Neetel Inside ニートノベル
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自分を左殺しと思い込んでいるプロ野球選手
番外編6「二〇一九年三月十一日 あの日の女性と、二人」

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 二〇一九年、オープン戦も後半日程に突入していた。
 昨年からほぼレギュラーとしてプレイさせてもらう中で、オープン戦の過ごし方だけはイマイチピンときていない。どの時期から調子を上げていけば良いのか? 昨年は、オープン戦は極めて順調な成績で消化したのに、シーズンに入ったら、開幕戦で出鼻を挫かれたような形になった。練習でどんなに上手くいったとしても、本番で同じようになるとは限らない……そう思い知らされたものだった。
 なら、オープン戦が悪ければ良いのか? というと、そんなこともないのだろうが。ただ、相手投手に油断を与える効果くらいは、もしかしたらあるのかもしれない。ただ、たとえプレシーズンマッチであっても、打てないというのはやはり精神的に不安を覚えてしまうし、気持ちの悪いものなので、そことの天秤にかかってくると思う。
 まぁ、結論から言うと、打率二割八分七厘なので、そこそこの成績になっていて、ちょうど良いくらいだろうか。今年はテーマとして『洗川の穴を埋める』というのがあるので、長打狙いを増やしているということもあって、打率が伸び悩んでいる感じもするが、今更後には引けないだろう。シーズンに入っても、最低限このくらいの打率は維持していたい、と願うばかりである。


 その手紙が俺の手元に届いたのは、三月一日のことだった。アイロンズ球団事務所には、選手宛のファンレターが届くことがある。といっても、今はメールの時代。ほとんどはプリントアウトされた用紙をもらうような形なのだが、この日頂いたのは、今時珍しく便箋だった。個人情報保護法の絡みがあるのか、住所はスタンプで隠されていたが、女性の名前だった。
 開くと、繊細そうな筆致で書かれた、丁寧な文字の連なりがあった。文面を追っていくと、この手紙を書いてくれたのは、どうやら昨年、豪雨災害の際に募金活動をした時に、俺の募金箱にお金を入れてくれた女性のようだった。
 …ああ、あの人か。二十歳そこそこくらいなのに、随分としっかりした雰囲気だった。字や文面から、本人の顔が、ぼんやりとだが繋がり始めていた。
 良い人だったよな。あんなファンがついてくれているというのは、俺も野球選手として捨てたものじゃない--そう思わせてくれた人だった。
 手紙の終わりに、『三月十一日』から始まる一文があった。

『三月十一日、もしお時間があれば、直接お会いできないでしょうか? お渡ししたい物があります。シーズン前の大変お忙しい時期に、私のような一般人が、不躾なお願いをしていると思います。もし、難しいのであれば、このことはお忘れになってくださって構いません。最後になりますが、どうぞお元気で、ますますご活躍されることを、願って止みません。応援しています。 敬具 平成三十一年二月二十五日 菅原 夏実』

 もちろん、知っている。女性ファンの中には、意中の選手との恋愛を目的としてファンレターを出してくる人もいることを。それは見聞きしてきた。だけど、この人の文章は、それらと一緒にするには失礼にあたるだろうと思うのだった。根拠を聞かれれば窮するが、俺には確信めいたものがあった。
 三月十一日周辺のスケジュールを確認すると、前日の十日が下関での平塚ドルフィンズとの試合。十一日は全休日、翌十二日はドムスタで、北海道フードフードフューチャーズとの試合……ちょうど空いている。広島にもいるし。
 俺も、手紙を書くことにした。菅原さんとはまるで違う、汚い字で、恥ずかしくなるけれど。


 約束の場所は、広島駅から路面電車で一本の中電駅前にある寿司屋にした。ここは高級店なので静かだし、騒がしくなることはない。お会いするのは一般人だから、とにかく迷惑をかけてはいけないと思ったのだった。
 七席しかないカウンターは、俺達以外まだ誰も座ってはいなかった。実は、無理を言って、開店の一時間前から開けてもらっていたのだった。二重の備えというやつだ。申し訳ないが、この店はそうした対応に慣れていて、店主も事情を汲んでくれる。
「なんだか、申し訳ないです。こんな良いお店に連れてきて頂いて……」
「いえ、交通費や宿泊代も掛かるでしょうし、ここはご馳走しますよ」
「いえ、大丈夫です。お金なら持ってきていますから」
 毅然とした声で、菅原さんは言った。絶対に奢りを受けたくない、という人もいる。それは分かっていたので、それ以上は言わなかった。
「じゃあ、割り勘にしましょう」
「始めますか? お飲み物は」
 店主からそう振られて、お酒は? と菅原さんに小さく聞くと、首を縦に振った。飲まないと思っていたので意外だったが、それなら俺も一杯だけ付き合おうと思った。
「…今日のビールは、なんだか美味しい気がします」
「いつもは美味しくないんですか?」
「そんなことはありませんけど……いつもより美味しい、ということです」
 菅原さんの頰は、ビール一口ですぐに紅くなったように見えた。そんなに飲まない人なんだろう。いつもはプロ野球選手とばかり飲んでいるから感覚が狂うが、一般の女性はこのくらいで十分なんだろうか。
「先付けに、ぶり大根です」
「わぁ、美味しそうだなぁ」
 菅原さんはそう言って喜ぶ。美味しそうなものを見ると嬉しくなるのは、どんな人でも変わらない気がする。
「アテにいいですね、これは」
「ええ、とっても美味しいです!」
 そこからは、少しの間をおいてバリエーション豊富な品が提供された。
「ハイ、ヒラメの昆布締めです。そちらから見て左側が昨晩締めたもの、右側が今朝締めたものです。味や食感の違いを感じてみて下さい」
 面白い趣向だと思う。思うけど……正直、あまりにも微細な違いすぎて、どちらが好みか迷う。朝締めの方がフレッシュな気もするし、夜締めは夜締めで風味の乗りが良いようにも思うし……。
「…ごめんなさい、どっちも美味しいです。どっちも美味しいので、差がつけられない……」
 菅原さんは、苦悶の表情で言った。店主はそれを見て微笑んで、
「良いんですよ、どちらも美味しいんです。美味しければ、私としても嬉しいんです。試すようなことをして申し訳なかったですね」
 俺は言えなかった。なんとなく、プライドが邪魔をして。「こっちが美味しい」とハッキリ言いたいと思ってしまったのだった。
 菅原さんは素直で、正直な女性だと思う。


 コースの最後は握りだった。七貫の綺麗にまとまった寿司が、輝いて見えた。
「握りだぁ……美味しそうですね、山﨑さん」
「ですねえ」
 この一時間を締めくくる、珠玉の品。きっと、たまらなく美味いだろう。さすが、アイロンズ関係者の行きつけだけはあると思う。プロ野球選手は、みんな旨い店をよく知っている。実は、俺が最初にこの店を知ったのは、今年から一軍打撃コーチに就任した園田さんに誘われて来た時だった。その時は奢ってもらってしまったのだが、本当にすごい寿司屋だと思った。菅原さんもそう思ってくれたみたいで、俺は満足していた。
「…でも、良いのかな? って思うんですよね。私だけが、こうして楽しんでしまって」
 どういうことだろう。私"だけ"?
「今日の私の目的は、山﨑さんに、これを渡すことでした」
 そう言って彼女がバックの中から出したのは、泥で汚れたアイロンズ野球帽だった。昔のデザインだ。少なくとも、十年近くは前かな?
「あ、ごめんなさい、食べ物屋さんで汚れたものを出してしまって……一応、汚れは可能な範囲で落としてはいるのですが」
 俺は、野球帽を受け取って、ツバの裏を見た。サインだ。薄くなっているけど……背番号、一?
 --あぁ、これは、園田"選手"のサインだ!
「そのサインは、昔、私の弟がもらったものでした。弟は野球好きで、福島県内でプロ野球が開催されたら、必ず球場に出かけていたんです。アイロンズが遠征して来た時、当時のスターだった園田さんから頂いたって、喜んでいたなぁ」
 福島。
 三月十一日。
 もしかして。
「…弟さんは?」
「…私の実家があったのは、震度六強の地域でした。古い家でもあり、地震によって全壊しました。その時間、弟は家に帰ってきていたんです。私はその当時、看護大学への進学を控えていて、ちょうど"その日"は、事前説明会で東京に出ていました。だから、私は、弟の死を、家の崩壊を、どこか遠いところで起きた出来事のように感じてしまっているのかもしれません」
 何も言えなかった。ただ、手の中にある、園田さんのサインの入ったアイロンズ帽が、重く、重くのしかかっていた。
「…毎年、三月十一日の前後は休みをもらっています。だけど、福島に戻ることは出来ません。今はもう、両親は別の地域に越してしまっていて、街の形も変わってしまい、自分一人では正確な場所までたどり着けないかもしれない。でも、それより、心が身体を縛り付けているような気がしているんです。『お前にその資格はない』と……」
「…そんなことはないでしょう。たとえ、その場に行けなくても、どこにいても、心の中でそのことを思うだけで、供養になるし、救いになるんじゃないですか」
 浅い、と思われるかもしれないが構わないと思った。彼女に対して、俺は何か言ってあげないといけないんだ。
「優しい人ですね、山﨑選手は。さすが、園田さんのお弟子さんだけはあります」
 ああ、そうか。だからか。
 去年の豪雨災害の際、大阪まで募金に来てくれたのも、今日、大事な日に、俺を選んでくれたのも。
 園田さんとの繋がりが、こんなところまで影響しているんだ--。
 そうか、そうか。
「…その帽子、要らないかもしれませんけど……私は、山﨑さんに渡したいんです。もし、もらってもらえたら……弟に対して、大事な時にそばにいてあげられなかった弟に対して、少しは……」
 菅原さんの目が潤んできたのを感じて、俺は、ポケットからハンカチを差し出した。
「…要らないなんて、とんでもない。頂きます。弟さんの分まで、背負いますよ。いろんな想いを背負ってプレイするのが、プロ野球選手ですから」
「…ありがとうございます、山﨑さん。私、あなたを、ずっとずっと、応援します」
 活躍すればするほど、荷物はどんどん重くなる。でも、それはきっと幸せなことなんだ。
 菅原さんの弟くんは、今もどこかで見てるだろうか? 園田選手の代わりにはなれないかもしれないけど、お姉さんから託されたから、何とか俺も頑張るよ。そう思いながら、頭の少し上に目線を上げた。
 あと何時間かで、今年も三月十一日、十四時四十六分が訪れる。

       

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