あるけどない賛歌

「君は覚えているかな」

つうっと、他愛ない談笑でぬるまったコーヒーを飲み干すと、君は、今日はこの話をしに来たんだというような顔で語り始めた。どんな話かは大体想像がついている。

「……き、きゃんたま袋」

ほらきた!
僕は慌ててベルトを緩めてパンツに手を突っ込み、尻毛を力一杯むしり取る。

「やっぱり覚えてたかい」

とても優し気に目を細めた君は、ウっとして、先ほど飲んで胃で温めたコーヒーをカップに戻した。忘れるわけがない。ただ借金取りに追われ過ごした僕には、握りしめられる尻毛など残されておらず、代わりに握りしめた空し屁すらも秋の空風のようで匂いもしなかった。過ぎ去った時間の長さを物語っていた。

この喫茶店には三つのつむじ風が働いていて、中でも一番華奢で可愛らしいのが僕の解いた指の隙間から空風を掬い去っていく。

「あのとき、こうしてくれたのは君のお母さんだったね……ハニートーストをひとつ、あとゆで卵をひとつ」

通りかかったつむじ風に注文をした。この喫茶店にはマスターはおろか、人っ子ひとりいないのでこの注文は永遠に通らない。つむじ風だけは勤勉にくるくる回っている。

「私の母は死にました」

言葉遣いが途端に変わったので、僕は君が他人になったような感じを受けた。とても人見知りな僕は、急にそわそわしてしまって、卓上の砂糖を使って蟻をおびき寄せはじめる。

「私の母は交通事故で死にました、わき見運転ダメ絶対、私の母はわき見運転で死にました」

全然、蟻が寄ってこず気まずいところに、さっきとは違うつむじ風が、僕がせっかく砂糖の面を揃えて美味しそうに並べていたのにもビューンとさらげていった。あれは意地悪なつむじ風だ。
こうして僕は報復を決めたのである。戯れな時間つぶしのひとり遊びをやめて私は臨戦態勢を取った。君なんていない。

台風や渦巻というものについて僕はある法則、摂理を知っている。この地球ではあらゆる回転に対がある。右回転があるとき左回転ある、いわゆる還元力、振り子の原理と等しいものだ。質量保存の法則のように理解して貰っても構わない。
つまりあのつむじ風の三つにも対となる回転があり、その回転を制止すればあのつむじ風も渦巻くのをやめざるを得ない。存在を亡くさざるを得ない。そして僕はその対の所在を知っている。むしろ所有しているのであった。

僕の頭のつむじ三つ、それが彼らつむじ風と繋がっている。そうしてさらに飲み込んだものは一方から吐き出される決まりがある。ほらきた!先ほどの荒涼とした空風が頭を吹き抜けていくのを感じた。
こうして頭の冷えた僕は気を取り直して存在するのをやめた。伽藍とした。
sage