アーセンこと、アルセーヌ=ファン・レーヴェン子爵は二十一歳。アルセーヌをアーセンと発音するのは地域特有の訛りだ。無論、当の名付けた父親は大陸標準語でアルセーヌと呼びたがったものだし、旧王都クルセ―ユに長くいた頃もそう呼ばれがちだったが、彼自身が拒んだ。なのでもしその名前で呼ばれることがあるとすれば、それは彼を知らぬ者だということになる。
「アーセン様っ」
 階段を降りて食堂に入ると、ルキがご機嫌そうに料理を運んでいる途中だった。長テーブルには何やら様々な料理が並んでいる。ラム肉パイ、七面鳥の丸焼き、堅そうなバゲット……って、スープしか出さないんじゃなかったのか?
「何日も眠ってたんだぞ。胃袋がはち切れるっての」
「身体が弱ってますので、ちゃんと食べなきゃダメです!」
 ぶつぶつと文句を言いつつも、アーセンはありがたく感じた。この三つ下の少女は、屋敷の家事のほとんどを一人でこなしていた。
 外を見るともう夕方だというのに、まだ頭がぼうっと寝起きのままだ。腹を満たせば少しは目も覚めるだろう。焼きたてのパイ生地をフォークで開き、中の肉ごと口に流し込んだ。とろみのついたラム肉の熱い香りが、舌を伝って鼻に抜けていく。しばらくして、木のゴブレットには熟成したワインが注がれた。もちろんフェアリオンの農地で作られた、自家製だ。
 そして全部食べきる頃には、もうすっかり夜になっていた。
「たらふくだ。しっかし豪華だったな……」
「アーセン様が無事に起きられたので、そのお祝いです」豪華な食卓を指して、ルキがにこやかに言った。「それに金庫の中がすごいことになってるって、バートルさんが」
「爺が? うちみたいな弱小貴族がなあ」
 ずっと皇帝の従軍要請に応じてきた結果だと、アーセンは思った。それで今までたんまりと報奨金を貰ってきた。また、度重なる戦役によるワインの値上がりもある。この大陸ではワインは必需品だが、戦場ならば尚更だ。総合すると、アーセンとこの村は戦争の恩恵にあずかりっ放しと言ってもよかった。
「何にせよ、戦とワインの女神様に乾杯だ」
「戦、ですか……」と、ルキが手を身体の前でもじもじさせた。何か言いたいことがある証拠だ。
 他の多くの貴族と違い――アーセンは使用人や部下の振る舞いに頓着しない方だ。本来ならば、侍女が領主に質問することすら無作法にあたる。しかし、この青年貴族はもっと議論好きだった。
「そうだ、戦だ」彼は愉快げに笑みを作って、ルキの話の続きを促す。「戦とは仲良くしなきゃ、今みたいに七面鳥にはありつけん」
「よく分からないんです。どうしてこんなに戦争を続けてるのか」
「興味深い問いだな。奇妙なことに、俺の知っている貴族連中に答えを知っている奴は誰ひとりとしていない。俺だってそうだ」
 新皇帝の〈世界政策〉は東の大地を渡り、やがて大陸をも統一しつつあった。今は西ヴァロワで手こずっているとしても、広大な東ヴァロワ王国の滅亡までにはニ年もかからなかったのだ。その後、王国の貴族たちは西ヴァロワに逃げるか、帝国に帰順するかのどちらかだった。アーセンの父が選んだのは後者だ。
「だが貴族にとっては、理由なんてどうでもいい。俺たちの関心事はいかに家を守るかだ」
 猫が餌をもらえる限り飼い主を選ばないのと同じように。
 戦争が続くなら皇帝は餌に事欠かないだろう。戦費がかかる以上に、領地は軍需で大いに潤う。加えて努力さえすれば、征服した土地の分前が回ってくることもある。
「でも……戦争、早く終わってほしいんです。出兵の度に知ってる人が出ていって、今度は帰ってこないんじゃないかって思うと、すごく怖いです……アーセン様だって、せっかく王都から無事に戻って、フェアリオンで一緒に居られるようになったのに…………」
 ルキはまるで何か言葉を飲み込んだかのように口をつぐんだが、アーセンには大体言いたいことが分かる気がした。二人は幼少期の何年かをよく一緒に過ごした。だが彼がマヌエラ女王の従士として王都に長くいた間は、ずっと離れ離れだったのだ。
「いつだって俺は戻ってきた。みんなも戻ってきた。そうじゃないか……?」
 ルキはしゅんとしてうつむいた。
「クルセーユが火の海になった時も俺は無事だったし、騎竜兵と遊んだ後でも手足はもげていない。どのみちワインの収入だけじゃ冬は越せん。ルキ、俺が戦場に行くのは、お前が家事を頑張るのと同じことなんだよ。みんなで家を守らなきゃ」
「…………はい」
 戦うこと。勝ち取ること。そして守ること。
 それは、千年前から〈灰の神話〉に記されている教えだった。勇者と三人の英雄が異形の王を倒して、平和を勝ち取ったように――力とは相応しさだ。人は守れもしないものを持つことは許されない。今になって疑うような話だろうか……?
 ――と。
 突然、ドアの音。
 背が高く、頭が禿げ上がった男が戸口に立っていた。しっかりとした黒い上下揃いの服装は、むしろ普段着のアーセンよりも礼儀正しく見える。
「おお、灰の神にかけて! アーセン様、本当に起きていらっしゃいましたか……」
「爺か!」
 アーセンは歩み寄って彼と抱擁をかわした。バートルはファン・レーヴェン家に長年仕える執事だ。金庫番を始め、様々な雑務は彼が取り仕切っている。
 もし戦争が無くなれば――アーセンは考えた。大体の仕事は執事のものだし、屋敷の掃除はルキが全部やってしまう。俺のような貴族連中は、犬を連れて領地を散歩するだけの役立たずになるだろう。
「実は突然のことで、なんと申し上げればよいのやら……」
 しかしどういうわけか、いつもなら落ち着いているバートルはいそいそとして目を泳がせていた。
「どうした?」
「それが……帝都オーリエルからの使者を名乗る者が、大広間に。アーセン様は病床に伏せっておられると申し上げたのですが、起きるまで待つと言って聞かず……」
 帝都からの使者? 報奨金を渡すだけなら手紙で事足りるはずだ。
「だが俺は起きている。今すぐここに呼ぶんだ、丁重にもてなさなきゃな」
「ですが、その使者と言うのが――」
 バートルの近くで足音がする。がしゃ、がしゃと重い金属音を鳴らしながら現れたのは、白銀の甲冑を纏った女――いや、少女だった。夜のような長い黒髪を後ろで雑に縛った、緋色の眼の女騎士だ。目元は軍人らしくキッと引き締まっており、ぞっとするような美形だが、とても社交的という風ではなかった。
 というより、これは見た目以前の問題だ。
 女が甲冑を身に着けているということ自体、ある意味で恐怖の象徴だからだ。戦わないはずの女が武器を振るうとすれば、それは彼女が魔剣士の血に生まれたからに相違ない。男が武装していても分からないが、女が帯剣しているだけでそうと教えているようなものだ。なのでバートルが落ち着かないのも、ルキが戸惑ったような顔でこちらを向いたのも、アーセンには納得がいった。
「私はレンブルク家のエリザベート。貴公がアルセーヌ=ファン・レーヴェン卿か……?」
 しかもそれは、帝国西部のほとんどを治める大富豪の家名だった。ただの用事に使者として寄越してくるような家柄ではない。
 とはいえ――この登場の仕方はあまりに不躾に思えた。
「皇帝陛下とクソったれな淑女教育に」アーセンは愉快げに木の杯を掲げて、飲み干した。「ご令嬢よ、ずいぶんとご挨拶だな。こういう時は屋敷の者が当主を紹介するのを待つものだぞ。でなきゃ、今のように人の名前すら満足に発音できずに恥をかく」
 バトラーが慌てて一歩下がり、エリザベートに向き直る。
「こほん……ここにおわすはフェアリオン子爵、ファン・レーヴェン家のアーセン一世である。お控えなされ、レンブルク嬢。貴方様も高名な家柄といえど、この方は爵位を持たれるお方ですぞ……」
 一方でエリザベートと名乗った少女は眉一つ動かさず、口をぶっきらぼうに引き結んでいる。身に着けているのはどれも高価そうに見えた――白き鎧の表面には金の装飾が施されている。長剣の鞘にも、いくつか宝石が散りばめられていた。
 異様な印象に、アーセンは目元を歪めた。
 この少女、単に無礼というよりは、まるで機械時計のように精巧で無機質な雰囲気だ。それにこの肌と髪つや……自分よりも二か三つは年下だろう。
〈恐怖の白〉、ヴァルキリー神聖隊の話を聞いたことがある。皇帝の七つある親衛隊のうち、女魔剣士だけで構成された部隊だ。
「大帝陛下の命により、貴公の帝都までの道中を護衛するように仰せつかった。屋敷の前で馬車を待たせています。さあ、こちらです……」
 女騎士はいそいそと鎧を鳴らし、まるでアーセンが来るのが当然とでもいうように、手で一緒に来るよう促した。
「行くって、今すぐにか?」アーセンは肩をすくめる。
「陛下は先の戦における貴公の武功に喜んでおられます。さあ……」
「そりゃ、あんたを寄越したってことはそうなんだろうがなあ」
 これにはアーセンも面食らわずにはいられなかった。喜んでいいのか、それとも困惑すべきなのか……皇帝が彼女を急がせているのか、単にこの女がせっかちなのか。
 ――だが叙任してその辺の領地を与えるだけだとして、ここまで急ぐものなのか?
「来いというのは分かったけど、何か他に聞いてないのか? 恩賞の内容については? で、そこまで急ぐ理由は?」
「陛下は喜んでおられます」
「あいにく今は手負いなんだ。道中でオークの部族にでも襲われたらどうする?」
「私が命に代えてでもお守り致します。さあ……」
 ルキもバートルも、戸惑ってか目をぱちくりと大きくしている。
 あまりにも急な申し出ではある。だが確かに、行くには行かなければならないだろう。アーセンは疲れでがくりと腰が落ちる気がした。
「はぁ……」彼はわざとらしくため息をつく。「ああ、分かった! だがせめて一日待たれよ、ご令嬢。すぐに貴方の食事とワイン、部屋を用意させる。明朝には発とう」
 エリザベートは鉄仮面のような表情を崩さずも、小さく肩を落とした。
「……私は馬車で寝ます」
「ならあんたの馬車の御者でも連れてくるんだ。代わりにそいつにでも食わせる」
「明日は準備ができ次第、速やかに来られたい」
「そうするさ…………バートル、小隊から一人お付きの者が欲しい。長旅に耐えられるくらいに若くて、できれば文字を読める者が」
「お、仰せの通りに……」
 バートルは納得できぬ、というふうにこちらとエリザベートにちらちら向きながら部屋を出ていった。ルキも何か訴えかけるような目でこちらを見ていた。
 そして実際、彼女は次の日の朝に訴えかけてきた。
「本当に行っちゃうんですか……?」銀髪の小柄な侍女は、涙目で袖を引っ張ってきた。「あんまりです…………やっと戦争からも帰ってきたのに!」
 空は快晴、出立の天気としては幸先が良い。屋敷の庭先では、ルキの世話した花がよく咲き、整然と並んだ木々は青々と茂っている。
 そして馬車の前では、バートルがお付に選んだ不死隊の兵士が旅人らしい革のチュニック姿で待っていた。眉が濃く、鼻のあたりにそばかすが集まっている少年だ。確か名前は――リュカとかいったっけか。おどおどした奴だが間際のところでガレスを助けた。これで字が読めるとすれば、帝都でも大いに使い甲斐があるだろう。
「アーセン様、あんまりですっ……せっかくまた一緒に居れると思ったのに!」
「皇帝に会うだけだろ、すぐに戻るさ」
「わたしのお母さんが帝国の王様は怖い人だって……目が金色で、角が三本生えているって」
「ばかいえ」アーセンは笑いながら、侍女の灰色の髪をくしゃくしゃした。「これでも会ったことはあるんだ。仲良くやってたわけでもないし、まさか向こうが覚えているとは思えんけどな」
「約束してください……必ず戻るって…………」
 ルキに限ったことではない、申し訳ないという思いがアーセンにはあった。彼が領地を離れるのはこれが初めてというわけではないのだ。
 だが、本当に皇帝に会うだけだ。一体どれほどのことだというんだ?
 それよりも、帝都は久しぶりだ。フェアリオンは好きだが所詮は田舎だ。故郷平野も殺風景な荒野で、楽しいのは剣を振っているときだけ。
 だがそれとは違い、帝都は帝都だ。華やかだ。アーセンの胸は、自分でもよく分からないくらいにざわついていた。闘技場、東のワイン、冒険者の集まる酒場――どれも、ずっと昔のことのように懐かしい。きっと自分はそんな気分なんだろう。
「灰の神に誓うよ、俺は必ず戻る」