いまじね(2017/11/23)

 私の母は、いわゆるシングルマザーである。
 十代後半で私を身籠り、当時通っていた高校は中退、母の同級生だった父はそれから程なくして失踪し、出産に猛反対した両親を頭突きでマットに沈めると、家を飛び出し、気がつけば外海で烏賊を釣る船に乗っていたという私の母。
 烏賊漁で思いがけず海老がたくさん釣れたことでひと財産築いたという母は、麻布で土地を転がし三茶の賭場でやくざ相手に大立ち回り、貧乏になったりまたお金持ちに返り咲いたりを繰り返す多忙で剣呑な生活を送っていたらしい。
 そんな荒波に揉まれるばかりの人生を送ってきた母であったが、母が私に日常的に語ることと言えば、聞き飽きた天下り問題に対する憤慨とアメリカ産牛肉の危険性の話ばかりで、娘たる私が本当に聞きたい、知りたい話とはどれも無縁で、特に行方のわからぬ父については自ら何かを語ろうとすることは決してなかった。
「ひょっとして、ごくどーもんなの?」
 五歳の頃、何気なく問いかけた私の言葉に、母は無言で首を振った。
「……まま、じつは殺しちゃったの?」
 七歳の誕生日。プレゼントにもらった空気清浄機の箱を開封中という絶頂の瞬間に、今なら行けるかもと思って再度問いかけてみたが、「いい加減にしなさい」と強めの口調で窘められた。
「はんざいのスメルがびこうをかすめる」
 十中八九、私の父がこの世界のどこかで幸せに暮らしているということはないのだろうなと思った。
 そしてその不幸には恐らく母が関わっていて、その背後には巨額の金が腹を空かせたウワバミのように蠢いているのだろうとも。
 私は母がひた隠しにしようとする過去を墓荒らしの如く暴き立ててやろうと心に決めた。十歳を迎えたその夏、私は知り合いの警視庁捜査一課に所属する刑事にコンタクトを取り、職場での印象から総資産、男性遍歴まで何もかもを調べ上げた。その過程で日本で暗躍する超巨大麻薬組織の尻尾を掴んだが手柄を公安に横取りされ、挙げ句の果てに件の刑事は前方不注意のタクシーに轢かれて死んでしまった。
「ママ、いい加減にしてよ!」
 十四歳になった私は思春期真っ盛りで、匿名掲示板でレスバトルを繰り広げる私をショルダーハックしようとする母に憎悪にも似た感情を覚えていた。
「ママにそこにいられると、過激な言葉がつかえない!」
 私は家を飛び出し、そのまま飛行機に乗ってニューヨークのうらぶれたスラム街に迷い込んだ。背の高い黒人が英語で何かを捲し立ててきたけれど、なにを言っているのかも理解できなかったので、とりあえず知っている英単語を吐きかけたら銃で撃たれた上に日本に強制送還されてしまった。
 後日、眉間に絆創膏を貼って登校した私をクラスメイトがからかってきたので頭突きでマットに沈めると、腹痛による早退で見事に学校から脱出し、帰宅し掃除中の母に仮病を見抜かれ叱られた。
「でも、私……一生懸命やってるじゃん! ママはなんで私のこと認めてくれないの!? パパのことも、全然教えてくれないし!」
 そう言って家を飛び出そうとする私を母が組み伏せ、私の肋骨がぴきりと音を立てて粉砕した。
 入院中、お見舞いに来てくれたのは近所の野良犬だけだった。
「私の味方はお前だけ……」
 虎視眈々と下克上を狙うけれど、私の病状は一向に回復せず、医者は「娘さんには生きようという意志がない」と母がいないので私本人に熱く語った。
「嫌です。生きたいです。死にたくない」
「しかし、本人にその気がない以上……」
「なんとかならないんですか」
「本人にその気がありませんからね……」
 私の日常は病室に閉じ込められてしまった。病院食は口に合わないから朝はコンビニでパンを買って昼はマックまで出掛けていくし、運動不足になってはいけないから毎日一〇㎞ジョギングするけど、病気が治らないことにはどうにもならない。
「そもそも、なんて病気なんですか」
「それは……なんとも言えないけど」
 私は退院を決意した。
 気が付くと、私は十七歳になっていた。
 何か釈然としないと思いながらも何がどうとは説明できず、鉛のような思いをお腹に抱えたまま帰宅すると、母は「あら、おかえりなさい」と言ってこんな親不孝な私を温かく出迎えてくれた。
 私は涙が止まらなくて、なんだかすごくありがたくて、母がトースターで焼いてくれた賞味期限切れのパンをさくさくと囓りながら、ふたりでガキ使を観た。
「ねえ、ママ、そろそろ本当のことを教えてよ」
「本当のこと?」
「パパのこと。……私、なんにも知らないから」
「知ってどうするの?」
「それは、知ってから考えるよ」
 そう、と母はため息がちに項垂れる。
「……果たして、あなたに堪えられるかしら」
「え?」
「この、驚愕の真実を」
「ママ?」
「きっとあなたは驚き戦き怖れ震え怯えるのでしょうね」
「ママ、なにを言っているの? 大丈夫よ、私、帰ってくる途中にモンエナ飲んだもの」
「それは、翼を授けるほうのやつ?」
「授けないほうのやつよ」
「そう……」
「…………」
「…………」
 無言でザッピングしようとする母の腕を掴んで捻りあげる。
「ママ? 話終わってないけど?」
「ま、まずは翼を授かりなさい。話はそれからよ」
「嫌! 私はモンエナ派なの。翼がないと手が震えちゃうママとは違うんだから!」
「そう。……そうよね。あなたは、私とは違うわよね」
 その言葉の真意を、私にはくみ取ることが出来ない。
 けれど、
「パパは、死んじゃったの?」
 せめてそれだけでも知りたいと思った。
 私は母を逃がさないように、極め技をかけにいく。
「ぱ、パパっ……は、しんで、ないわ」
「なんで、わかるの。ずっと会ってないんでしょ?」
「会ってなくても、わかるの」
「どういうこと! 含みのある感じとかいらないから! 機械的に言って」
「わ、わかったわ……。ちゃんとするから、一旦技をかけるのをやめなさい」
 母の逃げ足が早いのは警察の追っ手から何度も逃げ延びる姿を何度も目の当たりにしていることからよくわかっている。しかし、私の脚力も入院中の暇な時間に鍛えたことで並外れたものになっていた。今なら、母が全力を出しても、その背中を鷲づかみにすることが出来るはずだと思った。
 私の極め技から解放された母はゆっくりと立ち上がると、いよいよ観念したようなどこか出征する直前の兵士のような面持ちで私に振り返り、
「ついてきなさい。パパに会わせてあげる」
 と言った。
 しかし、歩き出してから十秒ほどで母の脚はぴたりと止まる。
「ついたわ……」
 ここにパパがいるのよ、と言って示されたのは母の寝室。分厚い鉄扉と生体認証でロックされていた開かずの間である。
「あなたの心が壊れてしまわなければいいのだけれど」
「え、この奥に……って。軟禁? うそ、ママは犯罪者なの……?」
「私が何者であるかは、あなたが判断すればいいことよ」
 指紋、網膜、声紋、体臭の認証をパスしていよいよ寝室へと足を踏み入れる。
 私は――、膝から崩れおちてしまった。
「嫌。……嘘。嘘だよ。こんなの、おかしいよ!」
 目の前に広がる光景は。極端に顎の尖った青髪イケメンの――アニメっぽいキャラクターが描かれたポスターに壁一面どころか天井や床や抱き枕など、すべてが埋め尽くされた亜空間だった。
「パパは、どこ」
「だから、それが……あなたのパパよ。百夜藤一郎っていうの。これはね、あなたが生まれた頃に流行っていた乙女ゲーで――」
「やめて! そんな話聞きたくない!」
「――藤一郎はね、玉碧学園の生徒会長でね、普段は氷のように冷たくて人を寄せ付けないんだけど、こっちが落ち込んでると何も言わずに傍にいてくれて――」
「あああああああああ! やめてえええええええええええええ」
 私は後ずさりをする。けれどすぐに壁に行き当たった。知らぬ間に扉が閉まっていたようだった。内側からも生体認証が必要らしい。逃げられない。
「――私はね、藤一郎と結婚しようと思ったの! でも、現実に藤一郎はいない。そんなことはわかってる。でも何とか結婚しようと思って頑張って頑張って、ある日、あなたを授かったのよ! 医者は想像妊娠とか言ってたけど、実際にあなたが生まれた! あなたは――あなたはね!」
 私は母から逃れようと壁際を這うようにして距離を取る。しかし、どこに逃げても視界を埋め尽くす百夜藤一郎の裸身裸身裸身。
「ひ、ひい――」
「あなたは――私と藤一郎の娘なのよ」
 私は、再度の入院を余儀なくされた。
 生きようという意志は、医者が相も変わらず口にする通り、なくなってしまったと確かに思った。

(終)