「でも……それでも御手洗さんは」
湯呑を置いて、健太郎が口を開いた。
「桜井君にまた野球をしてもらいたい、そうですね?」
蕎麦はあっという間に消え、そこには取り残されたか細い海苔と、一本の蕎麦が残って
いた。
「これは親心と言ったら無責任かもしれないけど、ね……出来ればトラウマなんて乗り越
えてやり直して欲しいんだよ。人生の内のほんの一瞬の時間だけど……それでも彼には高
校で野球をやって欲しいんだ」
きっと、御手洗さんも知っているのだろう。桜井が野球から離れられない事を。今朝の
試合後の父母への挨拶で、どさくさに紛れて握った桜井の手は、バッティングダコだらけ
だった。とてもじゃないが、コーチをする為の説得力とかいうレベルではなく、今でも打
席に立つ自分を思い浮かべて、ハードにスイングをし続けている、“選手の手”をしていた。
「お節介かもしれない。彼が苦しむかもしれない……でも彼と前田君、君が同じ学校に入
ったのであるなら……君にはキッカケになってもらいたいんだ」
ここまで言われる桜井は……以前の桜井はきっと、存在そのものが野球って感じだった
のだろう。何処かに行って環境を変えて、それでも離れられない野球そのものに悩みがあ
るなら、それは向き合わなきゃならない、桜井はそれも分かっているんだろう。
「だから……」
「僕等に……彼にとってのキッカケになって欲しいというワケですね」
健太郎の的を射たであろう言葉、御手洗さんが二の句を継げずに押し黙った。
「このまま……チームにいてくれるのは非常にありがたいよ。でも、いつか大人になった
時彼はきっと後悔するよ、だから」
「大丈夫っすよ御手洗さん、出来るだけの事はします」
少しはにかんで、健太郎がそう言った。
「そうか、それなら」
「で……今僕等、野球部としての活動が学校で出来ないから練習出来る場所がないんすよ。
だから、良ければアスレチックスの練習に参加させて下さい」
健太郎のそんな申し出は、御手洗さんが「それなら」と続けたかった事だったようで、
一瞬呆けたような表情を見せた後、御手洗さんは満面に無邪気な笑顔を見せた。