第十一打席「洗川という男」



 二〇一八年の日本シリーズ、我がアイロンズの相手となるのは、リーグ三位からの下克上を狙う幕張シーガルズ。シーズンでは借金を抱えていたチームだけに、世間では日本シリーズ進出に疑問の声も上がっていた。確かに、シーズンで圧倒的に貯金を作った北九州プラムズが日本シリーズに出てこられないというのは可哀想だと思うし、借金のあるチームが日本シリーズというのもなぁ、と釈然としない気持ちになるのは分かる。クライマックスシリーズというトーナメント制を採用しておきながらも、皆心の中ではリーグ優勝チーム同士の日本シリーズが観たいのだ。それが多くのファンの偽らざる本音だろう。
 だが、日本でただ一つ、安芸島アイロンズだけは、それどころではなかった。日本シリーズ直前だというのに、日本シリーズどころではなかったのである。
 洗川のポスティングシステム申請の意向がマスコミに漏れた。
 当然、俺は漏らしていない。俺以外に伝えた人も、いずれも信用の置ける人だけだというから、そこから漏れたというのも考え難い。洗川はその辺りの見定めは出来る男だ。
 怪しいのは、洗川の代理人。日本シリーズ後のメジャー球団との交渉の前に、洗川の宣伝を狙ってマスコミにリークしたのでは? と俺は睨んでいる。
 といっても、真実はわからない。信頼の置ける人が漏らした可能性だってそりゃあある。それは分からない。
 問題は、チーム内の雰囲気だ。洗川も特にそれについて触れないので、何も伝えられていない選手が明らかにモヤモヤしている。中には怒っている選手もいる。俺は言われてない、と。
 日本プロ野球の頂点を決める日本シリーズ前に、こんなに集中力が欠けていて良いわけがない。
 嫌な予感がチームに渦巻いている。


 案の定だった。シーガルズのホーム球場、幕張スタジアムから始まった日本シリーズ、アイロンズは良いところなく連敗した。
 クリーンナップの不振がひどく、特に三番の洗川は重症だった。この二戦で実に見逃し三振が四つ。バットも振れておらず、良い当たりさえないノーヒットで、移動日を迎えてしまった。
 あの日、ポスティングシステムの記事が各紙に踊ったあの日以降、洗川は明らかに覇気がなかった。他のレギュラーもそれに引きずられるように凡打の山を重ねていた。
 良い加減にしろよ、お前ら。日本シリーズだぞ? 全試合地上波全国放送がある、プロ野球のお祭りだぞ?
 俺が喝を入れてやる。俺が打つ!
 …そんな風に余計な力みが入ってしまって、振りが大きくなってしまい、俺までヒットが出なくなってしまった。チームを鼓舞するつもりが、結果的に俺も洗川に引っ張られている。
 どうしようもないかもしれない。つまり、もう、それほどの選手なのだ、洗川というのは。一つのプロ野球チームの浮沈を左右するほどの。俺のようなさざ波がどんなに頑張って大きな波を立てて沈みそうな船を救おうとしても無意味なのかもしれない。
 情けない話だが、そうなんだろう。
 だからといって、このままあっさり相手に日本一の座を与えるわけにはいかないだろ。
 反撃の狼煙をあげる。手は一つ。これしか俺には思いつかなかった。


 日本シリーズは第三戦でホームに戻る。カスガDOOMDOOMスタジアム。俺たちとしては、ホームに戻ったことで仕切り直したいところだ。
 ファンの声援は必死ささえ感じさせる。
『リーグチャンピオンが、去年の日本一が、こんな情けない姿をいつまで見せとるんじゃ!!』
 --ファンの気持ちが胸に染みる。俺は、この人達に応えたいと思う。打席に入る前に、大きく息を吸い、吐く。
 俺はどこにも行かない。出来れば、現役生活の終わりもこのグラウンドの上で。それを許して欲しい。許してもらえるような選手になりたいと思う。
 ただ、それは綺麗ごと。俺はこの世界の外で活躍できるほどの選手ではない、という思いもある。だから、もうすでに無償で愛してくれる人達のいる世界でずっと生きていきたいのだ。
 洗川とは違う。俺がもし洗川くらいの選手だったら、ここまでファンの声援をありがたく思わなかったかもしれない。だって、あいつくらいの才能があれば、きっと世界のどこでだって、愛してもらえるんだから。
 ファンのみんな、声援はとても嬉しく思う。だけど、俺の力では、この逆境は乗り越えられないんだ。
 この沈みかけの船に再び推進力を与えることの出来る男……それは、洗川をおいて他にはいない。
 一回裏の第一打席、俺は一度もバットを振らずに三振した。
 ネクストバッターズサークルには、俯いている洗川の姿。
 俺は、ベンチに戻る際、いつも以上に洗川の近くを通るようにした。
「…"ファイブツールプレイヤー"の異名が泣くな」
 俺はそう言った。それほど大きくはない声で。洗川が聞いていたかいないか、どうだろうか。俺は、きっと聞いていると思う。
 お前が本当にポスティングシステムを申請して、それを球団が認めるとしたら、この日本シリーズがお前の日本最後の晴れ姿になるかもしれない。
 それを、こんなに惨めに終えていいのか?
 洗川というプレイヤーは、アイロンズファンに希望を与え、相手ファンを絶望の淵に叩き落とす、そんな存在だったはず。
 なら、最後までそれを通せよ。
 俺の同期のドラフト一位。歳下ながら全く敵わない、圧倒的な男。
 ここでもし何も出来ないなら、俺はお前を買い被っていたと思うことにする。たとえメジャーでどんなに活躍したとしても、本当に肝心な場面では働けない奴、そんな風に見ることにする。
 打て、洗川!


 九回裏、土俵際まで追い詰められた。
 アイロンズはホームに戻っても打線の重苦しさは変わらなかった。投手陣の頑張りもあり、一点差で最終回を迎えたが、それでも打てる雰囲気はまるでなく、一点差にも関わらず席を立ち始める観客が散見された。
 無理もない、あっという間にツーアウトだ。相手投手はシーガルズのエースともいえない唐沢雄一という右腕。シーズンの成績も六勝九敗で、与四球が異常に少ない以外は平凡以下の成績だ。そんな投手に、ここまで散発二安打に抑えられ、完封を許そうとしているのだ。リーグチャンピオンのアイロンズが。
 そんなことが許されるか?
 俺の打順だ。ここでアウトになったら試合が終わる。これはただの負けではなく、三連敗で後がなくなる痛恨の敗北になる。今のチーム状況を鑑みれば、三連敗からひっくり返せるような空気は流れておらず、そのまま押し切られてしまいそうだ。ホームでリーグ三位の日本シリーズ制覇を許してしまうのだ、アイロンズは。
 そんなことが許されるか?
 いや、許されない。
 とにかく塁に出る。ここまでの三打席、唐沢は決め球の縦スライダーを早いカウントから使ってきていた。これは変化が大きいので、振ってはいけない。見ていればボールになる可能性が高い。今日のアイロンズ打線はことごとくこれに手を出してしまい、内野ゴロをプレゼントしてしまっていた。
 ただ、この唐沢雄一という投手の嫌らしいところは、同じ縦スラでも変化の小さいバージョンを投げてくることだ。これは明確にカウント球だが、変化の大きいのと組み合わせられることで、手を出しづらくなるのだ。さらに、カーブと横スラの中間のような、所謂スラーブというような類の球も投げる。これもリリースが一緒だ。背の小さな投手でスピードもないが、技術で打ちづらくしている。これほどのピッチャーがなぜこんな成績なのか謎だが、ムラのあるタイプなのだろうか。それともチームがイマイチなのか。
 弱点はある。コントロールがいいということは、裏を返せばコースさえ見切れば捉えやすいということ。荒れ球だとそうはいかない。
 ツーボールツーストライク。次のバッターは、いくら極度の不振といえど、強打者洗川。フルカウントにはしたくないだろう。そして、今日の唐沢は追い込んだらインコース低めの縦スラだ。大きく曲がる方。
 張る。インコース。今年、俺を苦しめ、そして飛躍させたインコースだ。スライダー、スライダー、スライダー。
 こい。投げてこい。
 きた。きたけど--曲がりが浅い!
 上げろ、上げろ!
 アッパースイングのようになって、なんとかボールに触れた。拾い上げた。バットの上に掠った感覚があり、どんな打球になるか瞬間的には読めなかった。
 ボールは、力のないフライ。フラフラとたゆたって、ライトに行くのか、一二塁間に落ちるのか、ハッキリとしない。掠った分、変に回転がかかっているようにも見える。これは--落ちた、落ちた!
 生き延びた!
 俺は小さくガッツポーズを作る。まだ同点に追いついたわけでもないのに。
 確信があるのか? ドラマが起きると。
 不思議だ、こんなにどうしようもないのに。
 バッターボックスに立つ洗川の佇まいを見ると、コイツはやってくれる、という妙な信頼が胸に広がる。根拠はないが、そう思わせる何かがある。
 もう、何も言わないぞ。聞いてただろ、あの時。
 洗川は、一塁ベース上の俺を一瞥した気がした。そして次の瞬間振り抜いたバットには、しっかりとボールが乗っかり、打球はアイロンズファンが待ち望んでいた一勝とともにライナーでライトスタンドに飛び込んでいった。


「えー、私事で皆様をお騒がせしてしまって申し訳ないです! 全ては日本シリーズ連覇を成し遂げてからです! 明日も勝ちましょう!!」
 ヒーローインタビューで洗川は、生まれ変わったかのような晴れやかな表情で景気のいいことを言い放った。
「肝心なところでは決めるな」
 ファンへの挨拶を終えてロッカールームに戻ってきた洗川に、そう声をかけた。
「…改めて気付かされましたよ。オレは本当にアイロンズが好きだな、ってことに。それだけに、申し訳ないなって。オレの個人的なことにチームを巻き込んでしまったことが……」
「個人的なことじゃないだろ」
 そう言って、俺は後ろに親指を立てた。
 ロッカールームにいる選手みんなが、洗川を見ている。洗川はプッと吹き出して、そこから真顔になり、大きく息を吸って、吐いた。一応、マスコミがいないか周囲を確認してから、
「えー、報道が先行してしまいましたが……オレは、日本一連覇を成し遂げて、メジャーリーグを目指して旅立ちたいと思ってます!! 残り三連勝するので、あと三試合しかありませんが、ヨロシクお願いします!!」
 少しの沈黙の後、ロッカールームに盛大な拍手が響いた。
 あと三勝、それで終わりか。お前と右中間を組むのも。
 嬉しいけど、寂しい。妙な気分だった。