飛び込む魚と吐き気のプレリュード(泥酔3日目)

4.飛び込む魚と吐き気のプレリュード(泥酔3日目)

昨日飲んだ酒がまだ頭の奥に残っている。恐ろしく具合が悪いから迎え酒をするワケだけど、飲んだ後から間違いなく余計具合が悪くなる。そんなことは当然知っているのに、飲まなきゃいられない自分に多少腹が立つ。誰か自分を幸せにしてくれる人がいればいいんだけれども、そんな人が現れても結局お酒は飲んでるし、そもそもそんな人とは全く関係ない人生だろうからそんなことを考えるのは脳みそを無駄に使うってものだ。このタンパク質でできたアルコール漬けの脳みそは、お酒を飲むことだけに使えばいい。それでも自分を幸せにしてくれるなら、そんな誰かがいてほしいともちょっとは思う。まるで中学生ぐらいの、純粋な女の子みたいだけどそんな思考回路なんだからしょうがない。

結局、自分の頭の中で堂々巡りをしながらお昼になっている。正午を告げる鐘が鳴るんだから、多少は落ち着かなければ。鐘が鳴らなくても、落ち着かなければいけない。とりあえず、自分の問題を上げてみる。一番問題なのはお酒だ。ただ、自分はお酒で生きている。だからやめることはできない。自分の血はワインだし(まるでジーザスクライストだ)、自分の汗はテキーラだ。自分の尿はビールなのかもしれないし、涙はウォッカ。組織液はきっとウイスキーだ。きっと、自分を構成している原子はヒドロキシ基と炭素分子でできている。こう考えていると、何が問題なのかがわからなくなる。問題自身が自分そのものなのだから。

そんな風に現実逃避をしてても、胃の痛みは常に自分がここに生きているって事を知らせている。たまらなく生きているのに、どこか知らない場所に行きたくなるのは自分の性分なのか。こんな事を考え続けてるのもきっと自分の悪いところだ。どんどん鬱が悪化するし、どんどん死にたくなる。普通の人なら3回くらい死ねるほどお酒を飲んでるし、それを毎日続けてるのが原因なのだろう。そんなふうに原因が分かってるのにやめられないのが病たる所以だ。

こんな自分が生きていていいのだろうか? 存在に対する罪悪。自分が存在することで世界はどう変わるのか? あるいは、存在しないことで何が変わるのか? 世界内存在としての自分のすべてに対して。生きることはそもそも善いことなのか? 時間性、空間性、通時性、イデアルな、理念的形象としての、直感的な、フッサールはいまはどうでもいいけれども。以下泥酔。