Neetel Inside ニートノベル
表紙

短編
前編

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 摂氏9℃の気体が僕の眸から脳髄までを一気に冷やす。横断歩道の向こうで青い光がちかちか点滅して、何人かが走って渡ろうとしていたが、僕はもはや気力がわかずその他大勢とともに信号が変わるのを待った。
 クリスマス一週間前だけあって、百貨店のバイトはてんやわんやだった。僕はもちろんクリスマス両日シフトが入っている。結局サンタクロースのプレゼントは、2日間16時間の労働と引き換えに得られる1万7000円だということになる。素晴らしいじゃないか、クリスマスという幸福なイベントで、みんなに奉仕できるのだから。
 ‎「クソが」隣にいる体格の良いサラリーマンが誰かに悪態をついた。足でも踏まれたのか。信号がまた青になる。僕は人に流され、横断歩道を渡る……。
 やはり、虚しい気持ちに襲われる。街中に一瞬感じるイタリアンらしき焼いたハーブの匂いだったり、ジュエリーを覗く女性と男性だったり、白いコートの女子高生だったり、連れ立って歩く大学生だったり、電光掲示板だったり、都会には幸せを感じさせるものが富豪のワインのように溢れている。
 ‎しかし、僕はそれを享受する資格がない。方法を知らない。世間が提唱するクリスマスは、一人の人間が楽しむようにできていない。
 ‎僕に残された享楽といえば、第三者目線で街を眺めることだけだった。
 ここ数週間、とある雑居ビルの屋上に足繁く通うようになっていた。ここは都会全体がよく見渡せる。夜の歩行者天国、居酒屋、ブティック、AVレンタル屋、全てが。僕は予備のスマートフォンを鞄から取り出して、スタンドにはめ、鉄柵にセットした。電池は満タンだ。カメラアプリを起動して位置を微調整する。鉄柵にはこっそり、マジックで最適な位置を表す印がそれとなくつけてあった。画面に街の明かりが映し出され、ゆらゆらと蛍光灯の軌跡を描く。
 僕はタイムラプス動画を撮ることに熱中していた。スマホのカメラを一晩中起動しっぱなしにしてムービーを撮り、早回しで再生すると、映画のような美しい街の移り変わりが撮れるのだ。そして夜明けとともに明かりは一つ二つと消えてゆき、朝がやってくる。僕は朝10時にカメラを回収して、大学かバイト先に向かう。
 この遊びをするようになって、僕は街が生き物のように毎晩変化していることに気がついた。イベントがある日には人だかりができ、雨の日にはビニール傘が溢れ、浮浪者か会社員が吐いたり、女性がこけたり、毎日違った人の違った人生が交差する。これはまさに神の視点だ。第3者視点、全てを把握する者。普段ミクロに生活し小さく生きている僕だが……実は君たちのことは全部お見通しなのだ、という気分にさせてくれる。
 僕は家に帰ると、早速前日に取れたタイムラプス動画を動画制作ソフトで早回し処理をして眺めながら夕食のカップラーメンを啜った。
 「あれ?」
 画面の奥の方の街角に佇んでいる、黒い服を着た人物が目にとまった。もう数分そこに経っている。数分というのは動画の尺の話で、実際は30分以上経過しているだろう。待ちぼうけを食らっているのだろうか。少し微笑ましく感じながら、僕はその人を眺めていた。
 やがて動画を再生して20分が経った。僕はリズムゲームを6曲終えたところでまたタイムラプス動画を見た。街は深夜4時、通行人はほとんどいない。街灯と一部のビルだけが街の谷を照らしている。僕はなんとなく画面の奥に目をやった。あの人は待ち合わせしている人に会えたのだろうか。それとも、諦めて帰ってしまったのだろうか。
 いや、待っていた。
 20分前と変わらず、そこに立っていた。
 僕は一瞬背筋に冷たいものを感じたが、やがて冷静になった。街角の横にケンタッキーがあるのを見つけたのだ。おそらく、あのオジさんを店員が出しっぱなしにしていたのだろう。盗まれなくてよかったなと僕は苦笑いする。ちょうど影になった場所に置いてあったから見間違えてしまったのだ。空の向こう側が淡く金色の光をはらんだ。いつ見ても朝焼けは美しい。何回見ても飽きない。いつの間にかその人形も消えていた。




 「西府さん、おはようございます!」
 午前9時、声に気づいて振り返ると、隣の部屋の村上さんがゴミ袋を持って降りてくるところだった。彼女はショートカットの茶髪で、ゆるいTシャツを着ていた。
 「今日もバイト?」
 「ええ、まあ」
 「大学が休みに入ったらバイトかあ。忙しそうだね」
 村上さんはいつも微笑んでいるように見える顔をしている。だから何気ない会話を数分交わしただけであっても、嬉しいことがあったような気分にさせられる。
 「村上さんは、予定とかあるんですか」
 「私は午後から仕事なんだ。じゃ、頑張ってね!」
 村上さんはさすがに寒いのか、僕に手を振ったあとそそくさと部屋に戻っていった。
 朝、たまに彼女と顔を合わせることがあった。そんな日は一日中いい気分でいられた。僕の人付き合いはかなり限定されていて、普段遊ぶ友達はもちろん、気軽に話せる知り合いさえいなかった。それはいろいろな要因が重なって友達がいないという結果になったのだが、やはり一番の大きな理由は僕の消極的で面倒くさがりな性格にあった。深く付き合うのは疲れる。かといって、今みたいにバイト以外で人と話さない生活も悲しいものだった。
 村上さん、彼氏いるのかなあ。クリスマス、予定空いてるかな……。さっき予定を聞いてみればよかったと僕は激しく後悔した。しかし、すぐに思い直す。僕はこういう点については現実主義者《リアリスト》だ。村上さんは可愛い。よって彼氏がいる。僕に予定を聞かれたら村上さんはいつものように微笑んだ顔で少し困った表情をして、こう言うだろう。「あ……ごめん。実は、先約があって」スムーズに想像できてしまった。僕は少し憂鬱な気分になって、駅に向かった。



 百貨店に行く前に、雑居ビルの屋上にあるスマートフォンを回収した。バイトの休み時間に充電器とスマートフォンを充電する必要があるからだ。
 チョコレートを売るだけの簡単な仕事だった。僕はレジ打ちは遅いし、釣りもたまに間違えるのでそろそろクビにならないかと危惧しているのだが、人手不足なので当分は大丈夫そうだった。僕が接客業で学んだことは、ある程度適当に仕事をやったほうが気が楽だということだ。
 休み時間に入り、何気なく撮影したタイムラプスを再生してみた。早回ししていないので恐ろしく長い。12時間分のデータは重すぎるため、家に帰ったらすぐに縮小して時間を短くする必要がある。
 いつもと変わらないけれど、変わってゆく風景。僕は適当に画面下部に位置するバーを動かして眺めを楽しんだ。
 そのとき、僕の視線がある一点に吸い寄せられた。
 またあの人形がいた。
 それも、もう一つ前の、こちら側に近いブロックの街角に立っている。
 昨日の店の前ではなく、今度は蕎麦屋の前にいる。人形ではなく、人だったのか?では本当に待ち合わせをしていたのだろうか。指先を動画の終わりの方に動かしてみる。その人影は微動だにせずそこにいる。背中がひやりとする。汗をかいていたのだ。暖房が行き渡らない、寒いくらいの更衣室にも関わらず僕の背中はシャツのしわが歪むほどの汗で濡れていた。何分も、そいつはそこに立っている。気がつくと、人影は消えていた。動画の中に夜明けが来ていた。
 ……何かのバグだろうか?
 そうか、そうに違いない。屋外に電子機器を放置していたら不具合が出るのも致し方ないだろう。たまたま動画を長時間撮ると黒点が出る不具合が表れたのだ。
 休み時間が終わろうとしていた。僕はのろのろと立ち上がった。まだ後半のシフトが残っている。僕の頭の中に、一つの可能性が浮かんだ。それはあまりにも馬鹿馬鹿しく、現実離れしていた。だけど、その考えはインクのように広がって、あっという間に僕の思考を支配した。
 あの影が、こちらに近づいてきているとしたら……。
 ありえなかった。僕は振り切るように頭を振ってエプロンをつけなおした。









 次の日の夜、僕はまたスマートフォンを回収し、映像を早回しして見ていた。

 






 いる。
 あいつがいる。
 昨日よりもう一つ手前の薬局の前にそいつは立っていた。建物の影に黒く潰れているが、しかし、はっきり人の形をしているとわかる。何分も、そこにいる。そして夜明けがくると消えている。
 気味が悪かった。
 さらに僕はおかしなことに気づいた。通行人はこいつに一切注意を向けないのだ。こいつを振り返る人さえいない。まるでそこに存在しないかのように。
 幽霊。その言葉を思い浮かべた瞬間、僕の心臓はひときわ大きく脈打った。そんなはずはない。
 僕は以前ネットで見た心霊動画を思い出す。廃墟、病院、使われていないトンネル、そこにいるはずのない者が白い顔や手を現す。誰でもあんなものは作り物だとわかっている。レンズに張り付いたホコリだったり、人の顔を合成しただけの単純なものだ。ただ、同時に皆「たまに”本物”が混じることがある」ということも知っている。それは、見ればわかる。全身が総毛立ち、危険を感じたら、『当たり』だ。霊感などは関係ない。本能的な危険察知能力が働くのだ。
 僕は恐る恐る動画を逆再生してみる。動画終了直後である朝8時の喧騒が裏返り、ぷつぷつと途切れながら巻き戻ってゆく。朝焼けが沈み、あいつが現れる。ちょうど強い影になるところに立っているので、出る瞬間を見極めることはできない。あいつは一ミリも動かず、張り付いたように同じ位置に立ち続けている。やがて深夜から人が増え始め、飲食店に出入りする人々が後ろ歩きで交差する。救急車、誰かの笑い声が奇妙に裏返っている。僕が設置した夜の9時に猛スピードで映像が巻き戻ってゆく。影はずっと動かない。
 画面が揺れる。僕がスマートフォンをセットしようと位置を微調整している。鉄策にピントが合う。次に、その下にあるゴミ捨て場をカメラが写す。僕がアプリを起動したばかりの瞬間だ。
 僕は確信した。あいつは僕がカメラを置いた瞬間から、いる。まるで僕を待っていたかのように。ノイズがひどい。マイクの不調だろうか。喧騒に大きなノイズが被さる。いや、おかしい。今までこんなことはなかった。







「き」

ブツン。
 割れた音声はそこで途切れた。
 マウスを持つ手が震えていた。
 「き」
 そう言った。
 数ミリ秒だけだ。でも僕ははっきりと聞いた。女の声が、何かを言いかけるように途切れていた。心臓が早鐘のように鳴っていた。なんて言った。なんて言おうとしたんだ。
 《《きた》》。
 僕が来た、と。
 僕が……僕がもし、明日また屋上にスマートフォンをセットしに行ったら……。
 今日は雑居ビルに行かなかった。雪が降っていたのだ。
  僕は衝動的に撮った動画を消した。過去のものも消した。全て消去し終わると、パソコンを圧迫していた容量は劇的に減り、僕と幽霊のつながりも綺麗さっぱり切れたように思えた。これでいい。以前見かけたネットの書き込みによれば、こういうのは深入りせずさっさと消してしまえば助かると書いてあった。そう、だから僕は何も関係がなくなった。助かった。
 気配を感じて僕は後ろを振り返った。そこには狭い台所のシンクと玄関があるだけで、誰もいなかった。



 信じられないことはたまにやってくるものだ。ありそうにないこと、起きるはずのないこと。それらは不意をついて、気の抜けた瞬間を狙って訪れる。
 「西府さん」
 僕は顔を上げて、うわっと叫んでしまった。そこには村上さんがいた。仕事帰りなのだろうか、白いトレンチコートを着ている。午後7時40分、シフトの終わり際で、客がまばらになる時間帯だった。僕は向かいの壁にかかっている時計を見ながら、くだらない妄想をしていた。
 「やっぱり。間違ってたらどうしようって思ったんだけど」
 「あ、はい、西府です、むっ村上さんどうしてここに」
 村上さんは僕の狼狽ぶりを感じたのかおかしそうに笑う。
 「私だって驚いたんだよ。西府くんがここでバイトしてるなんて知らないから。でも見たことある顔だなって」
 僕の顔を覚えててくれたのか。
 「で、クリスマスに、お友達に渡すプレゼントを買いに来たんだ。おすすめある?」
 笑みが引き攣った。
 よくよく考えればこの時期に百貨店のチョコレート屋に来る目的なんか一つに決まっている。誰にあげるのか、僕は嫉妬で狂いそうになった。お友達、の意味することを考えた。いずれにせよ自分は駄目だったという紛れもない事実が重くのしかかる……。
 僕はがっくり来たのを悟られまいと平静を装いつつ、カタログをレジ横から引き抜いて村上さんの前に広げた。
 「その……贈る方の好みにもよると思いますけど」
 「んー、お店の人に選んでもらったほうが安心かなって」
 僕の密やかな詮索を知ってか知らずか、村上さんはさらりとかわした。顔が熱くなる。
 「じゃ、じゃあこのセットとか種類多くていいと思いますよ。イチゴとか抹茶とか」
 「そっか、それにしようかな」
 僕はカードを受け取りレジの後ろに引っ込んだ。最悪の日だ。もう彼女を見たくないと思った。
 「頑張ってね」去っていく彼女の後ろ姿を見て、僕はまだ始まっていないのに終わりを感じていた。




 僕はあの雑居ビルの屋上に来ていた。刺すように冷たい風がマフラーの隙間を突き抜ける。チョコレートの箱を持った村上さんの笑ったような顔を思い出してまた苦々しい気持ちになる。彼女もまた、大多数と同じ、浮かれる権利を持った人なのだ。
 動画を撮る気はなかった。ただ頭を冷やしたかったのだ。
 都会は金色のイルミネーションをまとい、道行く人々は見とれて写真を撮る。無節操なLEDが駅の向こう側まで続いている。綺麗だ、と僕はふと呟き、人並な感想を持ってしまったことを少し恥ずかしく感じた。
 僕はやっぱり写真を撮ろうと思った。それほどここのロケーションは最適だったのだ。ここを都会の人間は誰も知らない。何度かスクリーンのボタンをタッチしてピントを合わせようとするが、なかなかぼやけたままでピントが合わなかった。
 そのとき、僕は腹の内部がぞわっと浮くような感覚がした。
 あの影がいるかもしれない。
 手が震え始める。寒さでかじかんでいるのか、取り乱しているのか、僕にはわからなかった。
 僕は画面に映る風景に目を走らせた。探すな、探すなと頭の奥で真っ赤な警告のサイレンが鳴っている。だけど意思とは関係なく、僕の目は画面から離れなかった。歩く人、滲むイルミネーション、ビル、看板、下着屋、喫茶店の間を縫うように僕の瞳は忙しなく行き来する。どこだ。あいつはどこにいる。
 今度はどこだ。
 どこなんだよ!
 だけど、見つからなかった。
 急に馬鹿らしくなって僕は力を抜いた。子供みたいだ。いつまであんなものを気にしているんだ。僕はまたカメラをかざした。
 「あっ」
 携帯がひとりでに震えだした時にはもう、僕は携帯を取り落としていた。









 ……なんだ、ビックリさせるなよ。それは登録された番号からの電話だった。大学から、未提出課題の最終通告だろうとわかっていた。正直出たくなかったが、必修の授業であったため電話を取った。「もしもし」
 「今、どこですか?」
 「バイト先からの帰りです。レポートなら明後日出しに行きますから……」
 「いま来ないと困ります」
 「はあ?できるわけないじゃないですか。わかりました、大学のポストに入れときますから、明日の朝」
 「期限は今日のはずです」
 「ああもう、でも閉まってるでしょ!行きますよ、今から!」
 僕は乱暴に電話を切った。全く、助手という人種は永遠に研究室で働き続けるつもりだろうか。僕は屋上のドアを開け、階段を急いで降りようとした。踊り場の蛍光灯が切れかけているのか、ちかちかと点滅している。
 がたん。
 何かがトタンにぶつかる音がした。
 咄嗟に階段の上を振り返る。だが、誰もいない。
 ここは2Fに小学生向け学習塾、4Fに事務所、1Fに自転車屋が入り、あとは空きテナントとなっている。8時には全ての店が営業を終了する決まりだ。今は午後10時。このビルに僕以外の人間は存在しない。
 心なしか、辺りが冷え込んだような気がした。早く行こう、そう思っても、思考とは裏腹に脚が動かない。ビルから出るためには、3Fのドアの前を通らなければならない。ドアには正方形の磨りガラスがはめ込まれているのを、思い出した。
 誰もいないんだ。
 蛍光灯の不規則なスパークと、僕の動悸が、シンクロする。一段、足を踏み出して、降りた。続けて、もう一段。そしてもう一段。もう一段。一段。一段飛ばして。二段飛ばす。坂道を転がり落ちるように僕は階段を走り飛ばした。空きテナントのドアが目の前に迫っていた。見るな、そのまま曲がるんだ!
だけど、僕は横目で……ドアの磨りガラスを覗き見てしまった。
 心臓音が耳元にまで迫ってくる。そこには、


 ……真っ暗で何も見えなかった。


 僕はビルの階段を走り降りながら、誰もいなかった、と知った。
 この間から僕は小学生のように理由もない恐怖に怯えている。きっと寒さのせいだ。雑居ビルを後にして、僕は雑踏の中大学へ向かった。




 休日……。23日の朝。いつもなら嬉しいはずなのに、いまいち晴れた気分になれない……。助手からの電話で起こされて、目覚めが最悪だからか?
 「レポート、受け取りました。次からは期限内に出すように……」
 「よかったです。しかしねえ、昨日、10時に出せって、ちょっと酷くないですか。いきなりあんな時間に電話かけてきて、非常識ですよ。もう大学だってとっくに閉まってたし、用務員さんに事情を説明しなきゃいけなかったんですよ。僕だってそんなに暇じゃない」
 「はあ……」
 電話の向こうの助手が黙る。言い過ぎたか?いや、これぐらい言わせてくれ。
 「電話なんてしてませんけど」









       

表紙

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Neetsha