プロローグ

 死に至る五分前、女王はひととおり遺言を言い終えた。
 しかし天蓋付きベッドに横たわるその貴婦人が本気でそれを言ったのだとは、アーセンにはとても思えなかった。人払いをしたこの暗い寝室にいるのは二人だけだ。忠誠に従ってそれを実行するにせよ、イカれていると反故にするにせよ、この遺言をどうにかできるのは世界でも自分一人だけだった。
「ごめんなさい。曖昧な指示しか出来ない私を許して――」
「陛下」アーセンは震えた声で聞いた。「正気ですか?」
 窓の向こうでは戦火が上がっており、遠くで兵士たちの怒号が響いている。運河とワインの街クルセーユは、炎の橙色と煙の灰色で染め上がり、空は暗く赤ずんでいた。この王宮もやがて陥落し、帝国の〈世界政策〉はまた一つ前に進むだろう。
 戦争は全てを変えた。そしてこれからも変わっていくに違いない。
 赤髪の女王が身体を興そうとして酷く咳き込んだので、アーセンは彼女の背中を擦って、そのまま支えてやった。もはやこの部屋も安全ではないが――どうせ女王はこの調子だ。安全かどうかなんて一体どれほど重要だろうか?
「……もう正気なんてどこにもないわ、おちびちゃん」と、若き女王は少年の顎に手をやった。冗談っぽく笑顔を作ってはいるが、声は弱々しくかすれている。「この五百年、私たちが正気だったことなんて一度でもないのよ」
 東ヴァロワ王国、“処女王”マヌエラ。その美貌は大陸全土で知られたが、長い病魔で顔はすっかりやつれきっていた。とはいえこの病気こそが、ある意味では王位の証でもある。女の身でこれに七年も耐えたのは後にも先にも彼女だけだ。処女王という称号は、この妙齢の女性が自分を捨てて国と世界に尽くしてきたことを示していた。
「しかし、もし俺がしくじれば――」
「あんたがしくじれば、全部おしまいよ。国も、文明も、歴史も、全てが」
 どう考えたってバカだ、とアーセンは思った。確かに女王の密命を受けるのは今回が初めてではない。今までにも密書を盗み、偽情報を流し、権力者を影で殺めてきた。今まさに戦っている帝国の前皇帝でさえ、彼がその手にかけたのだ。
 だがこの任務は――そんなのがちっぽけに思えるくらい途方もなかった。たかだか十六歳ぼっちの子供が、全世界を相手に何が出来る? いや、自分は田舎貴族の子息に過ぎない。たまたま女王の密偵として拾ってもらっただけの身であり、信頼できる人物なら他にも居たはずだ。
 マヌエラは少年の不安を見て取ったのか、力のない手で彼の髪をかきむしった。
「ははは……そんな顔しないの。こればっかりはアーセンに頼むって決めてたんだから。貴方なら大丈夫って気がするの。親バカ…………かな?」
「……買いかぶり過ぎと存じます」
「最後なんだから母親面くらいさせてよ。こんな小っちゃい頃から見てるんだから」
 ――あんた、まだ母親って歳でもないだろ。
 少年には最後の命令などどうでも良かった。マヌエラが即位すると知ってからこの瞬間が来ることは分かっていた。準備は出来ていたつもりだったし、その時になって悲しんだりしないとも決めていた。決めていたはずだった……
 アーセンは目を背けた。
 かける言葉なんて見つかるはずもない。いつもみたいに憎まれ口の一つでも叩いても、らしくない優しいことを言っても、どれも最後の言葉には相応しくないように思えた。ならいっそ「最後なんかじゃない」とでも粋がって、今からおぶって城から連れ出してみようか? そんなの気休めにもなりはしない。
「何か言ってよ。声、もうちょっと聞いてたいよ……」
 昔からマヌエラはよく笑う。今だって強がって明るい顔をみせているが、死ぬには辛い日だろう。愛した自分の王国は落ち、身体は〈灰の契約〉によって蝕まれ、やり残した大切な仕事も頼りない配下に残して行くのだから。だが辛いときほどそれを認めようとしないで笑うのは、この人にはありがちなことだった。
「泣いたりは、しませんからね」アーセンは無理にでも顔を緩ませた。「陛下にそう育てられましたので。男の子だろって、いつもうるさいから」
「何よそれ……実は泣きそうなんでしょ?」マヌエラは言った。か細い声だ。
「違います」
「認めなさいよ」
「だとしても、陛下には見せませんから」
 ふふっ――とマヌエラが笑みをこぼしたので、アーセンも一緒にくつくつと笑った。仕事に忙殺された日々の中で、こんなやり取りは久々だ。お互い今日までに色々やり尽くした。だが、マヌエラにはまだやり残した仕事が沢山あるらしかった。
「私……十分よくやったよね。十分」彼女はささやいた。「アーセン、貴方が世界を掌握するのよ。滅びが来る前に、善き心を持った貴方が。人類はもう憎しみを抑えておけない。また〈夜〉がやってくる。もっとも長い〈灰の凍る夜〉が……」
 そうして、東ヴァロワ女王マヌエラはついに目を閉じた。女性の背から力が抜けると、少年が支える手は冷えた重みを感じた。
 しばらくずっとそうしていた。