第十打席「自分を左殺しと思い込んでいたプロ野球選手」



 名古屋駅前の高級ホテル、その最上階に会員制バーがあるという。
「けっこういいんすよ、ここ」
 そう言う洗川に連れられてきたそのバーは、なるほど、確かに良い雰囲気だった。
 店員は洗川の姿を認めると、窓際の丸テーブル席に俺達を誘導した。この店では、いつもここで飲んでいるんだろう。
 それにしても、バーとかあまり来たことがない。困る。メニュー表に並ぶカクテルの名前を見ても、味が全くイメージできない。
「オレ、ビールで。ザキさんはどうします?」
 ビール、あるのか!? バーでビール……意外だ。だが、これは正直助かった。
「同じで……」
「かしこまりました」
 店員はサラサラと伝票にメモをして離れて行った。
「いいんすよ、飲み物自体はなんでも」
「…バーって、カクテルとかウィスキーのイメージだったよ」
 洗川は、バー素人の俺に気を遣ってくれたんじゃないか。そうじゃなかったら、ビールを頼むだろうか。ビールの値段も、まぁ、居酒屋の倍以上はするんだが……
「オレにとっては、食い物や飲み物より、場所が大事かな〜ってのはありますね」
「場所……高級感ってことか?」
「まぁそんな。ここの会員だって、カンタンにはなれないわけです。他の会員の人に推薦してもらわないといけない。そういう人は、もれなく金持ちですよ。つまり、自分が成功して、初めてこういうトコに来れるってことで」
 洗川は、俺と同期の、ドラフト一位だ。
 甲子園常連の名門校で一年生の夏から三番打者として活躍し、三年生の時にはチームのキャプテンとして夏の甲子園優勝の原動力となった。当時テレビで観ていた洗川は、一人だけずば抜けていた印象だった。
 ドラフトでは二球団競合となり、当然ながらアイロンズに引き当てられることになった。この年アイロンズが指名した外野手は洗川と俺だけだったから、プロ入り後には余計に意識することになった。
 ただ、いくらドラフトの目玉クラスの選手だからといって、俺は四歳年上の大卒選手だ。俺だって、大学リーグでは首位打者を獲得したことがある。これまでの実績には自信は持っていたし、ドラフト一位とはいえ、高卒選手に現時点の実力で劣っているわけがない--そう思えたのも、一年目のキャンプ前までだった。
 キャンプで、俺が周囲のプロ選手とのあまりの力量差に打ちひしがれていた頃、洗川といえば高卒ルーキーにして開幕一軍が狙えるくらい、オープン戦でも結果を残し続けていた。さすがに各球団の投手が仕上がり出したオープン戦後半では失速して開幕一軍は逃すものの、夏前には昇格。代打や守備固めで確実に結果を残し、その年はシーズン終了まで一軍に居続けた。そしてそれは、今に至るまで続いている。
 洗川は、一軍初昇格してから二軍に落ちたことはない。ただの一度もだ。はっきり言って、雲の上の存在だと思っている。本当の天才、スーパースターとはこういう奴のことを言うのだ。
 俺とは違う。ヒット数で見たってそうだ。洗川はプロ入り五年目にして、既に六百本以上はヒットを打っているはず。俺はといえば、ようやく百三十本といったところか。四つも歳下であるにも関わらず、これだ。どうしたって死ぬまで追いつけないだろう。普通に考えて、俺の方が先に引退するだろうし……
 俺のことを天才と呼んでくれる人もたまにはいる。確かに自分でも、最近の打撃には一定の満足感はある。今日も、吉橋からヒットこそ打てなかったものの、途中から軌道修正してチームの勝利につながる結果を残すことが出来た。土壇場の対応力というのは、やはり一軍で試合に出続けてこそ身につくのだと痛感した。
 しかし、俺と違って洗川は打つだけじゃない。アベレージヒッターとしても極めて優秀だし、ここぞという場面では振り抜いてドムスタの右翼側上段まで運ぶことも出来る。足も速く、盗塁王の獲得経験まである。守備範囲も広く、送球も正確無比だ。
 メジャーリーグでは、こうした選手のことを『ファイブツールプレイヤー』と呼ぶらしい。ミート力に優れ、パワーもあり、走塁技術が高く且つスピードに溢れ、守備力が高く、送球が正確……確かに、日本だろうがアメリカだろうが、そんな選手が評価されない訳がない。
「…ザキさん、オレね、悩んでるんです」
 何を? お前は全てを手に入れてるようなものじゃないか。金は余るほどあるだろうし、詳しくは知らないけど、色んなタレントと写真を撮られて--口には出さない。みっともない。
「…真面目な悩みか?」
 やっと、それだけ絞り出した。
「ひっどいなー、人のことなんだと思ってんすか! マジメですよ。ほら、ポスティングシステムってあるじゃないですか?」
 ポスティングシステム。自分には一生縁のないことだと思っているから、深く調べたことはなかったが、一般的な知識としては持っている。海外FA権を持たない選手が、メジャーリーグに移籍する手段のことだ。
 海外FA権の取得には、一軍在籍日数が多く必要になるのだが、そこまでメジャー移籍を待てない選手が使うイメージが強い。必然的に、行使するのは若手から中堅クラスの選手が多くなるか。
「…使うのか?」
「今年の初めくらいから考え始めてました。なんていうか、『オレはアイロンズの邪魔者になるんじゃないかな?』って思っちゃって」
「何言ってんだよ、邪魔者どころか……お前以上に必要とされてる選手なんて、ウチにいないだろ?」
 これはお世辞じゃない。心からそう思っている。目前まで来たリーグ三連覇、それにこの三年間最も貢献して来たのが、他でもないこの男なんだ。
 四年連続で規定打席に到達して打率三割以上。
 三年連続ホームラン二十本以上。
 首位打者獲得一度、打点王獲得一度、盗塁王獲得二度。
 間違いなく、アイロンズの屋台骨を背負っている選手が、洗川なんだ。
 邪魔な訳がない。少なくとも、アイロンズにとっては。
「なんでそう思ったかって言うと、まぁ色々あるんですけど。このままの成績を残し続けると、そのうちアイロンズはオレの給料を払いきれなくなるんじゃないかな? とか。あと、ウチは元々若手を鍛えてモノにする文化があるじゃないですか? 大物選手を獲得するような金もないし。それを考えると、やっぱオレはジャマですよ。オレがセンターに居座ることで、若手にフタしちゃうでしょ」
「…最近はカネに余裕がありそうだから、大丈夫だよ。お客さんも増えてるし、Tシャツ売れてるし……それに、お前はいずれ若手の壁として立ち塞がるべき選手だよ。退いたところにあてがわれるってのは、真にレギュラーを獲ったとは言えないと、俺は思うけどな」
「それはたまたま今強いからですよ。ウチは元々の経済基盤が弱いんだから、チームが落ち込めばそれに合わせてまた貧乏になります。それと、ザキさんの言う『立ち塞がる人』って、その時点でもうピークアウトしてる人が多くないですか? オレの目からはそう見えるんですけど。なんか、実力以外の要素でレギュラー守ってるっていうか。人気とか、実績とか、契約とかで」
 どうやら、洗川には生半可な説得は届きそうもない。洗川は多分、学校の勉強はロクにやってこなかった男だ。しかし、生きるための脳味噌はかなり発達している。元々備えていた物もあれば、プロの世界で培った部分もあるだろう。
 一流に共通する要素が、洗川にもある。譲れない部分は、絶対に譲らない。自分の考えが正しいと信じている。アイロンズを出たいというのも、チームに不満があるからじゃない。彼なりに、この先のチームを思ってこそなのだろう。
「別に、そういう人のこと、否定はしないっすけどね。生き方ですから。でも、オレは絶対そうはなりたくねーな。ダサいですよ。オレだったら、やっぱり良いところだけ思い出して欲しいですよね、ファンには」
「だから、良いところだけ見せて去っていく?」
「プロってそういうことなんじゃないですか?」
 先のことは誰にもわからない。わからないが、現時点での洗川は、輝きを失った時点で選手を辞める……そんな覚悟を持っているように見えた。もちろん、実際に力が落ちてから、長くプロであり続けることに拘るようになる選手もいる。その時になって見なければわからない。だが、二十三歳の洗川は、刹那的だ。
 まだまだ、輝かしい世界が目の前に広がっている年齢なのに、と俺は思う。この先、なんだって叶えられそうじゃないか、お前なら。でも、そうは思えないんだな。それが、お前と俺との決定的な差なんだろう。天井を突き抜けていける者と、行けない者。
「ザキさんは、何となくですけど、長くやりそうですよね!」
 空になったビールグラスを振りながら、赤ら顔の洗川は言う。コイツも、思いのほか酔いやすいのか?
「…やれりゃあいいと思うよ。でも、クビだって言われたら終わりだからね……」
「言われるわけないじゃないですか」
 その心は?
「"左殺し"とか言われてるままだったら、そのうち終わってたと思いますよ。使いどころの限られてる選手なんて大したことないですから。でも、今のザキさんはとっくにそんなトコから抜け出してるじゃないですか?」
 ああ、そうだ。
 今日のヒーローインタビューで、自然と出てきた言葉があった。
『去年は僕もよく"左殺し"と呼ばれていましたので……』
 いつの間にか、俺は"左殺し"と呼ばれなくなっていた。たまに思い出したように言われる程度だ。
 俺はもう"左殺し"じゃないのか?
「ザキさんはもうそんな狭い部屋に収まってる選手じゃなくなってます。オレが保証します。だから、これからは右だろうが左だろうが関係なくガンガンヒット打って、アイロンズを勝たせてくださいよ」
 俺は、ある時から自分のことを"左殺し"だと思い込んで、ここまでやってきた。
 もう、そんなことは考えなくてもいいのか。いや、実際のところは……最近、あまり考えなくなってきていた。思い込まなくても、打てていた。
 そんな必要、もうないんだな。
「…お前がいなくなったら、四連覇は難しくなるなぁ」
 本音がこぼれた。これ以上ない、本音だ。
「ダメですよ、そんな弱気じゃ! てか、まだ三連覇も確定してないから! ほぼ確定ではあるけど!」
「…お前の穴を埋めるには、俺もホームランを打たなきゃダメか」
「あー、それですね! いやっ、やめた方がいいですよ! ザキさんそういうタイプじゃないです! 多分大きいの意識し始めたらバッティングが崩れてヒット打てなくなるタイプ!」
 …わかってるよ、自分が大物じゃないことくらい。
 洗川は、きっとメジャーでも成功する。低迷する日本人野手の評価を変える、そんな選手になる。
 俺は、日本に根を張って、自分なりの高みを目指して、日々バットを振っていく。
 そう、決めた。