Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 なんという失態だろうか。
 無関係の人間を巻き込んでしまうとは、蜘蛛女と呼ばれるようになってから初めての事だ。
 この街に長く居すぎて、気が緩んでいたのだろうか。
 覚悟を決めたはずなのに。情けない。
 ただ、気になる事が一つある。私を狙う追跡者とは別にもう一人別の人間が後をつけていた。そんな気がしたのだ。
 …とにかく、今回の件が片付いた時は、すぐに街を出よう。



 また夜になった。
 大学を出て、自転車を漕ぐ。後ろの荷台には大家が座る。
 なんとも青春らしい一幕だ。
 できれば、中瀬さんと二人きりになれたらいいと、やましい妄想をした。だけど状況が状況なので、大家も居た方がやはり安心であるから、中瀬さんと二人きりになるのは諦めることにした。
 中瀬さんは夜遅くなるのはしばらく避ける様にしているが、彼女のバイトが夜まで入っている場合はどうしようもないので俺達が送る事にした。
 
 俺達は中瀬さんのバイト先であるコンビニに到着する。
 中瀬さんが姿を見せた時、彼女は小さく手を振る。その姿はなんとも愛おしい。
「アホ面だ」俺の顔を見て大家は言った。
「うるさい」
 ちょこちょこと歩いてきた中瀬さんは大家を見て頭を下げる。
「初めまして、中瀬です。古畑君の友達ですよね?」
「ああ、大家だ。よろしく」
 すると、中瀬さんは首を傾げる。
「おおやさん。大きな家で、大家さんですか?」
「そうだ。古畑から聞いてなかったんだな」
「ええ。何だか、アパートの管理人みたいですね。部屋を貸してくれそう」
「あ」思わず俺は声を漏らす。
 それは禁句だった。
「ふ、ふん」大家は鼻を鳴らし顔を引き攣らせる。
 中瀬さんの言う通り、彼はその苗字のせいで幼い頃は良くからかわれたらしい。
 そして大学生活になってから、一人暮らしを始めてアパートの大家さんという存在に関わる学生が多くなったためか、最近は、その弄りを受けることが多いらしい。大家は大層ナイーブになっているようだ。
「面白い事を言うじゃないか」顔を引き攣らせながらも、冷静に対応して見せる。大人になったものだ。
「良い部屋紹介してくれよ」
 便乗した俺の言葉は完全に無視された。
 中瀬さんのアパートは繁華街の中心部から少し離れているため、人通りはまばらだった。

 流石は大家と言うべきか、話術も巧みで、この場は中々盛り上がっていた。
「ところで」大家は話を切り出す、「中瀬さんは蜘蛛女なんですか」
 唐突だった。空気が変わる。
 直前の話が何だったのか、一瞬で忘れてしまう。

「その通りだよ」

 俺の問いかけに肯定したのは、中瀬さんではなかった。
 俺達は、声のする方へ振り返る。
 そこに居たのは、昨日の不審者だった。
「その女が蜘蛛女という証拠がある」
 急な展開で、思考が追い付かない。
 中瀬さんも表情が一変、険しくなる。
「証拠?」大家が食い下がる。

「そう、証拠だ。ビルの隙間から、出てくるところを何度も目撃されている」
 また違う方向から声がした。
 最初の不審者と正反対の方向から、来たのは全く知らない男だ。
 まるで俺達を挟み撃ちするようにやってくる。
「まずいな」
 いきなり大家はらしくもない事を言う。
「行こう」大家が動く。
 俺は自転車を置いてから、大家に続いて車道を横断し、突き当りの角を曲がる。
 そこには、また別の男が立っていて、俺達を認識した様子を見せ近づいてくる。
 俺達はまた正反対の方向へ急ぐ。
 まわりの通行人すべてが敵に見える。
 
「俺としたことが、迂闊だった。蜘蛛女が居ない前提ではなく最悪の場合を想定しておくべきだった」
 彼らしくない弱気な発言が続く。更に玉の様な汗をかく大家を見て、ますます状況が深刻に感じられる。
 そして大家は足を止める。正面の人物を指し、「あいつもだ」と言う。すると大家はビルとビルの隙間に入る。
 大家がどのようにして怪しい人物を判別しているのか分からないが、ビルの隙間を往くのは悪手ではないかと思う。
 悪い予感が的中し、隙間の先には別の追手が待ち伏せしていた。すぐに引き返し、左折して別の隙間を往く。
 その先にはビルに囲まれた狭い空間が出来ていた。「今のうちに、警察へ連絡を。山田ビルの裏と言ってくれ」大家が言う。
「分かった」
 連絡を終え、何本かある内、どの隙間道を行くか迷っていた時。
「きゃあ」中瀬さんが叫ぶ。
 彼女は突然現れた男に腕を掴まれている。
「手間をかけさせやがって」そう言った男は昨日の夜に現れた不審者だった。
 俺はすぐに男へ飛びかかり、腕にしがみつく。しかし、難なく弾き飛ばされる。
 そこで男の気が逸れたすきに、中瀬さんは手を振りほどき、男から逃れる。
 男は迷っているのか俺と中瀬さんを交互に見る。そして中瀬さんに視点を固定し、そちらへ重心を移し、足を踏み出す。
「中瀬さん」俺が声をあげる。その時。
 男の背後に大家が立ち、握った角材を男の後頭部めがけて思い切り振るう。
 鈍い音が響き、男はそのままの勢いで前方へ倒れた。
「すまなかった。危険な目に合わせて。だが、教えてくれないか?貴方は、あいつらと関係があるのか?」
「私は、関係ありません」
「じゃああの男たちが言っている、隙間から出てくるところを目撃されているというのは?」
 大家の問いに、中瀬さんは口をつぐむ。
 その様子を見て大家は溜息をつく。
「どう思う?」俺を見る。
「どう思うったって。放ってはおけないよ」
 俺の中にある彼女に対する好意がどうとかでなく。この状況で見捨てることなんてできるはずがない。
「じゃあ、中瀬さんが仮に蜘蛛女だとすれば?」
「それは」
 本当に中瀬さんが蜘蛛女だったとして。本当に多くの人の命を奪ってきた人間だったとすれば。どうするべきなのか。
 彼女を助けることは、正しいのだろうか。
 そんな迷いが生じる。

「仮にじゃないよ。本当に蜘蛛女なんだ」
 大家でも、中瀬さんが居る場所でもない所から声がして、血の気が引く。
 声の方へ目を向けると再び、別の男が現れていた。
「ああ、ひどいことしてくれたね。仕返ししないと」そう言って男は、地に伏している男を見る。「まあ、最初から全員殺す予定だったけど」そして、大きなナイフを取り出す。
 ナイフまで用意してくるとは、いよいよ深刻な事態になってきた。
 中瀬さんは本当に蜘蛛女なんじゃないか。
 彼女が殺し屋なら。人殺しなら。助ける意味があるのか?
 それは勧善懲悪なのか?
「古畑!」
 我に還る。ナイフを持った男が俺に駆け寄る。
 突き出されたナイフを必死に避ける。
 すると、男は体制を立て直し中瀬さんの方へ向かう。

――普通者同士、気が合うみたいだな。

 湖南の言葉が脳内で再生された。何より信頼するべき言葉だ。
 それが答えじゃないか。
 俺は走り出す。
 ナイフを持つ男が中瀬さんの目前に到達したところで、男に追いつき、体当たりを食らわせる。だが、男は寸前に反応し、身を逸らしたため、軽くぶつかりわずかに姿勢を崩した程度だった。
「古畑!」大家が叫ぶ。
 男はナイフを構えなおした。

 まずい。

 男に対抗する手段が全く思いつかない。
 俺は必死に中瀬さんの前に立ち、かばう姿勢を作る。
 ナイフの刃先が直前に迫る。俺は観念して目を瞑る。
 直後に鈍い音がしたが、衝撃も痛みも無い。
 俺は目を開ける。
 視界の先にあったのは、大家の後ろ姿だ。
 すぐに理解する。俺達をかばって大家が刺されたのだ。
 なんでそんなことを。
「古畑、今の内だ。早くしろ」大家は男の腕を掴んでいた。
 俺は、大家の傍に落ちている角材を拾い、男の頭めがけて思い切り振るう。男はぐっ、と唸り倒れる。
 中瀬さんは、そんな、と呟き、口を押える。
「大家、大丈夫か」
「大丈夫では、ない」
 大家はその場にうずくまる。彼のシャツが血に染まっていく。
「手でナイフと奴の腕を止めたから、そんなに深くはないが。やはり大丈夫ではないな」
 彼は冷静に言うが、息が切れている。このままではまずい。
「中瀬さん、抑えててもらえないか」
「はい」
 中瀬さんが大家の腹部を抑えるのを見て、俺はスマホを手に取る。

「やれやれ」
 119番へ電話をつなぐ前に、また、知らない声がして目を向ける。
「全く、2人ものしてしまうとはね」
「嘘だろ」思わず声が出る。
 これ以上、抵抗のしようがない。
 現れたのはいままでと雰囲気の違う男だった。雰囲気の違いを瞬時に感じさせたのは、着こなしているスーツの質感か、妙に整った髪型のせいか、品を感じさせる姿勢か。彼の外見全てなのだろうか。
 続いて、2人の男がそれぞれ別の隙間道から現れ、逃げ道をふさぐ様に立つ。
 まさに万事休すだ。
「そこの蜘蛛女さんがやったのかな?」
「違う。中瀬さんは蜘蛛女ではない」
「じゃあ、この証拠はどう説明するのかな?」
 写真が数枚。全て、ビルの隙間から出てくる中瀬さんの姿を映した物だ。
 だが、今更そんな物を見せられたところで、動揺することはない。

「僕が最後のターゲットなんだろう?何が恨みを買ってウチの会社が狙われたのか、自覚はあるけど。よくもまあ、散々ウチの社員を始末してくれたね」
 彼の話から察するに、この男は会社の経営者で、蜘蛛女に狙われているらしい。そして実際に蜘蛛女の手によって、何人か殺められているようだ。

「知らない。私は貴方のことも、蜘蛛女だって知らない」初めて中瀬さんが声を上げる。
「大丈夫ですよ、中瀬さん。誰が何と言おうと、どんな物を見せて、惑わせてこようと、中瀬さんを信じます」
「呑気な事を言ってる場合かな?君の本性を見せないと、みんな死んじゃうでしょ」経営者の男はにらみを利かせる。「まあどのみち負けないけどね」
 取り巻きの男は俺に近づき、手に持ったスマホを奪い取る。
 そして、そのままビルの壁に叩きつけた。更に追い打ちをかけるように落ちている角材で砕き始める。
 俺達もスマホみたいにされるのか、それとも、ナイフで刺殺されるのだろうか。
 この場を切り抜ける手段が思い浮かばず、死が迫るのを感じる。しかし、あまりにも状況が現実離れしていてはっきりとした恐怖はなく。妙な胸騒ぎが残る。

 経営者の男が手を叩く。
「もういいだろう、仕事を済ませよう。まずは、く」
 そこまで言った所で、言葉が止まる。それとほぼ同時に経営者の男がビルの隙間へ吸い込まれていくのを見た。
 取り巻きの2人は経営者の居た場所へ咄嗟に駆けよる。そして、1人が隙間の先を見て、うわっ、と声を漏らす。そして、その男が隙間の中へ駆け込んだ後、無残な叫び声が響いた。
 残りの男は狼狽し、俺達を一瞥するがすぐに向き直り2人の消えた道とは別の隙間道へ駆け込んでいく。
 しかし間もなくして、その男の叫び声も響いた。
 何が起きたのか、俺と中瀬さんは目を見合わせる。
「そうだ」呆気にとられている場合ではない。「中瀬さん、救急車を呼んでくれないか?」
 はい、と言って中瀬さんはスマホを取り出した。
「立てるか?」大家に尋ねると、「ああ」と小さな声で返事を受ける。
 俺は、大家と肩を組み、彼の身体を支える様にして立ち上がる。そして、誰も入らなかった隙間道を選んで進む。
 未だに状況が判断できないが、取り敢えず助かったようだ。
 道の途中に封筒が落ちていて、中瀬さんがそれを拾う。
「…これ、本物かな?」
―――巻き込んで済まない。種々のお詫びだ。本物の蜘蛛女より
 封筒の表にはこう書かれていた。中瀬さんが、封筒内を覗く。中には十数枚の一万円札が入っていた。
 俺と中瀬さんは憑き物が落ちたように、小さく笑った。大家も「まさか、本当にいるとはな」と呟いた。


 
 大家のお見舞いのため、同市街地にある国立病院を訪れると、面会やテレビ鑑賞など多目的に使用されるデイルームへ案内された。広い部屋で俺達以外にもたくさんの見舞客や患者が居た。
「突然来る事もないじゃないか」大家は太々しく言った。
「スマホを粉々にされたからな、データも粉々だ。連絡できなかったんだよ」
 仮に連絡をしておけばどうなったのだろう。見慣れぬ寝癖を整えたり、変に伸びた髭を剃ったりしたのだろうか?何にしても気の抜けた大家の姿は貴重なので、連絡せずに訪れたのは正解だったかもしれない。
「バックアップを取っていなかったのか」
「俺、そういうの苦手なんだよ。それに金欠だから、スマホも新調できていない」
「じゃあ、どうやって中瀬さんと集合したんだ?」
「中瀬さんとは、まあなんだろう。最近は欠かさず会ってるんだよ」
 俺が言うと、中瀬さんは小さく頷く。
「はっ。俺が腹を痛めている間に、君たちは呑気に仲睦まじくしているわけか。で、巧くいってるみたいだな」
「…おかげさまで」俺が答える。
 中瀬さんは恥ずかしそうに顔を伏せる。
「ところで、中瀬さん。貴方は、ビルの隙間で何をしていたんだい?」
 大家が問うと、中瀬さんは鞄から、一枚の写真を取り出した。
「あまり人に話さないんですが、これが原因でみなさんを巻き込んでしまったので、ちゃんとお話しします」中瀬さんは、顔を引き締めて話し始める。
「実は私、写真撮影を趣味にしているんです。最近、ビルの隙間から空を映すのにハマっていて。こういう構図の写真、見た事ありません?」
 大家は差し出された写真を手に取り、目を細める。
「あるね。よくある」
「いろいろなコンクールにも参加していて、今回はこんな感じの写真で応募してみようと思っているんです」
「なるほど。この街に丁度、蜘蛛女がいて。蜘蛛女と似た行動を取っていた中瀬さんが、あいつらに目をつけられたわけね」
「恐らく、そういう事だと思います。申し訳ありません」
 俺も、そうだと思う。
「ところで、賞を取ったことはあるのかな」
「まだ、です。でも必ず賞を戴いて、いつかは写真家の肩書を持つのが夢なんです」
「そうか。素敵じゃないか」
 大家は、夢を追いかける人が好きだった。
 
「古畑君も、夢があるんですよ。救急救命士」
「知ってるよ」
「そうだったんですね。昨日も近くの喫茶店で夢を語りあったりしたんですよ」
「一昨日はバスに乗って街の高台に上ってさ、写真を撮ったんだよ」
「明日は、隣町まで遠征に行きたいんだけど、どうかな」
「ああ、いいと思う」俺が答えた後、話が逸れている事に気づき、大家を見る。
 すると大家は「はっ」と言い。「聞くに堪えない、普通の会話だ。まあ普通者同士、お似合いじゃないか」と続けた。
「湖南と同じこと言うなよ」俺が言うと、大家は笑った。
「ところで」大家が切り出す。
「俺が腹を刺されて、何か感じたことはないのか?」
 大家の平気な様子を見て、忘れていた。
「すまない。俺をかばってくれて本当にありがとう」それに続いて中瀬さんも、お礼を言った。
「いや、それはいいんだが。何か思い出すことはなかったか?ほら、古畑がずっと忘れている事」
「またその話か」
「またその話だ。いつまでも忘れていては駄目だ。そろそろ向き合わないといけない。だからハッキリ言うぞ、俺は古畑に命を救われている」
 なんだそれは。それが、ずっと言い続けている、借りだというのか。
「入学当初、古畑は身を挺して守ったんだ。ナイフを刺し向けてくる人間から俺をかばう様に。そして腹を刺された。そうだろう」
 ああ。そうだ。
 そうかもしれない。
 途端に、腹部に痛みを感じた気がする。
 頭の芯が痛い。全身がこわばるような感覚も生まれる。
 これ以上は無理だとそう思い、「すまない。ここまでにしてくれ」俺は話を切り上げた。
「今日は帰るよ」そう続けると、大家は溜息で返事をする。
 中瀬さんも不安げな顔で俺を見る。
 病院を出ると、中瀬さんが俺の手を握った。
 何も言わずに握りしめるので、俺も優しく握り返す。すると中瀬さんの表情が緩み、俺も自然と全身の緊張が落ちる。
「冬茜だ」中瀬さんが呟く。
「ふゆあかね?」
「冬の夕焼け空だよ。短時間で、強く紅く燃えきるんだよ。バーッとね。綺麗でしょ?」
「綺麗だ」本当に綺麗だった。
 茜色の空を見て、そう思った。
 中瀬さんの顔を見ると白い肌が夕焼け色に染まっていた。
 今はこれで良い。いや、今のままが良い。
 そう思った。

       

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Neetsha