古畑が湖南の眼力を受け入れるようになったのは、彼女があらゆる物の裏も表も見通してしまう事実をこの眼で見たからだ。彼女の二つの目を通して覗いてしまえば、たちまち天地万物、平面となるのだ。
そして、湖南を構成するもう一つの大きな要素。それは変人であることだ。
古畑がそんな彼女を受け入れることができたのは、眼力のおかげではない。
変人の中に潜めた、無垢な人間性をこの眼で見たからである。
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古畑は肩をすくめた。
颯爽と歩く大家が突如立ち止まる様子を見て、不吉な予感に襲われたからだ。
何にも縛られない彼が足を止めるという事は、相当な何かがある。
俺のような凡人からすると、大変な面倒事が待ち受けているという事だ。
「犬飼じゃないか」
大家に犬飼と呼ばれた男は、歩行者信号の真下、電柱に寄りかかっている。
「ああ。大家、か」
犬飼は含みのある言い方で答える。
古畑は彼が只者でないとすぐに理解した。それは異質な雰囲気、オーラだとかそんな超常的な物ではない。
犬飼の身なりは、不健康そうな痩身と、大家とさほど変わらない、170㎝ほどの背丈。そして、目の周囲に巻きつけられ、目隠しとなっている鉢巻だ。
その白い鉢巻には、「心眼」と筆書きされている。
この容貌を見て、只者ではないと感じた事は間違っていないはずだ。古畑は自分に言い聞かせる。
「お前も挨拶をするんだな」大家が言う。
古畑は犬飼の前まで歩み寄り、「古畑です」と会釈する。
すると犬飼は一瞬首を傾げた後、直ぐに微笑み「よろしく」と言った。
「相変わらず、調子は良さそうだな」
古畑が次の言葉を出す前に、大家が話始める。
「ああ」
「今日は、買い物か?」
「そうだ。そっちは?」
「ちょうど、湖南の家へ向かう途中だったんだ」
「そうか」
二人は、いま一つ盛り上がりに欠ける様子で、大家は古畑の方を見る。
「そうそう。犬飼は、湖南の弟子の一人だ」
「弟子。なのか」
古畑は呟き、改めて心眼と書かれた目隠しを見る。
噂で聞いていた、湖南の弟子。本当に存在するとは。
そういえば、と古畑は思い出す。湖南の周りにはもう一人変わった目を持つ者がいるという事を。
湖南と似た目。いわゆる眼力。彼がそれを持つ可能性はある。
だが、それをどう確かめるのか。
やはり直接聞いてみるのが一番だろう。しかし。
そもそも、俺は湖南の能力を否定している立場だから尋ねにくい。
何より、それが間違いだった場合の気まずさはどうだろう。想像するだけでおぞましい。
とりあえず、この場で訊ねるのは難しい、古畑がそう判断した時、一人の男が傍を駆け抜けていく。
大家は鬱陶しそうに目で追った。
「古畑君。君は走るのが得意だろう」
「え?」
「今の人を追いかけてくれ。早く」
古畑は状況が飲み込めないまま、大家に背中を押され、走り始める。
それと同時に「誰か」と叫び声が響く。
古畑がその声に振り返る前、「ひったくりだ。そのまま走れ」と大家が叫んだ。
急な展開である。
古畑は無我夢中で追いかけ、あっという間に追いつく。そして男にありったけに体重を乗せた体当たりをして、引ったくり犯共々自転車の密集する駐輪場へ倒れ込む。
「強盗です。手を貸して」
古畑が叫ぶとたまたま居合わせた通行人は積極的に加勢に入る。
遅れて、大家がやってきた。
ひったくり犯は必死にもがいてみせるが勇敢な通行人達には成すすべなく、脱力した様子を見せる。
「お手柄じゃないか。この短期間で再び事件を解決するなんて」
大家が言う。
確かに。妙な偶然だと古畑は思った。
いつの間にか、人が集まっていて現場をスマホで撮影している者もいる。
そしてひったくり犯は駆け付けた警官に抑えられ御用となった。
一件落着し、交差点へ戻った時、犬飼の姿は無かった。
大家の携帯電話が鳴る。
「犬飼だ」そういって大家は応答する。「杖を忘れた?忘れっぽいのも相変わらずだな」
そんな言葉が漏れる。杖とは何だ?杖で、魔法でも使うのか?
奇抜な風貌に反して、紳士然とした立ち振る舞い。そして、ひったくり犯を誰より早く見ぬいた事。やはり、湖南と同じ眼力とかいうのを持っているのだろうか。
勿論、眼力など信じていないのだが。古畑は悩み続ける。
古畑にとって、とにかく犬飼の第一印象は大変強烈であった。
やはり、彼も湖南や大家と同じ変人の類なのだろう。
普通の人間と出会いたい。古畑の中でそんな願望が生まれた。
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