第九打席「"左殺し"対"左殺し"in TUBEドーム」



 壁の本当の大きさは乗り越えた後にしか分からないものだと知った。
 二軍で園田さんと必死に身に付けてきた内角打ちの技術は、俺からデッドボールの恐怖心さえも拭い去ってくれた。この世界、幾らでも上がいるので、彼らと比較して内角打ちが得意とまでは言えないが、少なくとも苦手意識は無くなってきていた。いいよこいよ、全部弾き返してやるわ、くらいには思えた。
 そしてそれと同時に痛感した。プロ野球とは、毎年同じことの繰り返しだと頭のどこかで考えていたが、決してそうではないということ。
 まず、毎年確実に変わるものがある。打撃成績だ。人によっては微差かもしれないが、常に同じ成績というのは、確率的にあり得ない。成績が変われば攻められ方も変わるものだ。それは、俺自身で証明したと思う。
 もう一つ、対戦投手が変わる。この間対戦したドルフィンズの永瀬も、去年までは対戦することのなかった投手だ。また、同じ選手でも、技術の向上やトレーニングの効果などで、全く違う人間かと思うような球を投げてくることもザラにある。早熟型の投手がいるなら、晩成型もまた同様に存在するのだ。
 周囲がそうして変化、進化し続けていく中で、自分がいつまでも同じままでいたらどうなる。答えは簡単だ、打てなくなる。それはもう、見事に通用しなくなるだろう。だから、常に同じようにやっていては、この世界で生き残り続けることは出来ない。
 俺は生き残りたい。だから、強敵との出会いは幸運と思おう。それは、自分に変化を促してくれる、新しい壁なのだから。


 今シーズンの我が安芸島アイロンズは、尾張フェニックスに苦しめられている。昨年は圧倒的なまでに勝ち越したのに、今年はと言えばシーズン最終盤の現在に至るまで負け越しが続いている。
 順位の上でも、リーグ三連覇の最も大きな障壁になっているのがフェニックスだ。アイロンズは今年もなんとか首位をキープしているものの、二位のフェニックスとは僅か二ゲーム差。敵地TUBEドームに乗り込んでの今回の三連戦で、もしも三連敗を喰らうようなことがあれば、順位の逆転が起こってしまう。そうなると、もう残り試合数が少ないため、再逆転はかなり困難になってくるのだろう。
 ここが今シーズンの分水嶺。球団関係者や両チームのファンのみならず、シーズンの行方が決まる三連戦になるということで、全プロ野球ファンが意識しているのを各種報道やネットの動きからも感じる。
 それにしても、フェニックスはどうして最悪だった昨シーズンからここまでのV字回復を果たしたのか?
 答えは一つではないと思うが、最も大きな要因として上げられるのは、中継ぎ陣の再整備に成功したことだろう。実際に対戦していても、去年とは出てくる中継ぎの質が違うことは明らかだった。
 今シーズン、俺は前半戦終了に近いタイミングで昇格した。そこから打率を一気に上げて、現在は打率三割二分八厘まできている。出場試合数が少ないため、規定打席到達はほぼ不可能な状況だが、仮に規定打席に到達していたとすれば、打率ランキング二位にまで食い込む好成績である。我ながら、昇格前一割台だった打率をよくぞここまで押し上げられたと思う。
 しかし、そんな成績を残しているにも関わらず、対左打率は昨年から大きく下がっているのだ。その原因の一つに、フェニックスのブルペン左腕陣の充実がある。
 社会人卒ルーキーの愛川。今年一軍デビューにしてフル回転の三年目、吉橋。そして、昨年までの絶対的左腕エースであり、今年からクローザーに転向した外村。ドラフトで獲得した投手が上手く先発にハマった結果、外村をフェニックスの不安要素であった抑え投手に持っていけたことが、今年のフェニックスに推進力を与えたと世間では言われている。
 それはそうなのだろうが、俺個人としては、今年一番苦しめられているのが吉橋だ。吉橋もまた"左殺し"と呼ばれている。左打者相手のワンポイントとして起用され、確実に終盤の大事なワンナウトを取り、ベンチに消えていく。
 吉橋とは、後半戦だけで六打席も対戦しているが、ここまで一本のヒットも打てていない。こんなに左投手に苦労するのは、一軍でやるようになってからは初めてといってよかった。正直な話、これだけ打席を使っても、攻略の糸口さえ見えてこないというのが精神的に辛い。対戦したくなくなってしまう。
 今日も試合が拮抗して終盤を迎えれば、俺の打席あたりで吉橋が出てくるのだろう。
 対戦成績が悪いからといって、打てなくていいわけがない。今度こそ、吉橋を捉えなければ。


 首位攻防戦というのは、やはり締まった試合展開になりやすいのか。終盤まで二対二の同点という、痺れる展開で九回表を迎えた。
 二番の俺から始まる回で、アイロンズはここから四番まで左打者が続く。ここでフェニックスは当然のように吉橋をマウンドに送り込んできた。これは当然だ。延長を想定した投手起用になるから、ここで外村は使えない。それに、対左打者相手なら吉橋の信頼感は抜群だ。ワンポイントではなく、この回を三者凡退に抑えることを期待されての起用であることは明白。
 この回点を取れれば、一気に試合を決められる。点を取るには、先頭打者の出塁が野球の常識。しかし、相手は吉橋だ。塁に出るのも簡単ではない。
 初球。手が出ず、見送り。
 ただ無為にファーストストライクを取られてしまった。始動のタイミングが掴みづらいの。吉橋のフォームは独特だ。ランナーがいなくてもセットポジションを取り、ボールを抱え込むように身体を沈み込ませて、横手から球が『飛び出て』くる。投球の流れがヘンで、タイミングが合わせられない。気がつくとボールがミットに収まっているような感覚だ。球はそこまで速いわけじゃあないんだが……ただただ、合わない。それはもう、致命的なまでに。
 人生において、決して分かり合うことのできない人間は誰にだっているだろう。野球だって同じだ。どんなに研究し、努力を重ねても、どうにもならないことはある。合わないものは合わないんだから。諦めるなと言われるかもしれないが、俺だってそれなりにトライはしてきた。それでどうやったって打てないんだから、それは無理なんだ。ヒットが出るとしても、マグレのようなものだろう。
 ただ、ヒットは無理でも、塁に出られる可能性はまだ残されている。
 思考を切り替える。真正面からいっては勝てない。
 二球目。タイミングは合わない。飛び出てくる。手は出さない。ストライク。
 さあ、勝負はここからだ。俺とお前で、根気比べをしようじゃないか。


 TUBEドームにこだまするフェニックスファンのブーイングが心地良い。
 吉橋の十二球目。
 俺は、吉橋を打とうとはしていない。"当てている"だけ。フェアグラウンドに飛ばしたら負けだと思ってる。ファウルゾーンに打てたら成功。
 カウントはツーボールツーストライクになった。ファウルを積み重ねている間に、明らかなボール球が二球挟まっているのだ。
 十三球目。ホームベースのはるか手前でバウンドするようなクソボール。これは見逃し。スリーボールツーストライク。
 やっと、ここまできた。このカウントになると、吉橋もプレッシャーを感じてくるだろう。同時に相当な苛立ちも抱えているはず。
 俺が吉橋に苦手意識を持っているということは、吉橋から見れば俺など簡単に抑えられると高を括って投げてきていただろう。実際、二球で追い込んだ時点では余裕綽々に見えた。今は、表情が歪んでいる。汗も噴き出している。ここまで粘られることもそうないだろうし、俺も粘ったことがない。こういうことが急にできるのは、ここまで磨いてきた打撃の業だ。飛んでくるボールにバットを当てる、そんなことをもう二十年近くも続けてきたのだ。それも、一心不乱にだ。
 チームのためなら、ルールの範囲内でなんでもやる。ましてや、首位攻防戦だ。
 石に齧りついてでも塁に出る。意志を示す。俺の打席での姿勢を、チームメイトが見ている。次の打者の洗川も見ている。野球は九人で闘う集団競技だが、時にある一人が試合の流れを変貌させることがある。劇的に、あるいは静的に。良き方に、あるいは悪しき方に。
 そしてまた、アイロンズファンも見ている。レフトスタンドからの応援の声が、一球ごとに大きくなっているのが分かる。俺が粘れば粘るほど、熱くなってくれている。気持ちは伝わる。俺は、野球を通して人と心が通じ合わせることができると信じている。レフトスタンドを見ていると、それがより強固になってくる。
 打てなくても勝てる。数字上は対吉橋打率〇割で今シーズンを終えるかもしれないが、分かる人には分かってもらえるだろう。
 俺が吉橋の攻略法を、遂に見付け出したということを--
 吉橋の弱点、それは冷静さを欠きやすいこと。そして、分かっていても打てないような絶対的な変化球がないこと。そのどちらかを吉橋が備えていたのなら、俺はこんなに打席で粘れなかっただろう。
 十四球目。
 あ。しまった。バットの真ん中に当ててしまった!
 フェアゾーンに飛んじゃった……平凡なピッチャーゴロ。ここまでの努力が水の泡か--そう思いつつ一塁に走り出した次の瞬間。
 吉橋は、"簡単に"一塁に送球してしまった。十四球を費やしてようやくアウトが取れたとホッとした部分もあったのだろう。野球では、たとえ簡単なプレーであっても、簡単に処理してはいけないと教えられる。それは正しい教えで、簡単なことを簡単にこなしてしまうと、えてしてミスが生まれやすいものだ。そして、局面次第でそれは決定的なミスとなる。
 山なりの送球は、一塁手のはるか頭上にすっぽ抜けていった。俺はそれを認めた瞬間、全速力でベースを駆け抜けて、相手のカバーが遅いと確認したところでさらに一つ先の塁を目指した。滑り込んでセーフ。なんと、普通にヒットを打つよりも進塁出来てしまった。
 吉橋は、いかにも『ショックを受けてます』と言いたげな表情をしていた。これは尾を引くだろう。そんな精神状態の投手を、ウチのクリーンナップが逃すわけがない。
 勝敗は決した。


「放送席放送席、今日のヒーローは吉橋投手から十四球粘って出塁した山﨑太郎選手です」
 驚いたのは、ヒーローインタビューに呼ばれたことだった。決勝打を打った洗川が、「今日のヒーローはザキさんですよ」と言って譲ったとか。なかなかイキなことをする奴だと思う。敵地でのインタビューだから、インタビュアーのトーンも低いが、それもまた俺らしい気がする。
「山﨑さん、苦手としていた吉橋投手から十四球粘りました。打席では何を考えながらバットを振っていたのですか?」
「えー、そうですね。自分も吉橋君にあまり合っていない自覚はあったので……首位を争う大事な試合で、勝負所でしたから、どんな形でも塁に出ようと気持ちを切り替えた結果ですね」
「粘りに粘った結果、吉橋投手の悪送球を誘発しました。あれでアイロンズに大きく流れが傾いたと思いますが」
「そうですね、まあ、去年は僕もよく"左殺し"と呼ばれていましたので……"左殺し"の吉橋君には負けたくないな、とも思っていましたから。結果が出たとは言いづらいのですが、まあ、爪痕は残せたのかなと。何より、試合に勝てましたからね」
 本当にそれが大きい。勝てたことが一番だ。これで、シーズン三連覇が大きく近づいてきた。明日も勝てればほぼ当確と言っていい。吉橋に一矢報いたとしても、負けていたら満足感などなかっただろう。
 アイロンズベンチを見ると、洗川がこちらをニヤニヤ見ている。
 そりゃあ、相手のエラーで出塁したやつがヒーローインタビューなんて、客観的に見たらお笑いだろう。
 あいつ、この光景が見たかっただけだな?
 年俸二億の主力選手様と、年俸二千万円の遅咲き選手。同じ年に入団した仲間。今夜、一緒に飲みに行くことになっている。
 今夜の酒は、さぞや美味いことだろう。