第二話「出立」


「どうか灰の神様、アーセン様を――」
 よく知った少女の声が聞こえる。風がひゅうと頬に吹き付けた。
 長いことこうして目をつぶっていた気がした。なんだか暖かい。空いた窓の光がまぶたに当たっているのが分かる――うん、窓の光? 確か俺たちは故郷平野にいたはずだ。戦場でドラゴンと追いかけっこしたのをうっすらと覚えている。
「ん……」
 目をほんのりと開けると身体が毛布に包まれていた。
 フェアリオンの屋敷の、見慣れた自室だ。ずいぶん長いこと建物を修繕できてないな、とアーセンは思った。木製の天井がところどころ黒ずんでいる。
「……どれくらい眠ってた?」
「え……? アーセン様…………」
 尋ねると、側の椅子に座っていた少女が茶色い目を驚いたように見開かせた。肩のあたりで雑にと切った灰色の髪と、大きな目の幼い顔。黒い長スカートに白いエプロンという、侍女の出で立ちそのものだ。
「アーセン様、起きたんですね! ううっ……もう目を開けないと思いましたっ」
 ごつん、と少女が背中に手を回してきて、肌に燃えるような痛みが走る。こちらの胸に頭を当ててきたので、アーセンはドラゴンの爪に負わされた傷を思い出す羽目になった。見ると、胸には幾重にも包帯が巻かれている。
「あいたたたた……」
「あっ、その、ごめんなさい! すいません……」
 侍女のルキこと、ルクレツィアは申し訳なさそうに椅子に戻って身体をしゅんと小さくした。少女のことは小さい頃からよく知っている。どうせこの娘のことだ――アーセンは思った。きっと無駄に看病に精を出していたのだろう。実際、目にくまが出来ている。
「……本当に無事なんですよね?」
「見ての通り」アーセンは手を広げて見せた。「身体は動くし、言葉も話せる。これで無事じゃないなら何だ? ともかく看病で苦労をかけたな、ルキ」
 ルキは明るい笑顔を見せて立ち上がると、棚からアーセンの普段着を取り出し始めた。
「で、俺は何日眠ってたんだ?」
「屋敷に運び込まれてから、もうかれこれ四日です」
 四日。故郷平野からフェアリオンの里までは、小隊なら三日ほどの距離だ。途中で街に寄って治療したろうし、となると十日ほどは寝ていたことになる。
「そうか、俺は生きてたか。悪くない戦果だ。また楽しみが増えるな……」
 アーセンは起きようとしたが、ルキは突然手を止めて何やら咎めるような視線を送ってきた。
「何か言いたいことが?」
「――アーセン様」少女は陰った声を出した。「今回は一人でドラゴンに向かっていったって聞きました。またそんな危ないことして……みんなすごく心配してたんです。すごく……!」
 愚かしいほどの無茶だとは分かっている。
 そもそも生身の人間一人で、騎竜兵に太刀打ちなど出来はしない。今回のように注意を引きつけて遊ぶのが精一杯だ。とはいえこの手の賭けは今回が初めてではないし、挑む度に生き残ってきた。今更やめるようなことではない。
 ところで、皇女殿下は逃げおおせただろうか? もしそうなら、今回の働きには何らかの褒賞があってしかるべきだが――
「……もう、また手柄のこと考えてるんですね!」
 ギクっと、アーセンは肩を震わせる。
「お偉いさんが危なかったんだぞ。助ければ家の名誉になる」
「名誉なんてどうでもいいんです!」ルキが袖を引っ張ってきた。「アーセン様って、本とかたくさん読んでて頭良いのに、たまに向こう見ずっていうか……」
 向こう見ず、か――アーセンはどういうわけか微笑ましい気分になった。
 昔、マヌエラにも同じように言われ続けたっけ。“命知らずなアーシーに極秘命令です!”彼女はずっと昔にそう言った。まだお互い子供で、彼女の赤毛が鮮やかだった頃だ。“聞いて。お父様に仕返しを思いついたの。枕の中に子ヤギのフンなんてどうかしら?”
「ふむ……俺の親父は村の大食い競争で、パイを食い過ぎて死んだ男だ。俺に向こう見ずなところがあるとしたら、明らかに血筋だろうな。諦めろ」
 アーセンは昔のことを一度に思い出してニヤけたが、ルキは頬を膨らませた。
「もうっ……不謹慎なアーセン様! 知らないです! 服も着せてあげませんし、寝癖も自分で直してくださいね。お食事だって、スープしか出してあげませんから」
 ルキはどたばたと部屋を出ていった。そしてその後で、階段の下でまた声を張り上げ、
「……早く降りてきてくださいねっ!」
 なんやかんやで頑張り屋さんだが、相変わらず侍女としての礼儀作法は下の下だ。侍従長に教育させたほうが良いかもしれない――アーセンはそう思った。フェアリオンにいる間はどうでもいいのだが、もしや、遠くない内にそうでなくなるかも知れないからだ。
 じきに何かが変わって、何かが起こる。
 ここにも居られなくなる。そんな気がした。
「ふわあぁぁ……」と、思いっきり背伸び。肩のあたりがすっかり固まっている。
 廊下の窓からは、風車の回るフェアリオンの里がよく見える。二年前に突然死した父親から受け継いだほんの小さな領地だ。だがその先代領主といえば、事欠かない愚鈍な逸話の他にも、アーセンに立派な農園を残していった。鮮やかな青空の下ですくすく育ち、陽の光でほのかな金色に染まる、広大なぶどう畑だ。
 領民たちはよく働いていた。
 祭り好きな奴らだ、きっと夜は焚き火を囲んで踊り明かすのだろう。
 アーセンは老いるまでこの村でのんびり過ごすのが夢だった。ここで昼は紅茶を傍らにワインの品種でも研究して、夜は村の祭りを遠目で眺める――そういう日々をよく想像する。先のことは知らないが、どうせ適当な他の家から妻でもめとって家の為に尽くすのだろう。受け継いだ財産を維持して、子供にわたしていく。貴族とはそういうものだ。
 だが同時に、最後の日の、あのマヌエラの言葉も耳でちらつく。将来のことを考える時は特によく思い出すのだ。
“アーセン、貴方が世界を掌握するのよ”
 いつだって女王からの密命は具体的だった。誰々を殺せ、誰々に密書を運べ、といったように。しかし最後のこれだけは違ったのだ。
“また〈夜〉がやってくる。もっとも長い〈灰の凍る夜〉が”
 片っ端から書物を当たって調べて見ても、結局答えは得られなかった。東ヴァロワの王たちには、何か特別な使命がある。〈灰の契約〉と呼ばれるものだ。それが何なのかは誰も知らない。どうせ悪魔の類が関係する話だろうが、ただ一つ言えるのは、マヌエラの先祖達は病気と引き換えに、人に言えない何かを得ていたということだ。この王族は、みんな同じ病気を患って早死する。
 全く分からない。分かるはずがない。
 自分の手には余る――アーセンは思った。正直なところ、半分は諦めていた。
 しかしもう半分は――そもそも、俺が功を焦って戦に出るのは何故だろう?
 この世界はマヌエラを奪った。だから世界を破壊して、世界そのものに復讐してやるんだ――戦争に肩入れするのは、ある意味では近道に思えた。咎められずに人を殺せる。そして人が死ぬ度に、世界は確実に少しだけ壊れていく。
 だが――もし高い地位を得られれば? 帝国に肩入れして土地を奪う毎に、自分にも分け前が回ってくる。マヌエラの言った通り、世界を一握りだけ“掌握”できる。
 奇妙なことに、一つの同じことをするだけで二つの矛盾した目標に、同時に一歩だけ近づく。アーセンは考えるだけで頭がこんがらがりそうだった。結局、自分はどっちを望んでいる……?
「はぁ……こりゃドツボ哲学だ。即刻やめるべきだ」
 どうせ簡単には決着はつかない。アーセンはせっせと食堂に向かうことにした。