上映完了 デビルマンは正真正銘のクソ映画ではない


前回、言い忘れていたんだが
不動明も処刑シーンの後で目覚めてすぐさま牧村家に向かうシーンがあるんだが、
牧村家の人たちが心配なら せめてそのまま大急ぎで走っていけよ。
どうせ間に合わないのが分かっていても、最後の最後まであがけよ。
絵を見せたいのは分かるんだが、それは別に美樹が死んだ後に放浪するシーンに
とっておけよと言いたかった。あと、美樹の生首のシーンはなかなかゾッとした。
やはり、ヒロインの惨殺死体は止め絵で見せるべきだ。
実写だから難しいのかもしれないが、ここらへんは止め絵の後
すぐさま手持ちカメラに持ち替えて撮影してもよかったんじゃないだろうか。
そう、美樹の生首目線にして、膝をついて倒れその後、生首の姿になった美樹を抱えるまでの
明を映していけばそれなりに斬新なカメラワークになったんではないかと思う。
ここら辺がいきなりカットされてからの今回の放浪シーンへと繋がるのは非常に勿体無い気がした。
個人的にもう少し生首を抱えて慟哭する不動明の絵が見たかった。

まあ、ただあの演技力でそこまでのカメラワークをするのは
雑巾をルーブル美術館に飾るかのような無駄骨になるだろうから
控えたのだろう。





それで今回の不動明が美樹の生首を抱えて廃墟を放浪するシーンへと繋がるわけだが。

絵としては非常に素晴らしいし、音楽もなかなか美しい。
廃墟の中に教会だけがポツンと存在している構図も
ベクシンスキーの退廃主義的な絵のようでなかなか美しい。
だが、いまいち配慮が足りない。
せめて布で覆うとかはないのだろうか。
ましてや日差しが強く差し込む日中だ。

もう少しこう放心状態になっている図とかも欲しかった気がする。


「神はいたか!!!!人間は護る価値があったか!」
そう問いかける飛鳥了。
途中で司祭服を脱いでベージュのジャケット姿に着替えるのはいただけない。
ここは司祭服のままの方が良かった。ただし、司祭服のデザインがダサすぎだ。
いっそのこと、プッチ神父のような司祭服でビシッと決めて欲しかった。
こういう問いかけをするのなら、司祭服かそれに準ずる格好…喪服とか……
そういう人間の生死に関係する葬式系の服装でいてほしかった。


「お前はサタンだったんだな。俺を騙していたんだな。」

……あれ?言ってなかったっけ?
確か商店街のアーケードで警官の変装した時に明に言ってなかったっけ???
おやおや、何回も飛鳥がサタンだと言うシーンが出てきてる筈だが、
その度にノーリアクだったのに今更リアクションとはどういうことかね?
不動明くんもとうとう、疲れてきたか。
エンディングまでもう少しだぞ!!ガンバ!!


戦闘シーンはまあ、ここまでデビルマンを見てくれた観客への謝罪の
意味が込められていたかどうかは分からないが、まあ見れるレベルだった。
真っ赤に焼けただれる東京の風景はデビルマンの世界観である末法思想的な世界観に
マッチしているし、裸の人間どもが蠢く人柱の演出もなかなかだ。
私はもう人間に対して絶望しか抱いていないせいか、こういう風景には
見とれてしまう傾向にあるらしい。

最期に不動明を看取る飛鳥了が寝転がる海上の岩場の演出もなかなかだ。
ただし、回想シーンで幼少期の2人が砂上のおしろを作っている場面があるが
どうして飛鳥はフォーマルな格好をしているんだ?
「ようやくできた!」と一緒にいた不動明が言ってるところから見て
一緒に浜辺で作ってたんじゃないのか??
それなら、泥まみれに汚れてもいいような格好でいなきゃおかしいだろう。
肝心の不動明は不動明でまったく泥まみれじゃないしな。

そして、その後降り注ぐ雨……
この子役たちが風邪をひかなかったかどうかだけが心配だ。


ラストはススムくんとミーコが放浪するシーンで終わる。
ただここらへんは最初から最後まで歩きっぱなしの方が良かったんではないだろうか。
せっかくのおねショタが台無しだ。



ようやく完走した感想だが……改まっていうこともないな。

個人的に題材としては100点満点と言えるこの映画。
随所随所で見せ方さえ気を配れば 幾らでも名シーンに化けるところはあった。
本当に勿体無いと言わざるを得ない。

この映画が何故、クソ映画なのか……それは見せ方が絶望的に悪いのだ。
見せ方のロジックがまったくと言っていいほどなっていない。
新世紀エヴァンゲリオンの庵野監督で言うと、あの監督は見せ方のロジックがすごく整っているから
たとえシナリオが意味不明でも、超展開でも、すごく面白く見せられるのだ。創作において、見せ方のロジックだけを整えるだけでも幾らでも面白い作品は作れる。この世で面白いを超越した名作はこの見せ方のロジックを超えて題材まで素晴らしい故に生まれるのだ。
だが、残念なことに題材がいくら素晴らしいものでも見せ方がダメではこのような有様になる。

重ね重ね言うが、題材はすごく良いし、磨き方と見せ方さえ気をつければ神映画になった筈の映画だった。だから、私はデビルマンをクソ映画としては10点中3点とする(10点満点が史上最大のクソ映画な) 正真正銘のクソ映画は題材までクソで初めて成立する。


それに関して少し自分語りをしたい。オチはちゃんと脱線しないから最後まで読んでくれると助かる。
後出しジャンケンになるかもしれないが、実は私はこの映画を鑑賞するのは2回目だ。
母親がレンタルしてきたのを一緒に見たのを覚えている。

今だから明かすが実はモニカの惨殺シーンはだいぶ昔 この映画を見たのを覚えていた思いついたアイディアだ。
その時の私は創作のイロハすら分かっていなかったからこの映画をクソ映画と認識しておらず、
「ヒロインがピンチに陥るが、主人公の到着が間に合わずに生首にされる映画」として覚えていた。
自分なりにこのシーンはどうも印象に残っていて、
数多と溢れる創作物においてヒロインのピンチに主人公が駆けつけるのは
クリシエに観客ながら飽き飽きしていた、当時の私としてはすごく斬新だったのを覚えている。
今となってはこの映画がクソ映画と散々揶揄されているのを知ってしまったから、
何もかもがクソに見えてしまうが、あの純粋に創作のイロハを知らなかった私は純粋に
この映画から題材を掬い取っていた。

何年か経過し、創作のイロハを学びながら
アサシーノスの創作に取り掛かった時、私は似たようなシチュエーションに出くわした。
モニカのピンチに大急ぎでバイクを飛ばすディエゴ……果たしてその結末をどうしようか。
考え悩んでいた私は思わずこのシーンを流用した。

もちろん、ただの流用ではない。このシーンをオマージュすることで、
「殺し屋が幸せになろうなんてそんな上手い話はない」というメッセージを
込めることが出来るだろうという確信があっての戦略である。
戦略に合わなければ別の手段を考えるだけだ。

今、思えばこの後に続く明が教会で飛鳥と押し問答するシーンも
ディエゴがアダムと押し問答するシーンに引用してしまっていたのかもしれない。
だが、それもすべてアサシーノスのテーマに外れないという確固たる戦略あっての引用である。


いくらクソ映画と罵られていようと、そこの根底にある題材は拾う価値はあるということだ。
私がクソ映画を見るとするのなら、そこの根底に眠る題材とテーマを掘り起こすことにあるのかもしれない。


以上でデビルマンの鑑賞を終わる。
なんだか、寂しい気もするが
もしまた2週目……いや、3週目か。
見ることがあれば見てみようかと思う。


次回はプロメテウスとコヴェナントを特集したいと思う。