2018.1.13 第7回目 プロメテウス・エイリアン:コヴェナント特集:登場人物という名のチンコ、舞台という名のマンコ


[注意:今回の解説にはかなり卑猥な表現が登場します。苦手な方は読まないでください。]

 どうもこんばんは。京都人をdisっておきながら「冗談やないのー」と言い訳を並び立てる老害に逆ギレされて以来、
老害が死ぬほど大嫌いなバーボンハイムだ。他のお客様(京都人)が居るのにも関わらず、大声で京都人は
陰湿だの、腹黒いだの大声で話すくそbbあめ……

………失礼、真面目な老人はいるのだろうが……
若者の言葉に耳を傾けず、若者の可能性を潰すような輩はただの老害だ。

ましてや自分の我を通し、好き勝手に振舞うような輩は脳みそが化石化した害悪以外の何者でもない。
人間はいずれ歳を取るが、老いて心を閉ざして周りに攻撃的になるのが
老いることだというのなら悲しいものだ。

自分もこうなるのだろうか……


……まあ、この冒頭はいずれ今作品のテーマにも関係してくるのでおいおい話そう。
おそらく、プロメテウスとエイリアン:コヴェナントを作った
リドリー・スコット監督も似たようなことを考えているだろうから。

今回語らせていただきたいプロメテウスとエイリアン:コヴェナント……この2つはエイリアン1の
前日譚として作られている。
その魅力について語る前に、リドリー・スコットがこの映画を作り上げたバックグラウンドについて話そう。
というより、ほとんどエイリアン1の話になるが、このプロメテウスとエイリアン:コヴェナントを語るにあたってはこの話抜きには語れない。

はっきりと言おう。この2作はエイリアン1には到底及ばない。
エイリアン1……いわばエイリアンシリーズの祖であるリドリー・スコットが作り上げてはいる前日譚にも
関わらず 何故、この2作は1を越えられないのか……
この理由についてまずは説明したい。



今でも名作と語られているエイリアン1。
音楽は後にトータル・リコール、コナン・ザ・グレートを担当するジェリー・ゴールドスミス。
最高だ。もう彼が作り出す音色こそ、映画音楽である。ハンス・ジマーに並ぶ映画音楽の巨匠だ。
脚本はダン・オバノン。彼はトータル・リコールの脚本も担当したことがある。
人一倍臆病で、映画が完成した時に酷評を恐れて一切出歩かなかったほど塞ぎこんでいたが、
表彰式に呼ばれ、号泣したらしい。
最高だ。物語を紡ぐ脚本家に穏やかな人間関係や心の安らぎなど必要無い。
常に不安と孤独に苛まれ、この世のどん底で喘ぎ藻掻きながら、ただひたすら世間との唯一の繋がりである
作品に己の全てを投入する……そんな直向きさが必要だ。

そして、リドリー・スコット。
当時、無名のイギリス人監督だった彼はこのダン・オバノンの脚本を極上のホラーに
仕立て上げた。正直、プロメテウスとコヴェナントを見たのが先だったので
この時代に作られたSF特有のローテクさに辟易するかもしれないと思っていた。
だが、このエイリアン1で出てきたホラー要素は上記の2つを圧倒的に凌駕する。
リプリーが特別指令937を読んだ直後にアッシュが隣に立っているシーンでは思わず机を蹴り飛ばすほどビックリし、
ケインの顔面にフェイスハガーが張り付くシーンでは分かっているのに膝で机の裏を叩いてしまった。
リプリー役のシガニー・ウィーバーも若くて美しい……ダラスとブレットを焼き殺すシーンの
リプリーはまるで女神のように美しかった。

そして、エイリアンことゼノモーフ……2、3、4…そしてコヴェナントで見たときよりも
恐ろしく そして美しい。他のシリーズで見られるようなゼノモーフの全身を覆う粘液が
ローション丸分かりな下品さではなく、聖水の泉のように湧き出ている……実に美しい。
いまやただの黒い亀頭モチーフのチープなモンスターと化したゼノモーフとは大違いである。

デザイナーのH.R.ギーガ自身が認めているがゼノモーフのモチーフはチンコであり、
その源であるフェイスハガーのモチーフはキンタマとマンコである。
ギーガいわく、日常にある目を背けたくなるものをモチーフにするからこそ
嫌悪感が出るのだとのことだが、まさにその作戦は大成功だ。
だが、その生殖器モチーフのモンスターは1の作り上げた雰囲気のお陰で
次第に神話性を帯び、ギリシア神話のヘルマプロディトスさか……あるいはチベット仏教さながらの
雌雄同体さを生み出し、完全生物としての説得性を決定づけた。

宇宙を漂う鉱山のごとき見た目のノストロモ号。
まさにゴシック的で、教会のような雰囲気を持ちながらも、
使い古された鉱山のような機械性を持つ宇宙船。後に黒い魔物の巣と化すにふさわしい舞台だ。
もはや、お膳立てというお膳立てを済ませてある。
マンコで言うと、ローションはまず完全によく刷り込まれ、
そのまま挿れても何ら出血もしない状態にまでよくほぐし尽くされた状態だ。
ノストロモ号をマンコとするのなら、エイリアンはまさにチンコであり、
エイリアンがノストロモ号を歩き回す姿は、子宮の中を泳ぐ精子である。
だからこそ、我々はゼノモーフに完全生物さを見出すのである。


この完璧と言える世界観を生み出したリドリー・スコット……彼は1を監督して以後、
エイリアンシリーズから離れた。


ここで知った人もいるのかもしれないが、このエイリアンシリーズ…
実は1,2,3,4と監督がまったく異なる。

1はリドリー・スコット、2はジェームズ・キャメロン、3はセブンのデヴィッド・フィンチャー、
4はジャン・ピエール・ジュネ……

それぞれの監督ごとにエイリアンの設定も異なっていたり、新たに追加された設定があったり、
作風が大きく異なっていたり……まさにそれぞれの監督のカラーがくっきりと分かれている。

1は異星人への恐怖を描き、2は異星人との戦争の始まりを描き、3は異星人がもたらす絶望を描き、
4は異星人との悪趣味なぐちゃみそコメディを描き……

まるで春夏秋冬だ。

いや、監督と作風のフランケンシュタインと言うべきか。

バトンリレーのように繋ぎあわされた設定に次ぐ設定……
それこそが魅力だと言う人もいる。だが、ゼノモーフが完全生物たる所以を追求するとすれば、
1以降のエイリアンシリーズにおけるゼノモーフの扱いはもはや原作レイプに近いだろう。
もちろん、私は2,3,4も好きだ。だが、好きであることと
各作品におけるゼノモーフの美しさ、完璧さを語ることは別だ。

2では人間が作り上げた銃ごときで粉々に破裂し、3では溶鉱炉の鉛と水ごときで粉々に粉砕し、
4ではサル顔のロン・パールマンの放ったロケットランチャーごときで木っ端微塵で吹き飛び、
そのゼノモーフの女王たるエイリアン・クイーンは真っ白な垂れ乳の白プレデターモドキに
上顎を吹っ飛ばされて即死という間抜けぶりをさらけ出した。ぱっと出の、
しかも自分が生んだ子供に1発ビンタされたぐらいで死んでなにが完全生物といえようか。

完全生物であったゼノモーフはただのチンコがモチーフの卑猥な亀頭野郎へと落ちぶれた。


理由はただ一つ……舞台という名のマンコが整っていなかったからである。


登場人物はすべてチンコに過ぎない。だとするのならば、
その登場人物が歩き回す舞台はマンコ以外に無い。

完全なる作品というのは、その登場人物という名のチンコと舞台という名のマンコの
完全なる調和から成立するのだ。

1と比べると、2,3,4の舞台はゼノモーフという名のチンコが着床すべきマンコとしては
あまりにもお粗末すぎた。2では人間の住処を荒らす害虫であり、3ではただシラミとノミが飛び回る汚い場所が大好きな蛆虫であり、
4では個性的な人間チームの個性に圧倒されたせいで、B級のパニックもののモンスターへと成り下がるざまだ。
そんな完全生物ゼノモーフの没落を1を作り上げたリドリー・スコットはどう感じていたのか。

自分が生んだ可愛らしい娘が3人の男に肉便器扱いされるような耐え難い苦痛だったのかもしれない。
そんな苦痛がリドリー・スコットを老害へと変えてしまったのだろうか……

あるいは、元よりエイリアン1は完璧すぎるが故に
化石化したスペース・ジョッキーの姿を未来のリドリー・スコットとして予言していたのだろうか。


やはり、完璧な舞台という名のマンコを持つ作品は
未来を見抜く力があったのかもしれない。

……悲しいものだ。