交差点にて君を待つ(2017/07/17)

 坂下交差点さかしたこうさてんとは某市を南北を貫く某バイパス道路の途中にある巨大な十字路の通称である。
 君はいつか、坂下と呼ばれる以上は坂の下にあるのだろうと嘯いたけれど、それについては全く以てその通りで、交差点の北には年間交通事故死者数が数千を超えることから黄泉比良坂よもつひらさかの異名で知られる長い長いそして緩慢かんまんな坂が存在する。
 ここは市内でも有数の渋滞じゅうたいポイントとしても知られている。
 今も、坂を登り詰めた先まで無限とも思える冗長じょうちょう車列しゃれつが続いている。昨年の二月から続くうだるような炎天に、安物の車は例にれずぐにゃりと溶けて、中には蒸発じょうはつしながらあやしい光を放っている車体もあった。
 管楽器かんがっきにも似たごつごつとしたマフラーから吐き出される紫色の排気ガスは、酸素に触れるときらきらと光り輝いて、幻想的な景色を空へとちりばめる。
 それがかつて地球上をおおった「死んじゃうガス」のもととなる物質であることに気付いている者は一部の科学者をいて他にはいない――と今朝の情報バラエティー番組で入社三年目の女子アナがしたり顔で語っていた。
 坂下交差点は世界的に見ても汚染おせん率の高い場所であるらしい。時間帯によって外出規制が定められているし、空は緑色の雲を浮かべ、コンクリートの地面は歩く度にねちょねちょと歌う。一呼吸するたびに寿命が一週間分削られたような背徳はいとく的で非健康的な香りが鼻腔びこう充満じゅうまんしてくらくらする。

 君が坂下交差点に跨がる歩道橋の上を待ち合わせ場所に選んだのは、もちろんそうした有害ガスが僕の身体にいくらかの影響を与えることを期待してのことだと思う。
 君は当然のように待ち合わせの時間にたっぷりと遅れて現れるだろうし、素顔で待ち合わせしようと言い出したのは君なのに、通りを歩くその他大勢の人々がそうしているようにばっちりと防毒ぼうどくマスクを装着そうちゃくしてくるはずだ。
 だが、君は自己分析に長けた人間だ。日頃の行いを冷静にかえりみる能力があるし、自己批判の気持ちを忘れないことを知っている。
 君は君自身を酷《ひど》く底意地の悪い人間だと評するだろうし、その天邪鬼あまのじゃくで小麦色に腐った脳みそを頭蓋骨越しに鏡に打ち付けるはずだ。
 しかし君は、そうした自分自身の問題点に気付き、あきれ、涙し、なげき果てた上で、「それでも」とばかりに僕を傷つけようとする。それこそが真の問題であることに君は本当に気付けているだろうか。
 君は、君が幼稚園児だった頃のことを覚えているだろうか。君は僕が苦労して捕まえた昆虫こんちゅうをその手でうばい取り、僕の目の前で首と胴体どうたいことごとく切断して見せた。僕は君が昆虫を体液の色の違いで区別しようとしていたことを知っている。しかし、君は僕がカエルやトンボの内部的な構造がどうなっているかについて微塵みじんも興味を持っていないことを、どうやら理解してはくれなかったらしい。
 思えば、僕と君との間には、出会いの日などなかったのかもしれない。物心ものごころついた頃には友達だったし、自己紹介のいらない僕たちだから、必要以上にお互いのことを知り合おうともしなかった。そして僕は君に、知らず知らずのうちに、いじめられていたんだと思う。
 事実として、小学校に入学してからの三年間、僕は君のことが嫌いだった。
 ドッジボールを始めれば、君は真っ先に僕をねらった。君は僕を泣かせたかったんだ。こしに当ててアウトにしようが、君はちっとも喜ばない。だけど、顔面に当てて僕が鼻血を出すと、両手を叩いて大喜びしたのを、残念ながら僕は忘れることが出来ずにいる。
 君は僕に執拗しつようなまでに君のお気に入りの映画を見せたがった。しかも、激しいカーチェイスや臨場感りんじょうかんあふれる高層ビルの倒壊とうかいとはまるで無縁の粛々しゅくしゅくとして子供には退屈なドキュメンタリー映画ばかり。退屈で目を閉じそうになると、君はガムテープで僕のまぶたを固定した。欠伸あくびが出れば口がふさがれ、なんとなくと言って鼻をふさがれた時は、生まれて初めての臨死体験というものを味わった。あれを「良い経験だった」と笑い話にするのは悲しいことに今でも難しい。
 君は嫌なやつだった。そして今も君はあの頃と同じかそれ以上に嫌なやつのままでいる。
 時計の長針が六を通り過ぎた。すでに約束の時間から三〇分も経ってしまったことに、僕は毎度のことと思いながらも、今でも慣れずにしっかりといらついている。
 君は約束を守ったことがない。けれど、君は多分、約束を忘れてしまったこともないのだと思う。だって、君は僕が約束をすっぽかされたと思ってきびすを返すと、それを見計らったように「ごめんごめん」と姿を現すから。
 君は僕の怒った顔が見たいのだろう。それを観察し、記憶することに、一種の快楽を覚えているんじゃないかと思う。いつか君は知人がはじをかく姿を見ると興奮すると話していた。それが君の性分しょうぶんなら、僕は仕方がないとあきらめることも出来ると思っている。
 それでも僕は君を疑っている。今日、この日、この場所にいて、君は初めて約束を――本当の意味でたがえるのではないか、と。可能性は、小指の第一関節くらいはあると予想している。
 君は僕がいつまでも君を待ち続けることを知っている。君が現れなければ、死ぬまでここでこうしている危うさがあることに、君は密かに気付いている。
 だから君は君に従ってはいけない。君が君のためを思うなら、君は二度とこの交差点には近付くことが出来ないからだ。
 君にそういう危うさがあることに、僕は密かに気付いている。
 時計の長針が八を指す、十を指す。
 僕の足許にぶら下がる信号機が青色に切り替わっても、無限の車列はその場に留まり、怪物のいびきにも似た下品な排気音をうならせている。
 君の視線を、僕は静かに感じている。
 君がすでに近くにいることは、僕はとっくにわかっている。
 僕は約束通りに、交差点にて君を待つ。
 問題は、君が約束通りに、この交差点に現れてくれるかどうか。
 ただ、それにきるという話だ。

(完)