Neetel Inside 文芸新都
表紙

熱いトタン屋根の上
え?普通の野球ストーリーになってね?

見開き   最大化      






 なんだかひどい疲れに襲われている。起き上がった体が言う事を聞かない。

「豊ぁぁああ!!起きなさぁぁあい!!」

 日本の母親というのは何故子供を起こす時に既にキレているんだろう。

「うは……これは懐かしい」

 二階から降りる階段だけでも一種の荒行だ。これが一年以上のブランクなのか。さすが
に九歳の弟の前ではこんな姿は見せられないので、無理矢理に背筋を伸ばしながら居間に
突入した。

「ほら、あーん」

 まったく幾ら若い時に俺を産んだとは言え四十を迎える夫婦が……何を朝っぱらから。

「兄貴ぃ……また野球始めたの?」

 慣れた光景なのもあり、九歳の弟が両親のラブラブ具合をバッグに、上目遣いで俺に訊ねてきた。

「!?……どういう事、大ちゃん?」
「昨日の夜、健ちゃんが電話で『野球部に挨拶行くからグラブ持ってこい』って」
「は?」
 野球部といえば、昨日のゲームで貞操が危機に晒された同士であるが

「兄貴、昨日ぐっすり寝てて携帯に出ないって」

 あれだけの緊張感の中ゲームをやったのは久し振りだった。帰って辛うじて夕飯を食べ
て、泥のように眠ったのだ。

「………??」

 思わず頭を抱えてしまった。野球部?挨拶?一体何を考えているんだアイツは。

「で、兄貴ぃ……やるの?」

 不安のこもった顔で大輔が俺の顔を覗き込んだ。こいつに野球をボールの握り方から教
えたのは俺で、新しい事を教える度に尊敬の眼差しで俺を見つめていた。早くグラウンド
で試したいようで「一週間が全部土曜と日曜なら良いのに」と言って母含め少年野球の父
母会連中全員を萌え死にさらした過去を持つ。受験で俺がシニアを辞めると行った時も随
分と残念そうにしていたらしい。俺の前では健気に受験勉強を応援してたけど。

「そうだな……」

 コイツの期待する返答は分かりきってるし、誤魔化す真似はしたくないのが本心だ。健
太郎の球なら、投手力だけなら、おそらくは西東京でもトップレベルだろう。

 捕手に恵まれればな。

 未だ左手に残る倦怠感と、太腿に走る筋肉痛を再確認して……大輔に向き合った。


     



「は?」

 こればかりは健太郎も面食らったようだ。




「そのまさかだったとは」

 場所は学食のオープンカフェ、チキンナゲットを頬張りながら俺はかくも冷静にコメン
トした。我が愛すべき弟の期待を裏切るようで大変恐縮だが

「まさか審判やってくれてた部員がフルメンバーだったとはねぇ」

 憮然とした顔ではちみつレモンの缶を握る健太郎と俺。どうやら今回コイツが声をかけ
たのは俺だけだったようだ。

「………」
「………」

 残念なような、ラッキーなようなきm

「ダッーーーー!!」

 バキンッ!!

 健太郎が叫んだ。校舎だけは馬鹿な構造で広いこの学校の端まで届いただろう。飛んだ
のは叫び声だけじゃなく、今さっきまで健太郎の手の中で揺れていた、栓の開いてないス
チール缶だったはずのモノが今は単なる金属の塊になっていた。中身は何処かに消えた。

「行くぞ!高木豊!」
「えっ?何処?て言うか俺高木じゃないし」
「俺が失望したのはこんな良い天気なのに練習もしねー野球部と顧問のやる気の無さだ」

 入部届けの提出の為に顧問の教員の机を訪れた俺達を向かえたのは意外な事実だった。
なんとこの学校の野球部、現在三年と二年を合計して部員が六名しか在籍していない、事
実上の休部状態だったのだ。今年の前期で人数が足りなきゃ、それ相応の処置がなされる
らしい。手間を省きたい顧問は俺達を軽くあしらって入部届けを受け取った。

「でも人がいなきゃ……」
「慌てるな、まだ手はある。というかもう一人か二人有望なヤツがいるんだ。ソイツを今
からスカウトに行く」

 何を言ってるんだコイツは。お飾りの人数合わせじゃまったくやる気の見えない先輩部
員が心を動かすワケはないし、何よりそんなチームで野球をやるべき才能じゃないんだ。

「安心しとけ、豊。お前はファーストだ。マイク・ピアザをスカウトしにいくんだぜ」

     



 ピアザをスカウトする?馬鹿も休み休みに言え。ただでさえトラブルメイカーのコイツ
がこれだけマジになってるから付き合っているというのに。

「それで健さん、なんでキャッチャーをスカウトするのにわざわざ電車乗っているんですかね」

 コイツの球を受けられるキャッチャーが、ウチみたいな運動部の大人しい学校にいるは
ずがない。
 他の高校から引き抜き?殺されるぜ。今乗っている中央線下り沿線で強豪校というと……

「国分寺、早稲田実業……」

 多分この地域の強豪校の中では偏差値的には唯一俺達に勝っていると言える。確かに頭
脳的リードが取れるというなら適任だが。

「ん、早実……?行かねぇよ」

 柱に腰掛けて眠る国分寺駅構内の名物ホームレス、彼の半径五メートル以内は密かに治
安の悪いこの街での唯一の絶対聖域か。
 ゴチャゴチャとした、風俗店街を通り抜けたそこにあったのは

「バッティングセンターか……」

 つまりここに、俺みたいに野球経験はあるけど今はやっていない奴が暇潰しでバッティ
ングでもしているという事か。
 俺の顔を覗き込んだ健太郎が

「察しが良いな。多分キャッチャーに必要な何らかをお前は感じ取るよ」

 そう言って駐車場入り口の車止めのバーを飛び越えていった。


 国分寺ペニーレーンというボーリング場に併設されたこのバッティングセンター、早稲
田実業高校から程近い場所にあったというのもあり、あの伝説の甲子園優勝で地元凱旋し
た際には野球部から感謝の寄せ書きが送られ、一番目立つところにそれが飾られている。

「そーら、それだ!ナイバッチ!!」

 入り口に脚を踏み入れるなり聞こえてくる元気な声。

「アイツだよ……」

 FMラジオが流れる中、健太郎が俺の肩を叩きながらそっと耳打ちしてきた。

「………」
 百キロのゲージの後ろで、お揃いの帽子を被った小学生(あのチームは小平の有名な古
豪チームだ、確か)に囲まれた一人の男が、顔から蒸気を吹きそうな程に興奮しながら大
声でゲージの中のバッターに声をかけていた。

「踏み込みが大きすぎるよ!ドンッじゃなくてスッだよ!目線が上下しちゃってる!」

 やら

「あまり意識しすぎない!もっと軽く構えて!」

 などなど。これはなるほど、と感心してしまうくらい適切なアドバイスを子供達は熱心
に聞いている。さすがは小学生、的確な指導の下余計なクセがついていないのもあって綺
麗なフォームだ。

(彼は誰?)

 指先で名コーチを示して、健太郎に聞いた。

「四組の桜井……ヒトシ、だっけかな確か。小平のポニーリーグでキャッチャーやってた」

 そう答えると、健太郎は俺に千円札を差し出してきた。両替してこいって事なんだろう。
 ポニーリーグと言えば、アメリカではA・ロッドやデレク・ジーター、グリフィーJr.に
バリー・ボンズ、日本でも数多くの有名プロ野球選手を育成してきた硬式中学野球リーグ
だ。そこで捕手を務めるのなら確かに……なんで野球辞めたんだ?

「了解。で、学校で声をかければ良いモノをなぜにわざわざ電車乗って……」

 野口英世の顔をチョキで摘んで、訊ねた。健太郎はニヤリと顔を綻ばせ

「分っかんねぇかな、なぁ?お前なら……さ」

 肩を小刻みに揺らし出した。俺なら……?

「……分かった、大輔か」

 手で顔を覆って、天を仰いだ。
 コイツは昨日の試合の後で俺が爆睡する事も読んでいたのだろう。電話で大輔にああで
も言えば……

「言っておくけど、狙ったのは『そこまで』だからな」

 健太郎の珍しい弁解だった。

「分かってるさ、悪い気はしなかったよ」

 ああも理解の良い弟が喜んだんだ。

「また格好良い兄貴、やってやれよ。きっと喜ぶぜ」

「どっかの野球マンガみたいだよな、へっ。バッテリーにタッチ……」
「俺はおおきく振りかぶっても好きだぜ、チームって感じが」

 少年のフルスイングは、縫い目の磨り減った軟式球をジャストミートで捉えて、バッティ
ングセンターに快音を響かせた。

「俺は……また野球がやれるんだな」

 弟が望まなければ自分の好きな事に気付けないなんて、我ながら女々しい。だけど、我
が身の為に刀を抜く事はどうやら苦手なようだ。

「健太郎……ありがとな」

 少年がミートするタイミングに被せて、素直な謝辞を述べた。

     




「さて、健太郎さん……作戦の方はどうしましょうか」
「単刀直入」

 まったく。こいつはまったく。
 二言三言交わして首を横に振られて……子供達が特に囃したてねぇし。

「どうだった?」

 仏頂面で戻ってきた健太郎に聞いてみる。

「暖簾に腕押し……って感じだった。行こう、豊」

 憮然とした表情……というワケではないようだ。なんとなく考えあぐねているという感
じの表情で、健太郎がここから出ようと促した。

「なんだいそりゃ?」
「『どうせ遊びだろ?悪いけど俺は出来ないよ』だって」
「………」
「『少年野球のコーチの方が忙しいからな、すまないけど』」

 口を尖らせて、これは声真似なんだろう。
駐車場を去る間際に、俺は振り返って緑のネットが夕焼けに映えるバッティングセンター
を眺めた。元気の良い声と快音が聞こえた。

「なるほどね……」

 野球部なんかやれば彼等をコーチする時間なんてなくなるだろう。

「引退……したのかな?お前みたいにカムバックって」
「けっ」

 俺の言葉を遮って、健太郎が吐き捨てた。

「無理は体に良くねーよ」
「………」

 どういう意味なのか、イマイチ掴み辛いが桜井の事なんだろう。

「豊……喪瑠素亜大付属の甲本っているだろ?」

 聞くまでもない。あえての付加疑問系だ。

「センバツでモルスアを準優勝に導いた超高校級エースじゃないすか」

 新二年にして百九十センチの身長から投げ下ろす超高校球右腕だ。優勝したチームより
も彼を追いかけたマスコミの方が多かったとかいう話まである程だ。

「その甲本だけどな、中学ではあの桜井君とバッテリー組んでたんだよ」
「おろっ?」

 なんでこんな学校に来たんだ?

「甲本は中学時代世界大会のメンバーに選抜されてたよ。桜井も候補には挙がってたけど
学年の関係だな、選考委員の見る目の無さもあるけど」

 甲本の世界大会(新開催された中学野球版WBCみたいな大会で野球界においては滅茶苦
茶盛り上がったそうだ)出場に関しては西東京地区で野球をやっていた人間で知らない奴
を探す方が難しい。十五歳にも関わらずその二階から撃ち落すような剛球が、大会日程が
進むにつれメジャー球団のスカウトの人数を増やしたと言われている。肝心の大会は打線
がドミニカ代表の継投の前に沈黙して完封負けを喰らって準決勝で敗退した。

「そんな逸材がなんで野球やらないでウチみたいな勉強以外なんら取り柄のねー学校に進
学したんでやんすかね?」
「さぁな……話してくれないと思うし……でも解る気がするよ、あの様子なら」
「プレイが嫌いなのかな?子供達の指導の方が楽しいかな?」

 子供達へのあの熱心な指導がそういう仮説に説得力を持たしている……そう考えてしまう。

「豊、土曜空いてるか?」

 南米音楽のバンドの演奏が作る黒山の人だかりを掻き分けながら国分寺駅構内に足を踏
み入れると、健太郎が聞いてきた。こいつが人の予定を確認してくるなんて珍しい。

「あぁ……特に予定も」
「小川駅に八時半」
「はちっ」
「一分でも遅れてみろよ、またこの前の阿部さん軍団とまた練習試合組むからな」


     



 巨大なタイヤをデンと置いた門を構えている天下のブリヂストン工場から程近い、ここ
小川駅、八時半となるとそこの社員でごった返す。西武線と言えど油断ならない。

「おー……本当に来てた」

 約束の時間を五分程過ぎてから、健太郎が現れた。荷物カゴがボコボコの、いつもの通
学チャリに跨っていた。本当にコイツの強引さはSOS団の団長クラスのクセにルーズさは
異常に勉強の出来ない小学生と同等レベルだ。そのクセに学業の成績は学年中五位とかい
う不思議。

「……で、何処へ行くんだよ?」

 後ろ手に二台を指差して、指示に従い二ケツ状態になってから訊ねた。

「グラウンド。ちょっとお前に良いモノ見せてやんよ」

 そう言い終わるのが早いか、健太郎が物凄いトルクでペダルを踏み始めた。三段変速の
ギアを目一杯に落とし、期せずしてコイツの剛速球の源を知る事が出来た。

(恐ろしく足腰が出来上がってる……)

 あの軸の一切ブレない下半身を大胆に使うフォームを間近で見て、ポテンシャルの高さ
を実感していたが、まだまだ底は知れないようだ。

「この近くでな、桜井のコーチやってる少年野球チームが試合やってるんだ!観ておいて
損はねーよ!」

 府中街道、車道の端をかっ跳びながら俺達が行き着いたのは、とある小学校だった。白
亜の壁に子供達がボールを当てて付けたのだろう、茶色く丸い模様が点々と張り付いてい
る。ちゃかちゃかと音を立てながら朝陽の当たらない、薄暗い駐輪場へと健太郎が自転車
を滑り込ませた。そこには所々に雑然と子供用サイズの自転車が置かれていた。
 なるべく目立たないように、健太郎は壁際のスペースに自転車を停めた。荷台から降り
ながら覗いたその表情は、なんだか軽い苦笑に見えた。

「……行くよ。目立たないようにそっとグラウンドに出るからな」

 校門を通る際に見えたグラウンドの方向からは、威勢の良い声が輪唱して聞こえていた。

「懐かしいね……この応援歌」

 俺がそんな事を口にすると、健太郎はハハッと笑って歩き出した。確か清原の応援歌だっ
たハズだ。俺が彼等と同年代だった頃にも使われていた。数々の応援歌があったが、この
応援歌がポピュラーだった。
 薄暗い裏庭を抜け、俺達は朝陽が射す白い砂利の目立つ校庭へと足を踏み入れた。

「二回のオモテか……」

 遥か遠く、バックネット横にある小さな簡易スコアボードを、健太郎が目を細めて試合
経過を確かめる。

「外野二人目!捕ったら四つ四つ!!しまってくぞ!」

 声変わりを終えたのだろう、(小学生としては)体格の良いキャッチャーが指示を送っ
ている。

(どっかにいるの?)

 俺は視線だけを送って健太郎に訪ねた。健太郎は首を横に振って、俺がわざわざ気を遣
ったにも関わらず、堂々と指で方向を示した。

(ん?)

 今、塁上に見えるのは、この多摩地区でも屈指の強豪チームとして有名な小平アスレチッ
クスのユニフォームに身を包んだ……

「昨日のボウズだろ?」

 健太郎が楽しそうにそう言った。なおも指を下ろさない健太郎を見て、俺は慌ててその
先を追った。そこに桜井がいた。

「アイツ……普通あそこは監督席だろ」

 驚かされた。応援歌を熱唱する選手達すら上回るような大声で指示を与えているのは、
昨日健太郎につれない態度をとった彼だった。

「よっしゃ、ランナー二塁三塁!しっかりボール見て行こうぜ!」

 桜井の声に塁上のランナーの顔が綻ぶ。内野手は皆マウンドに集まり、顔をグラブで覆
っている。
 外野が二人目のランナーを狙うという指示、マウンドに集まるバッテリーと内野陣とい
う状況、アウトカウントは無しか、ひとつか。二回のオモテでのこの状況は采配が上手な
らビッグイニングを呼べる。

「少年野球のビッグイニングってすげぇよな。二桁なんてザラだし」

 健太郎がしみじみと言う。少年野球やリトルでの経験があるヤツなら、間違いなく身に
覚えがあるからだろう。

「まぁな」二度かぶりを振って「でもそれってバッターもそうなんだよな。ガッチガチに
なってボール球が真ん中に見えたり」俺はそう応えた。

「あるある」

 肩を揺らして、健太郎が笑った。チャンスの時にバッターボックスに入ると、急に独り
ぼっちの気分になる。自分は九対一の喧嘩にノコノコ出てきてしまった…といった感じか。
そういう時の選手のモチベーションを高く維持させるのは、監督の力量が問われる。
 監督らしい人間が見当たらず、ベンチラインに整然と並ぶ選手達の目の前をうろちょろ
する桜井、そんな光景の背景と化している父母応援団、アスレチックスのベンチは少年野
球を見慣れた者達にとっては、さぞかし異様な光景に見えるだろう。

「よーし!のびのび打っていこうぜ!」

 月並みなアドバイスであるが、昨今プロかぶれの指導者が多い中では珍しいかもしれない。

「ボールよく見てフルスイングなら誰も怒らないよ!」

 そうだ。怖かった。みんなが期待している時に結果が出せないと…父母会応援団の重い
溜息の後に火達磨のような監督のカミナリ、それがあるからバッターボックスでは大胆に
なれなかった。
 タイムが明け、審判がバッターラップをかけると、打席横に立った少年は二回素振りを
した。フォロースルーの大きな、桜井の指示通りのびのびしたスイングだった。

       

表紙

桜島ファイアー 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha