Neetel Inside 文芸新都
表紙

熱いトタン屋根の上
「前田さん9話ですよ」「お前に言われんでもわかっとる」

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「さて……」

 大きく伸びをして健太郎がそう言うと、ほぼ反射で俺の体がビクッと恐怖のこもったリ
アクションをした。と、その事自体に俺自身が驚いた。

「と、トラウマ!?」

 勝ったお陰で未遂に終わったとは言え、ガチホモ相手にアナルをかけた戦いするハメに
なったのは、他ならぬコイツのせいであり、笠原さんなんて緊張によるストレス(ファー
スト守ってたし)で、突かれてもいないはずなのに痔が再発した程だ。あの信じ難い緊張
(まったくベクトルが勝敗以前なんだが)は、現場にいた俺達サイドの一人一人の無意識
下に小さくとも深い傷を作ったようだ。

「ん?何言ってんだい君は」
「あ、いや……これ以上はここで何かするのはと」
「何言ってんだ、帰るんだよ」

 実のトコロ、健太郎は本当に今日の試合を見に来ただけのようだ。目的を強いて挙げる
なら

「なぁ健太郎」
「んぁ?」
「確かに燃えざるを得ないさ、確かに。でも俺だって元々本気だよ」

 必要不可欠であるキャッチャーのスカウトの為には、俺も野球に対して本気である事を
桜井に示さなきゃならないだろう。エース独りが先走っているチームになんて、魅力なん
てありはしない。

「………。そいつはどうも」

 言い方はぶっきらぼうだ。背中を追って歩く俺だが、健太郎がはにかんだ表情を見せて
いる気がした。
 左手首のプロトレックに目をやる。時刻は午前十時二十分、いい加減誰もが目を覚ます
頃だ。
 改めて振り返ると、背後では選手、コーチが一緒に試合の為に設営したベンチ道具の片
付けに忙しく動いていた。既にスタスタと去ろうとしている健太郎を追おうと再び正面を
向きなおした時だった。

「ちょっと……えっと前田君!!……と佐々木君!!」

 御手洗さんの声が俺達を呼び止めた。おっさん俺の名前を忘れていただろ。

「御手洗さん……お疲れ様です。良い試合見させてもらいました」

 小走りで戻ってきた健太郎の口調は丁寧だ。

「二人共……ちょっと相談があるんだ。今夜時間あるかい?」

 そう言って、俺達の反応を確かめると御手洗さんはウインドブレーカーのポケットに手
を突っ込んで、そこから何かを取り出した。

「七時にここで」

 健太郎が会釈をしながら受け取ったそれは

「そば処……ひんぬー亭」

 紺色の、四角い蕎麦屋のマッチ箱だった。


     



「いらっしゃいませー」

 バイト店員なのか、俺達とそう歳も変わらないだろう女の子が元気良く迎えてくれた、
そば処ひんぬー亭。

「名前とは一切趣が逆ですね前田さん」

 そば処とはアナウンスしているものの、店内の雰囲気はやたらモダンで……BGMには
BEGINのしゃがれたブルースが使われていた。店員の制服も、清潔そうな白シャツに靴
まで届くサロン、黒いストレートのスラックス……どちらかと言うならば洋食屋だっ
たりバー(行った事ないけど)のような印象だ。

「御手洗で予約は入ってナイっすか?」

 健太郎がカウンターに立つ、黒い髪を結い上げた女性店員に訊ねた。

「………、御手洗様ですね!山崎さん、奥のお座敷へお連れ様をご案内してくださーい」

 コツコツという健太郎のティンバーランドの足音が石造りの床に鳴る。通されるカウン
ター席、テーブル席は休日の七時という事もあり酒を織り交ぜながら賑わっている。

「明らかに店員目当てのニーさんもいるね」

 健太郎が俺達を案内する女性店員さんに聞こえないよう耳打ちしてきた。
 通された奥の座敷では、御手洗さんが湯呑を口に運んでいる最中で、その途中で俺達に
気付いて軽く手を振ってきた。

「どもども、お疲れさん。とりあえず座って」

 御手洗さんに勧められるがまま、座席に上がって胡坐を書いた。すかさずメニューを差
し出され、健太郎がチラッと内容を窺ってから口を開いた。

「さっそくですが……お話というのは?」

 単刀直入だった。御手洗さんも多少意表を突かれたようだった。

「多分前田君なら分かってると思うけど……」
「桜井君の事、ですね?」

 ややあって、御手洗さんが頷いた。

「ここのマスターはね、うちの六年生のキャッチャーやってる子の親父さんでね……予約
の電話を入れたら、たいそう張り切ってた。好きなモノを頼みな、味は期待して良い」

 突然、話が変わった。なんだか、桜井の事が話しにくそうな……そんな印象だ。
 そうこうしていると、先程入り口で俺達を向かえた店員さんが注文を聞きにやってきた。
マスターが張り切っているというのなら、その蕎麦も食いでがあるというものだ。よしっ、
ざるそば……頼もう。

「テラカツ丼お二つ、つゆだくで!かしこまりました~」

 かしこまりました~、って何この……俺のメニュー見ている間の特殊部隊ばりの迅速な
行動。というか蕎麦屋のマスターが張り切っているの聞いて、好きなもの頼めと言われた
ら本当にカツ丼頼む健太郎。俺の分までって。

「それで……桜井君の事というのは」

 え、俺モノを与えられし空気?

「彼を……もう一度選手にしてやってくれないだろうか」

 口をへの字に曲げて、御手洗さんがそう言った。

     


「それって……どういう意味ですか?」
「あの子は、あんな若い内からコーチに落ち着いていちゃいけない選手なのは分かってい
るだろう?」

 それは、まぁ桜井の実績を考えれば引く手数多のはずだ。それにあの判断能力。マータ
イ女史でなくても勿体無いと訴えるだろう。だけど……

「御手洗さん、確かに僕も佐々木君も優秀なキャッチャーを探しています。この東京全体
を探したってあんな逸材はそうそういません、だけど」

 桜井自身のスタンスが気になるのだ。あのバッティングセンターでの健太郎とのやりと
り、今日の試合後の苦々しい表情、プレイする事に何か想いがあるのかと思わせるのだ。

「何故、桜井君は今アスレチックスでコーチを?何故選手をしていないんですか?」

 正直、俺達がアイツを勧誘するかしないかという問題そのものに、アイツの事情が関係
あるとは思えない。仮に何らかの事情があるにせよ、御手洗さんが俺達に『桜井を部活に
入れろ』という頼んでいるのだから、これは健太郎の単なる興味なのかもしれない。

 例えば、俺がシニアを辞めた理由は受験だ。よくある事だ。俺自身、野球が嫌いになっ
たわけでもないし、ましてや怪我をしたなどというワケでもない。ただ、このまま野球を
続けていれば、いつか自分は弟が誇れる兄貴という舞台から降りなければならない、そう
思っていた。女々しい限りだ。お陰で東京じゃ難関といわれる進学校に入学出来たのだが。

「いいかな、内緒にしていてくれよ彼には」

 そう言って御手洗さんは、お通しに出された、空になったお新香の器を卓の通路側に寄
せた。そして、すぐに三つの器を乗せた盆を持つ店員が現れて、テラカツ丼を俺、健太郎
の目の前にでんと置いた。御手洗さんは……なんだろう、ざるそばって。

「あれは……彼がポニーリーグのチームでキャプテンになって迎えた夏のリーグ戦前の事
だったな」

 ざるそばなら話していても伸びないからか……。
 御手洗さんが、窓から望む街道の車の往来を一瞥した。

「ごちそうさまでした」

 行儀良く、健太郎が合掌しながらそう言った。テラカツ丼は何処かへと消えた。


     



「遠征中の事だったな……」

 そう言って、御手洗さんは当時の桜井の事、チームの状況などを織り交ぜながら、遠征
で訪れた山梨での出来事を話してくれた。

「……クロスプレーで」
「あぁ……タッチアップでの危険な接触だったよ。彼のブロックも完璧で、相手選手の体
格もかなりのものだった」

 桜井、中学三年時……遠征中にした試合での事だった。一進一退の攻防で膠着状態の続
いた中、相手チームが得点圏にランナーを置いたチャンス。そしてレフト深くに上がった
フライ。

「左脚の開放性骨折だった……即座に試合は中断、その場にいた全員が青い顔をしていたよ」

 最短距離での完璧な中継プレー、桜井の元へと届けられたストライク送球。桜井は決死
の覚悟で、本塁に突入してきたランナーに立ちはだかった。御手洗さんの説明は、当時は
桜井のチームに帯同していたコーチングスタッフだっただけあり生々しく、思うところの
多さが感じられた。

「最初は誰も……当のキャッチャーとランナーですら、一体何が起きたのか理解出来てい
なかったようだった。主審が困惑した表情で目を背けてすぐ、すぐに白いハズの自分の練
習着が真っ赤だったのに、お互いが気付いて……」

 御手洗さんの言葉がそこで止まった。言葉に詰まったのだろうか、ややあってから続けた。

「誰かが悪いワケじゃない……お互い中学野球最後の年、精一杯やりたかっただろうし、
練習試合でも結果を残せば名門校からだって声がかかりやすくなるかもしれない」
「でも……、つまり彼はそれを負い目に感じて」

 と、健太郎。

「相手の選手の怪我は相当深刻で……どうやらまともに野球をやる事はもう出来なくなっ
てしまったそうだ。プレー中の事故ではあったから、無傷だからといって誰も彼を攻め立
てるような事はしなかったよ。ただ、その後は彼がチームに顔を出す事はなくなった」

 頑丈なレガースに守られ、桜井は無事に済んだ。ただ、その心には深いキズを負って、
未だその痛みと戦っているのだろう。今朝の試合での、本塁クロスプレーへの桜井の尋常
じゃない怒り方の裏にはそういう事があったのか。

「だから、きっと子供達にはそんな自分と同じ徹を踏ませたくないのだろうねぇ。身体の
出来ていない子供の内には、接触のあるような危険なプレーはしてはいけない……そう、
ね」少し間を取って「贖罪……のつもりもあるんだろうけどね」と付け加えた。

「………」

 何か重い沈黙がしばらく続き、何を言うでもなく俺と御手洗さんが目の前の料理に箸を
付け始め、健太郎はお茶をすすった。


     



「でも……それでも御手洗さんは」

 湯呑を置いて、健太郎が口を開いた。

「桜井君にまた野球をしてもらいたい、そうですね?」

 蕎麦はあっという間に消え、そこには取り残されたか細い海苔と、一本の蕎麦が残って
いた。

「これは親心と言ったら無責任かもしれないけど、ね……出来ればトラウマなんて乗り越
えてやり直して欲しいんだよ。人生の内のほんの一瞬の時間だけど……それでも彼には高
校で野球をやって欲しいんだ」

 きっと、御手洗さんも知っているのだろう。桜井が野球から離れられない事を。今朝の
試合後の父母への挨拶で、どさくさに紛れて握った桜井の手は、バッティングダコだらけ
だった。とてもじゃないが、コーチをする為の説得力とかいうレベルではなく、今でも打
席に立つ自分を思い浮かべて、ハードにスイングをし続けている、“選手の手”をしていた。

「お節介かもしれない。彼が苦しむかもしれない……でも彼と前田君、君が同じ学校に入
ったのであるなら……君にはキッカケになってもらいたいんだ」

 ここまで言われる桜井は……以前の桜井はきっと、存在そのものが野球って感じだった
のだろう。何処かに行って環境を変えて、それでも離れられない野球そのものに悩みがあ
るなら、それは向き合わなきゃならない、桜井はそれも分かっているんだろう。

「だから……」
「僕等に……彼にとってのキッカケになって欲しいというワケですね」

 健太郎の的を射たであろう言葉、御手洗さんが二の句を継げずに押し黙った。

「このまま……チームにいてくれるのは非常にありがたいよ。でも、いつか大人になった
時彼はきっと後悔するよ、だから」
「大丈夫っすよ御手洗さん、出来るだけの事はします」

 少しはにかんで、健太郎がそう言った。

「そうか、それなら」
「で……今僕等、野球部としての活動が学校で出来ないから練習出来る場所がないんすよ。
だから、良ければアスレチックスの練習に参加させて下さい」

 健太郎のそんな申し出は、御手洗さんが「それなら」と続けたかった事だったようで、
一瞬呆けたような表情を見せた後、御手洗さんは満面に無邪気な笑顔を見せた。


       

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Neetsha