皇歴一二七年、五月七日、旧東ヴァロワ領、故郷平野――

「前進ッ! フローラ皇女殿下に続けぇーっ!」
 旗手の号令で、総軍は雪崩を打ったように陣地を下り始めた。
 リュカに選択の余地はなく、彼は隊の仲間にひっついて乾いた荒野を走り始めた。後方で戦場太鼓が鳴り始め、二千の兵が「うおぉーっ!」と雄叫びを上げて空気を震わせる。間もなく、千もあろうかという矢が曇った天空を切り裂き、太陽をさえぎって飛来した。
 ――やっぱり死ぬんだ。
 リュカの恐怖が最高潮に達して、丸盾で頭を覆おうとしたところ、
「速度上げ! 一時の方向に切れ!」
“首領”が真ん中で号令し、四十人の矢印型隊列は息を切らしてペースを上げた。
リュカは方向感覚をつかめず夢中でついていくだけだったが――矢の雨はこちらではなくリュカ頭上を通り越し、中央の騎士隊に降り注いだ。軍馬の悲痛な金切り声が聞こえる。
「え? なんで――」
 リュカが上ずった声を漏らすと、老兵ガレスがしたり顔でこちらを見る。
「弓兵は兵が密集したところを狙う。その方が当たりやすい」
 なるほど――とリュカは思った。だからさっきの号令で、この小隊は敵の片翼に流れていくような体勢を取ったんだ。
 横目で見ると、帝国軍も負けてはいなかった。中央の騎兵が前進しながら投槍を放ち、無数の線が荒野の空気でひゅうひゅうと音を立てた。その後も敵の弓兵は矢を走らせたが、フェアリオン小隊は突出気味に先行し、位置を小刻みに変えることで器用に避けていく。
 そして両軍の距離は詰まり、相手の顔が見え始めた。フェアリオン小隊の正面には、敵左翼を陣取る軽装の弓騎兵が群れをなしている。
「接触! 槍構え!」
 こうなったら伸るか反るかだ。
 リュカは槍を敵兵に向け、力いっぱい突進した。
「でやああああ!」
 気持ちだけで突いた槍は、馬が高く竿立ちしたので避けられた。馬上の弓兵は怯えた目つきで弓矢を引き、至近距離でぼくの胸をめがけ――寸前のところでリュカはガレスに突き飛ばされ、矢は地面を突き刺した。
「わぁっ!」
 倒された衝撃で低い耳鳴りがした。
 鎧の重さ。干からびた土の臭い。金属音と悲鳴の鳴り響く空間。感覚が戻ってくると、少年は前後不覚のままよろりと膝をついて、見上げる。
 そして自分を殺そうとした男の首に槍が刺さっているのを見た。
 馬が暴れ、男の亡骸は地面に振り落とされる。ガレスが槍を抜き取ると同時に、その穴から赤い液が噴水のように漏れ始めた。
「間違えればお前がこうなる」と、ガレスが土だらけのリュカを片手で起こす。
 ぼくがこうなる。
 ああ、神様――男の首に開いたどす黒い穴を見て、とっさに口を抑えた。
「けどよく槍を出したな。初めての時、なかには盾を構えて縮こまるような奴もおる。自分を臆病者だと思うな」
「嘘です……こんなんじゃ、やっぱり足手まといです」
「足手まといを守れなきゃ〈不死小隊〉なぞとは呼ばれんよ」
 リュカたちのいる帝国軍右翼部は、恐慌した騎兵を追い回して奥へ奥へと追撃した。ある者は短剣を投げつけ、ある者は敵の落とした弓を拾い上げて矢をお見舞いした。それはほとんど狩りのようなもので、弓騎兵が背を向けて逃げ始めるまで長くはかからなかった。
 だがやがて、自分で自分がどこにいるのかすらもわからないほどに戦況は混沌としていった。二千対二千の戦争だったものは、やがて数多の小競り合いに分かれ、まるで一度に何百もの戦闘が行われているようだった。ついさっきまでは弓騎兵と戦っていたのに、気づかぬうちに槍兵同士の組み合いになっていた。
 リュカは息をのんだ――戦争というものが、ここまで不格好な乱闘になるものだとは思わなかった。事前にやった訓練では隊列の組み方を習ったが、この場ではそんなものは全く意味をなさなかった。入り乱れれば掛け声などはすぐにかき消される。胸当てだけで敵味方の区別するのは困難で、一度崩れた隊列はもとに戻せない。
 先にこちらの刃を敵の肌に届かせる――それが、戦場を支配するたった一つのルールだった。
 少年は必死に隊列の最後尾で走り続ける。時間も忘れて走り続けた。フェアリオン小隊は一歩も退かず、妨害する敵の部隊を死体の山に変えながら前進したが、激戦が終わる気配はなかった。
 中でも、先頭に立った首領アーセンは水の踊り子のように戦った。身体を反転させ、敵の槍はいつも寸前のところで空を突いた。剣には詳しくないけど、領主様は剣の達人みたいだ。短い剣を使いながら、敵の急所に一撃を当てている。
 だが変化が起こったのは、六回目に敵の小集団を蹴散らした時だ。突然アーセンが隊を停止させたのだ。何で今になっていきなり?
 見たところ、部隊に死者はいないみたいだ。怪我をして悪態をついている者人はいたけど、すぐに携帯用の包帯を雑に巻きつけていた。
 隊員たちがアーセンを見る。首領は思慮深そうな目で遠くを見つめていた。リュカは彼の目線を追って見たところ、向こうから、まばらに散開した兵たちがこちらに向かって走ってくるのが見える。
 敵か?――いや、胸当てには双頭の鷹。帝国兵だ。逃げてきているんだ!
 リュカの心臓がばくついた。まずい、早く逃げなきゃ。
「何が合ったかは知らんが、負け戦だ」アーセンがつぶやいた。
 足を引きずりながら逃げてくるような兵たちを見て、初めてリュカはこの戦いが劣勢なのだと気づいた。誰もが必死な形相で、少しでも速く走ろうと武器を投げ捨てる者までいる。
 帝国兵たちに並んで、フェアリオン小隊も退却体勢に入った。だが他の逃走兵たちは元いた隊からはぐれたような者ばかりで、全体はほぼ潰走と言ってもいい有り様だ。敵はそれを見て、獲物を目にした猟犬さながらに目を輝かせていた。そして未だ集団で行動しているこの小隊は、敵からすれば手頃な獲物でしかない。
 だからこそリュカも必死に走った。まだ死にたくなんかない。そうだというのに、すぐにまた小隊は急ブレーキをかけた。今度はなんなんだ!
 ――前方のはるか遠くに騎馬隊の影だ。あれは先程まで戦っていたはずの、弓騎兵だ。
「ちっ、回り込まれた!」前に出ていたアーセンが舌を打った。「奴ら、さっきの騎兵を深追いしすぎたんだ。偽装退却なんて安い罠に引っかかりやがって」
 リュカはどういう意味か分からず老兵ガレスの方を向くと、彼は落胆した表情でリュカの疑問に答えてくれた。
「わしらは最初、右翼にいた。だがぼうずも戦っていた騎兵が逃げるのを見ただろう? あれを友軍と一緒に追いかけて距離を離されたら、ハリネズミにされるのは明らかだった。だから首領殿は、あえて中央の白兵戦に参加したんだ」
「え、じゃあ一緒に両翼にいた味方は……?」
 その質問には、ガレスは首を振った。
「敵軍の数からして、そう厚い包囲はできまい。突破は十分に可能だ」アーセンはショートソードを振って風の音を鳴らした。「この戦でほとんどの部隊は壊滅するだろう。だからここで生き残れば〈不死小隊〉はいっそう高名になる。帰ったあとの報奨金の額が楽しみだな」
 そばにいた兵士たちがうんうんとうなずいた。彼らは言われるまでもなく隊列を整え始め、リュカはガレスに引っ張られるままだった。
 ――みんなはこうまでして手柄なんて欲しいのか?
 フェアリオン小隊はまた方向を変え、これまでにも増して激しい白兵戦に飛び込んだ。何百もの怒号がとどろく中で、無数の盾と槍がぶつかりあう。リュカは味方かも敵かも分からぬ身体の押し合いに揉まれ、その度に怯えながら槍の穂先を向けた。
 ――ぼくはこうまでして生きたいのか?
 よろけかかって、はっとして我に返った。近くで戦っていたガレスの背後に、敵が槍を突き立てようとしていたのが見えたのだ。“逃げろ”――心がそう叫んだ。でも、さっきこの人に助けてもらったばかりだ。いやガレスだけじゃない。みんなに守ってもらった。ここでぼくが何も出来なきゃどうなる? いずれ見捨てられちゃうだけなんだ。
 戦わなきゃ。お互いを守り合うんだ!
 リュカは叫びながら槍を敵の鎧の隙間に突き立て、全体重をかけた一撃が横腹を一突き。
 何秒くらいそうしていただろうか。それとも、一瞬だっただろうか。
「はあ、はあ……」
 人を刺した。何とも言えない罪悪感、嘔吐感――そして快感が入り交じったような衝動を覚えて、鳥肌が止まらない。怖かったことも、悲しかったことも全部その一瞬で忘れた。
 ――いや、ぼくは生き残るんだ。
 その後は隊に合流し、夢中で戦場を駆け抜けた。また無心になって槍を突いた。突然上手くなったというわけではない。ひたすら自分に気づいていない敵を狙ったのだ。今のリュカにとっては、それが生き残るということだった。

 そうして隊が停止した時も、リュカはどこに敵がいるのかを必死に目で追っていた。
 辺りが敵兵ではなく死体だけが転がっていて、戦の喧騒がはるか遠くなったのを見て、やっと安全な場所まで来たのだと分かったのだ。
「ぼうず!」ガレスがリュカの尻を小突いた。「まさか新入りに助けられるとはな。今日は酒を驕ってやらなきゃだ」
「見過ごすわけにはいかなかった。仲間がいなきゃ、生き残れない気がして……」
「正しい判断だ」とアーセンが歩み寄ってきた。「〈不死小隊〉はそういう風に考える者を歓迎する。今日からお前も一員だな」
「閣下……変な感じです。ぼく、ほんとうに槍を握ったのは最近なんです」
「ハッ、閣下?」とガレスが大げさに笑った。「あんた、最後にそう呼ばれたのはいつです?」
「さあ。こんな地位になってまだ二年だし、もしや初めてかもな」
「しゅ、首領殿……」リュカははにかんで、首筋を掻く。
 アーセンはニッと微笑を見せた後に、戦場の方に身体を向けた。向こうの戦いは一層激しさを増しているように見える。
 ――そうだ、味方は包囲されているんだ。一体あの中のどれくらいが生き残れるんだろう?
「帰還の青旗を上げろ。ガレス、お前は隊を連れて軍営地に戻り――百人程度でもいい――救出隊を至急よこすように伝えてくれ。必ず必要になる」
「救出隊?」ガレスは半ば驚いたような声を上げた。「味方は包囲されているんですよ。救出も何もありやしませんぜ」
「必ず必要になる」
「それで……首領殿は?」
「もうひとっ走りだ。よく見ろ、手柄を上げる絶好の機会じゃないか」
「バカのすることだ、首領殿。俺たちは不死なんじゃないのか?」
「……そのつもりだがな」黒髪の青年はニヤリとして、戦場に向かって駆け出していった。
 でも、手柄?――リュカはあっけにとられた。やっぱりこの人は狂人だ。そうまで手柄にしがみついて、一体何をしたいのだろう?
「あれだ。大将旗がまだある」ガレスが遠くを見ながらいった。「帝国のお姫様がまだ向こうにいらっしゃるんだ。いまだに残ってるとはとんだ猪武者だな。だが確かに、あれをどうにかしたら報奨金どころじゃ済まないぞ」
 お金なんていくら稼いでも――とリュカは思った。家に帰って家族を楽にしてあげられるだけだ。口減らしだけのために、ぼくを戦場に送り込んだような家族を。
「ガレスさん。首領は……ぼくたちは、何を目指しているんですか?」
「分からない」ガレスが答えた。「だが首領殿が大手柄を上げて、もし国でも手に入れれば――俺たちは城を守る近衛部隊になる。直接あの人に育てられた、精鋭だ」
 国とか、城とかそういうことはよく分からなかった。
 けど、生き残った。リュカはそれが満足だと思うことにした――と。
 空気を引き裂くような叫び声。戦場ではない、空高くからだ。
 あれは――
「ドラゴンだ!」と、兵士の誰かが口にした。
 雄々しい羽を翻し、竜のシルエットが三つ、遠くの空を舞っていた。ドラゴン一頭は三千にも一万にも匹敵するという。一つ言えることは、その口が炎を吐けば二百も三百もまとめて焼き払えるということだ。
「あいつら、長いクソだったな。さっさと軍営地に戻って助けを呼びに行くぞ!」ガレスが声を張り上げ、急いで隊列が組み直された。