番外編7「二〇一九年秋 硬球と木の棒による死闘」



 日が短くなったなぁ、と空を眺めてふと思う瞬間があった。午後五時五十分、試合開始まであとわずかの、ほんのすきま時間。心の中を読める特殊能力者がもしこのベンチの中にいたら、一喝されてしまいそうだ。
「気が抜けとらんか?」
 いた。園田打撃コーチのドスの効いた声が背後から聞こえて、俺の背筋は一瞬でシャキッとした——気がした。
「なんじゃア山﨑、空見上げてお口をあんぐりしとって……」
 すみません、と素直に謝る。本当に申し訳ない。緊張感を途切れさせてはいけないのに、現実として俺の気は抜けていた。去年の今頃、尾張フェニックスと熾烈な首位争いを繰り広げていた時とは比較にならないほどに。
「……まあ、な。もう順位も確定したし、気が張らんのは分からんでもない。けどな、今度はクライマックスに向けて己を整えていかにゃならんし、何よりお前は、打ち続けなきゃいかんじゃろうが!」
 今シーズン、我が安芸島アイロンズのペナントレースは三位で確定した。そんな中で、残りの五試合をどんな気持ちで戦い抜けばいいのか? 一軍に定着した一昨年、そして去年と、俺は優勝しか知らなかった。冷静に考えれば、なんと贅沢な野球人生か。そう、こんなこともあるのだ。というか、こんなことの方が多いのだ。優勝するチームより優勝出来ないチームの方が多いのだから。
 確かに、俺個人としては気を抜かずに打ち続けなければならない。自身初となる打撃部門個人タイトル、バットマンレースの頂点——『首位打者』の座に、限りなく近づいているという状況があるからだ。こんなチャンスは一生にそう何度もあるものではない。
 分かっている。
 分かっているのに。
「そんなフワついとったら……二位とは五厘差か。あっという間に逆転されちまうかのう?」
 俺は、俺自身のために力を発揮出来る人間だと思っていた。そうではなかったのか? チームと共に浮上し、共に沈む、そんなタチの選手だったのだろうか?



 今日の対戦相手は、目標の失いっぷりではアイロンズの上を行く神宮フォレスターズ。何せ、フォレスターズはリーグ唯一の九十敗台。五位以上を全く寄せ付けない圧倒的最下位に堕していた。
 しかし、試合が始まってみると、どちらが上なのか全く分からないという勢いで俺たちは蹂躙された。
 フォレスターズの先発は、この日二軍から上がってきたという高卒一年目の投手。球の勢いは良く、コントロールはバラついている。こういうピッチャーは厄介だ。特に俺のような配球を読んで打つタイプのバッターは苦労する。
 これが絶対に負けられない試合であれば、チーム全体で対策を徹底して攻略しようとする。このタイプなら、待球作戦でランナーを溜めて、甘く入ってきた球を狙い打ち、というところだろうか? しかし、この試合はチームにとって選手の打席上の自由を奪ってまでこだわる性質のものではない。結果、各打者は各々のやりたいように打席で振る舞い、面白いようにアウトカウントを増やしていった。
 試合はサクサクと進み、八回裏。ライトの守備に立っている時に気付いた。球場が超満員だ。
 順位の確定している、三位と最下位の試合で? そうとは思えないほど観客の熱気が迸っているのは、ホームチームが六対〇の楽勝ムードであることがその所以なんだろうか?
 九月中旬、闇に包まれ冷え込み始めた神宮の森の中で、俺は本当にぼんやりしていた。



「当たりましたね、山﨑さん」
 八回裏の守備を終え、ベンチに帰ってきた俺にそう声を掛けてきたのは横村だった。少し考えたが、何を言っているのか分からなかった。
「……何が当たったって?」
 そう返すと、横村は不思議そうな表情を浮かべた。何かおかしなこと言ったか?
「何って……立原さんですよ」
「ピッチャー? あ、ホントだ」
「ミーティングで言ってたじゃないですか、今日が引退登板だって……しっかりして下さいよ」
 後輩にそうまで言われてちょっとムッとしたが、言い返せない。ミーティングで監督が話していたことさえ頭に入っていないのだから……。優勝争いの渦中にいないというのは、ここまで俺という野球選手をダメにしてしまうものなのかと、暗澹たる思いを抱えながらネクストに向かった。
 さすがに立原投手が引退することは知っていた。俺がまだ純粋なプロ野球ファンだった時代から有名だった、ここ十年のフォレスターズを代表する名投手だ。
 ただ、自分がプロ入りして以降は正直言って何の印象もなかった。二軍ではリーグが異なることもあり、対戦経験は皆無。一軍に定着してからも、立原投手が怪我等により一軍で登板することがなく、これが初対戦になるのだ。
 個人的な立原投手の印象は、サイドハンドから豪速球を投げ込む、日本人離れしたパワーピッチャーということ。そして、その代償としての度重なる手術歴。引退発表の翌日にスポーツ新聞各紙をチェックしたが、そのほとんどが選手としての実績以上に、これまで行った様々な箇所への手術のことがクローズアップされて書かれていた。
 実際、俺も立原投手というと最初に思い浮かぶのは手術のことだった。肩、肘、さらには指まで……合計して九回も身体にメスを入れているという。とてつもないことだし、自分に置き換えて考えると、ゾッとしてしまう。俺なら四回目くらいでリタイアするだろう。これほどに『満身創痍』という言葉の似合う人がいるだろうか? いや、いない。
 致命的とも思える故障から何度も這い上がってきた立原投手のプロ野球選手人生が、遂に今日で終わる。その相手が、こんなボンヤリした奴で申し訳ない——そう思った矢先だった。
 飛んできた。これは“殺意”だ。俺は知っている。何度となく味わってきた感覚。真剣勝負。ファンを楽しませるエンターテインメントであるプロ野球は、その実容赦のない殺し合いだ。現代においては、古代ローマのようにボディコンタクトを伴う死闘は禁じられている。死闘は形を変え、硬球と木の棒で人の命を殺めることなく繰り広げられる。
 立原投手は、その世界で長年生き延びてきた強者だ。奪ってきたのは同じ命でも、打者の野球生命。立原投手を打てずに戦力外を告げられた選手だって、きっと何人もいただろう。その闘志は引退登板においても不変であることが、同じグラウンド上に立てば嫌という程に伝わってくる。
 大投手の引退登板といえば、“花を持たせる”ことが多い。多いが。
 ——そんな雰囲気じゃない。
 打席に立つ俺には分かる。立原投手の望んでいること。

 まだ、やれる。

 立原投手とフォレスターズは、報道を見ている限りは良好な関係性であるはずだ。「やれることは全てやったし、今はすっきりした気分」というコメントも確か残していたと思う。
 その言葉は嘘ではないだろう。だけど、真実でもない。

 俺の居場所はここだ。
 お前を殺して、俺は生き延びる——。

 伝わってくる。立原投手の言葉が、空気ではなく視線を介在して。マウンドでしか発せられない類の言語。記者のコメント取りでは絶対に現れない類の言語。
 この人、“穏やかな引退登板”なんて一ミリも望んじゃいない。“現役投手・立原”として、“生き残り”たがっている。
 もう、引退が決まっているのに?
 俺は、つい笑ってしまう。これが、プロ野球選手だ。生存競争を繰り返してきた職能集団の頂点に立つ、サバイバル能力に特化した集団の中で生きてきた男の本能は、常に状況を打開しようとしかしない。
 立原投手から見たらひよっ子もいいところだろう、俺のような奴でさえ“そうなりかけて”いる。何倍もキャリアのあるあの人は、数え切れないほどの死線を越えて今に至っているのだ。
 最後の闘いでも、命の取り合いには変わりない——そういうことですよね?
 すっかり気が引き締まっている自分に気が付いた。



 一球目から勝負気配明白のインハイ直球だった。
 神宮のスコアボードには百四十二キロと数字が点灯していた。全盛期からしたら十キロほど遅いかもしれない。だけど、その球に俺は痺れた。
 凄味のある人だ。立原投手は、俺にとって『テレビの中の人』だった。実際に対峙すると、これほどまでに圧力を感じさせるのか。そこまで身長が高いわけではないものの、その身体の分厚さ。筋肉の鎧をその身に纏い、怪我をも恐れぬ全力投球で数々の栄光と挫折を味わってきたそのキャリア——それこそが、マウンド上のあの傑物を作り上げてきたのだと分かる。
 ああいう人を見ると思うことがある。
 俺ももう十年……いや、五年早く生まれていれば。そうであれば、全盛期の立原投手と闘うことが出来たのに。そう、思わずにはいられなかった。
『お前は、打ち続けなきゃいかんじゃろうが!』
 園田さんは、先発で毎年二桁勝っていた頃の立原投手と何度も対戦したのだろう。ずるいな。
 今日、この打席が終われば、残り四試合。
 見ててください、園田さん。俺は、必ず首位打者を獲ります。
 立原投手が投げ込んできた、渾身の真ん中低めに滑り落ちるスライダーを、俺は躊躇なく振り抜いた。打球は、真正面の低いライナーになり、立原投手の右上腕付近に直撃した。球はその場に落ち、捕球したものの、痛みからか一塁に送球することは叶わず。内野安打だ。なんとか、今日を無安打で終えるという最悪の事態は回避出来た。俺は、塁上で溜まっていた熱い息を吐いた。
 球場を埋めたフォレスターズファン——いや、立原ファンが、ざわついている。当然だと思う。今日の客は、おそらく九割近くがかつての大エースの最期を見届けるのが目的で来ているのだろうから。『1000奪三振達成おめでとう』というプラカードを持っている客もいた。そうか。あと一つ、つまり俺が三振していれば、プロ通算千奪三振を達成して有終の美を飾れたのか、と思い至る。俺が三振していれば。
 ——実際に打席へ立ってもらえれば。
 一瞬、そんなバカな思いが頭をよぎった。不可能なことだ。でも、立ってもらえれば分かる。節目の記録とか、花を持たせるとか、そんなことで相手に気を遣われるのが、立原投手にとってどれほどプライドの傷つくことか。それが分かるのは、打席に立った俺だけなのだ。みんなも立てば分かるはずだ。それは、アホな妄想でしかないけれど。
 どこに視線を向けていいか分からず、ジッと下を見つめていると、万雷の拍手が球場を包み込んだ。立原投手が現役最後のマウンドを降りることが、見なくても分かった。
 鳴り止まない拍手で気付くのが遅れたが、足音が近づいてくる。顔を上げると、先程までマウンドで対峙していた相手、立原“さん”が俺に駆け寄って目と鼻の先まで来て下さっていた。立原さんは俺に両手を差し出して握手を求めた。いいですよ! と叫びたかった。右腕は悲鳴を上げているに違いないのだ。俺が迎えに行くのが、本来筋だ。
 立原さんは握手を終えたあと、俺の耳元に顔を近づけた。
「ありがとう、山﨑くんのおかげで最後の最後まで燃えられた。頑張って首位打者獲ってくれよ」
 そう言って、立原さんは自軍ベンチへと小走りに去っていった。拍手や歓声に潤んだ瞳で応えながら。
 ……ああなりたい。
 俺だっていつか、辞める時が来る。それが五年先か十年先か……今は分からない。
 分からないが、とにかく、最後の最後まで、力の限り勝負し続けたい。そんなプロ野球選手でありたい。
 長きに渡った闘いを終えた立原さんの背中を、俺はベンチの奥に消えるまで、ずっと目で追っていた。ずっと、ずっと、目を離すことが出来なかった。