Neetel Inside 文芸新都
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遠い国の映画
レインメン⑴

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タ、タ、タ、タン。
と、平板な音符の羅列に、微強音がひとつ割り込む。
目覚めるにはそれで充分だった。始めの頃は使命感の手助けを得てやっとってとこだったけど、今となっては雨音のみで絶対に起床する特殊生物として学術的に評価されても良いのでは、というほどにこの朝に慣れてしまった。
ボロアパートのボロ部屋のボロベッドの上。むくりと体を起こした僕は天井のシミを見上げ、雫の滴る先を目で追う。
そこに鎮座しているのは、長年僕と同棲している青いポリバケツ。山積された情報、経験を武器に、相棒が落下地点を見誤うことはまずありえない。
水滴のスティックがプラスチックのドラムを叩く。BPMは、およそ100。DTMで打ち込まれた音のように軽快で機械的にビートを刻んでいる。およそ自然の産物とは思えないくらいに。
アイルランドのド田舎に住んでたころは、聴覚よりも嗅覚で雨を感じていた。自然とは本来、横暴なものだ。地図上では白い綿が転がっているだけに見えても、その下では常に生命たちの歓声や悲鳴が激しく入り乱れている。潤いを与えられ艶やぐ植物の薫香、一方で無残に命を奪われた動物の血の鉄臭さ。雨は抉るように足跡を残した。なす術なく生死の煽られる自然界の隣にいると、「耳を傾ける」なんて余裕はほとんどなかった。
そう、だからここロンドンに移ってからは革新の日々だった。耳が冴え渡る。ふと聞こえてくる音に集中する余裕がある。雑踏を泳ぐ話し声、遠くのビッグ・ベンの鐘の音、ドカ靴とアスファルトのジャムセッション。耳を傾けるようになって分かったことは、この街の音はすべて、誰かに聴かせるために鳴っているということだった。
これだけ良質な音を聴ける世界なら、そりゃ音楽が活発になるわけだ。
雨音のテンポは徐々に上がっていく。僕の心の中もバケツの水かさのように満たされていく。
今朝の僕を高揚させる要因は、それだけではなかった。
今日は、期待できそうな予感がしたんだ。
なんて思ったところでスマホに着信音。僕は犬のように飛びついた。
『おはよう、ノエル。起きてる?』
期待通り、君からのメッセージだった。
『おはよう、ペギー。ちょうど今起きたところさ』
『よかった。朝早くから申し訳ないんだけど、迎えに来てくれない?』
『オーケー。じゃあ7時までには着くよ。急いで行くから待ってて』
一般的な英国紳士の常識を鑑みれば午前11時くらいがベストかもしれない。いくら早起きの君だって、さすがにこの時間では困るだろう。でも、天気も、君の気も変わってしまったら、僕の場合は手遅れなんだ。
実はもう昨晩のうちに出立の準備は大方終えている。髪型、髭、襟、香水、コンドーム、手土産のスコーン。最終点検を余念なく済ませてもまだ5時20分だったけれど、僕は脱兎のごとく玄関口を蹴破った。
外は誰もが気鬱になるほどの雨空だった。僕は君のために買った頑丈な16本骨の傘を差し、水たまりを踏み散らかしていく。
僕が決めたわけじゃない。君と会うときは、決まって雨なだけなんだ。雨の日でなければならないんだ。そう、君にとって、僕は「雨男」を司る存在そのものに違いないだろう。


ロンドンの中枢であるスクエアマイルから見て北東、ハンベリー・ストリートに面した古着屋で働いていた最中に僕が君に一目惚れしたときは、ただし雨の日ではなく、からりと晴れた昼下がりだった。
君は友達とショッピングを満喫しているところだったらしい。
「私?私はマーガレットよ。ペギーって呼んでね」
話してみたら二目惚れだった。君はロンドンに移ってしばらくぶりに僕の嗅覚を刺激させた女性だった。単にフェロモンだけじゃない。死とは真逆の、生に満ち溢れた匂いだった。それに、ペギーという名前に凄まじいセンスを感じた。そっかぁ、ペギーかぁ。マギーじゃなくてペギー、メグじゃなくてペギーかぁ。うつつをぬかしすぎた僕は、君が帰った後に同僚のジムに頬をつねられても気づかなかないほどだった。
とかくいろいろあって君と付き合うに至り、ワケアリな内情(これは後で話す)を知ることになるのだけど、そもそもこの時点の僕は、君と付き合えるだなんて微塵も思いやしなかった。
君は都会生まれ都会育ちのいかにも中流階級といった風采で、現在サウスクロイドンで一人暮らししながら大学に通っている。
まず何より美人。エレガント。ファッションセンスは申し分なく、ちっちゃなお尻がキュートでイカす。サタデイズのフランキーみたくセクシーな目元、にもかかわらず笑顔は快活であどけない。周りがまだ蕾のうちに一番乗りで咲かせたマーガレットの花、ってイメージがぴったりだった。
こんな娘を持てて君のパパは大満悦だろう。そして君を手塩にかけて育てるだろう。仕事が終わればすっ飛んで家路につくし、五分でも暇がとれれば電話して愛娘に「愛してる」と伝えるかもしれない。
君はパパの愛情を受けてはつらつと育つ。一切影を見せない明朗な性格で人を惹きつけ、その美貌も相まって学内のミスカレッジの候補に選出されるほどだ。君が歩けば太陽にじゃれつかれてるかのように肌がきらめくし、笑えばそのシワのすべてに多幸感に育まれてきた端緒を伺える。
かたや僕はどうだろう。売れないロックバンドに所属し、古着屋のバイトで食いつなぐアイルランド出身の田舎者だ。君と釣り合うかどうかなんて考えることすらしれじれしい。君のパパが挙げる「万が一彼氏にしたなら抹殺することも厭わないタイプの人間」にほぼ合致しているに決まってる。
だから本当に、君に告白してイエスの返事を聞けたときは天地がひっくり返るほど驚いたんだってこと、伝われば嬉しい。とはいえその驚きは、半分別の意味もあったわけだけど。


その日、僕らは何度目かのお茶をした(これまでなんとか君が僕のお誘いにのってくれたのは、僕の「ロックバンドのボーカル」という一見するとクールなスペックが力を発揮したからかもしれない)。
「午前中ときどき雨、午後は曇りがちなものの雨が降るほどではないでしょう」
と言っていた天気予報に嘘をつかれ、夕立に降られた僕らは予定していたレストランを断念し、最寄りのカフェに避難した。
一日を通して見ると、ロンドンの天気というのは実に変わりやすい。
雲一つなく晴れ渡った、かと思えば午後には大雨になったりなんてのも珍しくない。
夕立だってすぐ止むだろうと当初は楽観的になっていたけど、その日だけは2時間経っても降り止むことはなかった。
「今日の予報屋は訴訟起こされても文句言えないなぁ」
ジョークで君の機嫌取りを図ろうとするも、その日の君は不自然なくらいドン底だった。ひっくり返った傘に雨水が溜まっていくみたいに、空気は重くなる一方だ。
どうしようかと思いあぐねる僕が抱える謎が解けたのは、窓際の席を離れて奥の席へ移動したときだった。
「私ね、雨だけはダメなんだ」
君はバツが悪そうに言った。雨に聞かれては困るという声量で。
「昔、犬を飼ってたの。私一人っ子だから、兄弟がいない代わりにその子が拠り所になってた。だから死んだときは相当ショックだったの覚えてる。お墓の土が崩れそうな勢いの土砂降りがずっと続く一日だったわ。今でもたまに夢で見ることがあるのよ。それがあってから雨が降るたび、その日は不幸なことが起こるんじゃないかってビクビクするようになっちゃった」
以来、君の予感はほぼ的中したらしい。というか、この国の気候的に一日に一回雨が降ることくらいよくある。それに、一日に一回ちょっとした不幸が起こることだって、誰にでもあることだろう?
「でも私のジンクスはどんどん膨らんでいったわ。私が笑ってる間にも地球の裏側で雨が不幸をばらまいてるんだって、そして明日私たちの街にも運んでくるんじゃないかって。雨が降れば降るだけ悪い事が起きそうな気がするのよ」
「そっか、だから雨の強い日は約束事を全部キャンセルするんだね」
「うん、そう。ごめんね、暗い話で」
それは普段の君からは想像もできないほど沈んだ表情だった。こういうときこそ、英国紳士は手を差し伸べなければならない。ここしかないと決心し、僕は言葉を噛み締めた。
「だったら、君が濡れないように僕が傘を差してあげる」
「え?」
「君に似合う雨靴も用意してあげる。たとえ一滴でも雨が降ったなら、その日の君を絶対に不幸な気持ちにさせないって僕が約束してあげる」
いかにも真面目くさった僕の顔が可笑しく見えたのかもしれない。君の表情が、ほんの少し晴れた。
「なんだか、歌の歌詞みたい」
「だってそうだろう?僕はロックシンガーだぜ」


という微笑ましいドラマのようなワンシーンは前置きにすぎない。君と恋仲になるにあたって、ただし、ワケアリがあった。この「ワケアリ」というのが僕にとってはあまりにも衝撃的すぎたんだ。
端的に述べると、君には先約がいた。
君にはすでに彼氏がいたってこと。しかも三人。僕を含めて四人だ。
僕はこれまで妄想してきた君の素晴らしい半生を真っ先に疑うことになってしまった。こんな娘に育てるなんて、君のパパはいったいどんな変態なんだ。
でも、と次には思った。僕が本気で一目惚れするほど美しい女性だ。恐ろしくモテてるのは致し方ないと言える。しかもこんな人と付き合えるなんて機会が与えられるだけ、僕にしてみればむしろ滅多にないチャンスなのではないか、って。
君が他の彼氏三人と会う日は、それぞれ火曜、木曜、日曜に一人ずつ。すなわち、君の大学が休みで完全プライベートタイムな日曜が、本命彼氏のポジションだと推察できる。
そして四人目たる僕に与えられたポジション、それは「雨の日」だった。
そう、言葉通り、僕は君にとっての「雨男」になったわけ。
雨が降ってる日、君に呼ばれたら駆けつける。電車の始発が来るくらいの時間に連絡を寄越されることは一度や二度じゃない。一人暮らしの君はたとえ寂しくなってもすぐに家族には会えないし、そうなると僕は余計に頼られる役となった。
しかしさっきも言ったけど、ロンドンの天気は変わりやすい。一時間ほどで雨が上がってしまうと、君は僕の存在なんか忘れたみたいに軽い足取りで他の彼氏や友達の元へ出かけて行ってしまう。また雨が降れば再度呼び出されて、日によっては君に三度会いに行くなんてこともあった。
と、こんな具合だ。客観的に見れば都合の良い男、と言われても反論できない。それでも僕が律儀であり続けたのは、つまるところ嗅覚だったのかもしれない。感覚的な話だけど、君の寂しさはたしかな真実味を帯びている、という確信があったんだ。
雨の日だけ見せる君の本当の姿。そんなとき傍に寄り添える雨男だけの特権。
それはある意味では本命彼氏すら上回っているんじゃないかとさえ思った。そう、雨が降りさえすれば────。

       

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