Neetel Inside ニートノベル
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この世に奇跡などない。理由のない理由など存在しない。
たとえば、朝寝坊してしまったのは早く寝なかったから、寝なかったのは勉強しなければならなかったから。
勉強しなければならないのは、私の頭が馬鹿だからだとか、そういったはっきりとした、明確な理由が存在する。一言そう言えば納得するような、連鎖的な必然が連なっている。
私が生まれたのも、父と母が出会ったからで、その父と母も出会い、そのまた、その次も。
必死に勉強机に齧りつくように、前傾姿勢でノートに鉛筆を走らせて、必死に英単語を書き続ける私の部屋に、小学五年生の妹が、ノックもなく飛び込んできた。
「ほら! 今、流れ星流れてるよ!」
「無理」
「見てってば! お祈りしようよ! もっと頭よくなりますようにって!」
「そんな事してもよくならないから」
「もー、いい加減に顔あげて!」
椅子を思い切り揺さぶられ、英単語も単語として機能していないし、文字としても機能していない。後で消しゴムをかけなければならない、悲惨な状況になってしまったので鉛筆を置いた。
妹が部屋の窓をガラガラと開けると、夜風がふんわりと、自分の放つ陰鬱な空気を動かしてくれた。
「お姉ちゃんの頭がよくなりますように」
「ちょっと、十歌」
あまりにも当然の事のように言われると、さすがの私も傷ついてしまう。
ぴょこっ、と頭から一房、アホ毛が飛び出ている妹のつむじを見下ろした後、久しぶりに外の空気を吸った。
来年は受験生の私は、こうして夜の静かな、肺に滑り込む冷たい空気を吸う事などついぞなかった。気持ちがいいなと、目を細めて風にあたっていると、埃が浮かんだような夜空に、雨粒が流れ落ちるように流れ星見えた。
「あった!」
「……いや、あれは人工衛星だよ。ゆっくりと流れてる」
「違う! アレは飛行機!」
「そう?」
「うん、だってもうすぐ着陸時間だもん」
「……ああ、そう……」
宇宙を愛し、月を愛し、星を愛し、まだ見ぬ生命体を愛する妹は、UFOか人工物かの区別をするために、必要最低限の嗜みとして、飛行機の離着陸時間を頭に全て入れている。そして、それに付随する星の動きや満潮干潮時間。他にも、私が知らない事を知っている。
それがどれほどの情報量なのか、分からない。
ただ、私の部屋の本棚にある分厚い辞書くらいの重みがあるのだろうなと、漠然と感じていた。
妹がくりくりとしたかわいらしい目をこちらに向ける。そこには侮蔑も自慢もなく、ただ事実を述べているだけに過ぎない。純粋な目だった。
そんな視線から逃げるように反らし、私はまた座りなおした。
「ほら、もういいでしょ? お姉ちゃん勉強しなきゃだから」
「だって、昼からずっとじゃん。そろそろ夕ご飯だってお母さん言ってたよ」
「じゃあ、あとでいくから」
「……ふーん……でも、電気くらいつけたほうがよくない?」
つまらなそうに呟いた後、妹の十歌は出て行った。
一人机に向かって、眼鏡を取って眉間を指で挟み、溜息を吐いた。
そんなに勉強していたのだと、今気が付いた。
妹が来なければ、今が夜だという事も気が付かなかったかもしれない。
夜空の星がよく見えたのは、部屋の電気がついていないからだ。外の暗さと相反して、私の部屋は馬鹿みたいに暗い。星や月の出ている外の方が明るいかもしれない。
「……また目悪くなっちゃうな」
丸くて大きな眼鏡は、勉強しやすくて便利だが、耳にかかる負担は大きい。
何より、目障りだ。
開けたままの窓から、輝かしい夜空が見える。
きっと目が良ければもっと綺麗に見えたのだろうが、私の視力は悪い。
今、UFOが飛んでいても見えないのだろうなと肩を落とした。
ちらりと、視界の端で何か不審な光を見た気がしたが、気のせいだろう。
もし流れ星だったとしても、願っても願い事は叶わない。
固まっている肩の筋肉を解しながら立ち上がる。早くいかないと、今度は母が私を呼びに来る。



頭が悪いというのは勉強ができないからではない。そう言ったのは誰だったか。
ああ、確かにその通りだと、朝から走りながら思う。
通学路のその道は、いつもの時間ならば高校へ向かう生徒がちらほらと見えるのだが、いかんせん、もう遅刻決定の時間だ。そぞろにいる生徒もゼロに決まっている。
頭を良くしたいと、夜中まで勉強し、朝起きれず、遅刻する。馬鹿の見本のようだと思った。
しかも、頭も悪ければ体育の成績もよくはない。ずっと机に齧りついているためか、体力もない。
走るたびに上下に揺れる眼鏡を抑えながら角を曲がると、見慣れた制服があった。
うわっ、と、朝からげんなりしつつも走るスピードを止めない。
ブレザーの制服のボタンは豪快に外されており、スカートも巻いて巻いて膝上というより、腰下と言った方がいいほどに短い。
髪の毛は金髪に染め上げられており、両手はスカートのポケットに突っ込まれて歩いている。そんな目立つ生徒はたった一人だ。
「げっ」
相手も足音に気が付いたようで振り返ると、嫌そうな声と嫌そうな顔という、さきほど私が飲み込んだ表現を余す事なく表現してくれていた。
「うっわ、芋っ! 何その髪の毛! 櫛使わずに編んだんだろ!」
「お、おはよう!」
その通りなので否定しない。ダサイと称されて当然のみつあみは、私の背中で芽を生やした芋のように所々飛び出ている。
それに反して、同じく遅刻している幼馴染の江口翼はばっちりと、一分の隙も無いヘアースタイルだった。きらきらと透き通った水の流れる川のような輝きを放つ金髪が、きらきらと太陽に照らされて眩しい。
「せめて梳かしてくればいいのに」
「時間、なくって。ほら、もう時間ヤバい」
「早起きしないからだろ。私は遅刻だって分かって歩いてんの」
欠伸を噛み殺しながら言う翼に、私は何も言えなかった。
もうかける言葉もなく、時間もなかった私は、翼を追い越して学校へ走っていく。
背後からはのんびりとした歩む音が聞こえるだけだった。



国道を通って通学するのは電車組か、まだ道に慣れない一年生くらいだろう。元々家がそこまで遠くもなければ、国道に面した場所に家が建っていないので、必然的に住宅地を縫うように、細い道を通っていく。
一本、二本離れた道路では、排気ガスを噴き出しながら走る牛のように、車が右へ左へ走り続けているのに対して、今走っている道はとてものどかで、大きく息を吸い込めば、草の匂いを感じるくらいだ。
朝の心地よさを感じる為にも、もし国道を通った方が近道だったとしても、私は田んぼや山に面しているこの道を通っていくだろう。
遅刻だなんだと慌てている今でさえ、この自然に心を落ち着けている。
バイクや自転車がやっと通れるような細い道は、何故舗装されているのか不思議なくらいで、左は田んぼ、右は山の斜面があり、そこは舗装されていない。むき出しの山の自然が、土のいい香りを運んでくれる。
だが、少し前にこの柔らかそうな土の下に、蜂が巣を作ってしまったことがあり、近隣住民は通るたびに威嚇され、刺されるという事件も起こったらしい。
今ではそこで深呼吸していても、恐ろしい羽の音は聞こえない。
山を見ていると、もし、自分が人間でなかったらと夢想することがある。
広大な海を、偉大な氷の塊を見ると、目を閉じて心が落ち着く。
背中にじりじりと火が灯ったような焦燥感を感じることもなく、その日その日をただ淡々と生きていく。退屈でつまらなくもあり、生命を維持する為だけに生きる。
机に齧りついて一日を過ごした後は、酷く虚しい気分になる。
意味がある時間を過ごしているか。それが重要だ。
塀の上で、首輪をした猫が欠伸をしている。家の前に繋がれた犬が、尻尾を振って私が走り去るのを見送った。
たとえ遅刻したとしても、睡眠時間を削ってした勉強が、今日の小テストでいい点を取れば、それは無駄ではないのだ。
「はっ、はっ……やって、やるぞ……!」



机の冷たさがオーバーヒートした頭を冷やしていくのを感じる。
テスト前に数学と同じくらい苦手な体育をこなしたようなもので、テスト結果は散々だった。席に着席して鉛筆を持って、あとは落ち着くだけだと思っていたのに、徐々に呼吸が乱れて来る。走っている最中は分からなかった疲労が、テスト時間になだれ込んできた。
肩で息をして頭に酸素が回っていない私に、先生が「だ、大丈夫か?」と、心配の声をかけてくれたが、私は必死に机に齧りついた。テストが終わるころには、教室中の酸素を独り占めしたのではないかと思う程に深呼吸を繰り返したのち、撃沈した。
「あぁ……私ってば……なんで、こうなんだろう……」
採点されるまでもない。手ごたえがあまりにもなかった。暖簾に腕押し、スライムにガトリング。
勉強方法が間違っているのだろうか。
「どこまでできた?」
「もちろん全部よ。あんなの一度目を通したら答えられて当然でしょ」
「はえー」
「さっすが翼。天才ギャルだわ」
「誰がギャルよ!」
慌ただしく教室に駆け込み、あわただしく小テストに向き合って頭を悩ませていた私を他所に、欠伸を噛み殺しながら遅刻を軽く謝り、軽く腰掛けて、軽くテストをこなした翼の声を聞いて、きっと私よりも点数はいいのだろうと漠然と思う。
家も近所で小学校から一緒だったが、彼女はいつもテストは百点だった。
私が間違っていたり、慌てていた為答える場所を勘違いして書いているのを知ると
「どうしてそんな事になるの?」
と、真剣に聞いてくる。小学生のテストなんて百点とれて当たり前だと言っていた彼女は、言葉通り常に百点。それは勉強が難しくなる中学生になっても変わらないままだった。
唯一変わったのは、彼女の髪の毛だろうか。
ある日突然髪の毛を染めて登校し、先生も生徒もぎょっと目を瞠らせた。
何度か先生から話があると呼び出されてはいたが、強制的に髪の毛を黒くされることはなく、時折注意されるだけで終わっている。
私が翼のように髪の毛を染めてきたら、厳しい口調で叱られた後、強制的に黒染にされるだろう。墨汁でもかけられるかもしれない。
そんな翼とはあまり会話はなくなった。お互いにどの位置に自分がいるのかはっきりとわかるようになったからだ。教室の端から端の間には、明確な溝が存在する。お互いに行き来できない距離と、落ちたら一気に状況が変化することが分かっているからだ。
翼が欠伸をすると、前に座っていた女の子が薄く塗ったリップで光る唇を開いて言った。
「あれ? もしかして夜遅くまで勉強してたん?」
「そんなわけないでしょ。テレビ見てたの」
「あっ、もしかしてあの番組? 私、今日見ようと予約してあるから言わないでよー」
「私が言ってもおもしろくないでしょ」
けたけたと笑う声に、机に額を押し付けるしかなかった。


       

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