてくると信じていたよ」「親父を、親父に何かしたのか!?」声を荒げるとふー、と長く息を吐く音が廊下の端まで伝わってくる。
「立ち話もなんだ、僕の部屋に入ってきたまえ。変身は必要ないよ、インドマン」相手の言葉を受けて俺は息を飲み込む…俺がアクターである事がバレている。ということは相手もアクターである事が容易に予想できる。
「どうした?キミがそこから一歩踏み出さなければこれ以上の発展はない」「…罠だと分かっていて飛び込む奴がいるかよ」声を振り絞ると部屋の奥からちゃぶ台に湯呑みを置いたようなたん、という音が響く。
「そういう能力なんだ。アクターであるキミが僕の部屋に入らない限り能力が発動できないんだ」「…そうか。ならこれはアクター同士の勝負なんだな?俺が勝ったらお前のカードを貰う」
俺は敵にそう告げると部屋の入り口に吊られたすだれを手で除ける。これまで何度も相手のテリトリーで闘ってきた。今回も劣勢をひっくり返してやる。
『来たね』部屋の中央でちゃぶ台越しに俺を見上げた男の姿が渦を巻いてゆがみ始めた。