わが地獄(仮)




『わが地獄(仮)』



ニートノベル二発目の感想いきます。まだ頭が寝ぼけている。すっきりしない。

ところで、昨日の「名人」はよく出来ていたにも関わらず、不思議と印象に残っていない。

印象に残っているのは「ソープの風呂は~」と「バーボンハイムの~」だ。

創作というのは基本、つくりものだ。しかし、上記の二作はちがう。作者の本音、生々しい体験談が語られている。

「名人」。これは上手ではあるが、つくりもののにおいがする。そんなことを言ってしまったら、「ノン・フィクション至上主義」という、僕の考え(「ノン・フィクションというのは、たいていつまらぬものだ。」)の間逆を認めることになってしまう。

現実がどうかなぞ、どうでも良い。あくまで作品をみろ、だ。なのに、「名人」はつくりもののように感じられる。「ソープの風呂は~」これは絶対に体験談だ。

サヤカさんのぬくもり、石鹸のにおいはこちらまでただよってくるようだ。しかし、十兵衛の奥底に秘めた凄みは、そこまでは(同じようには)伝わってこない。肌で感じ取る空気。温度がちがっている。

たんに「名人」の完成度がひくかったからか?いや!立派に出来ていたでしょう。しかし、もし名人が作者の体験談だったら・・・ああは書かなかった。もっと書くことがあった。はず。

僕を閉口させる怒涛のディティールが噴出していたはずだ。しかい、「名人」は、必要なことを、必要な分だけ、「用法用量を守って正しく」記述していたのだ。

作品というものはむずかしいものだ・・・あらためてそう思う。

と、前置きして頭の準備体操をしたうえで、「わが地獄(仮)」の感想にうつっていきたいと思います。

作者名をみてすぐピンときた。このひとは古参だ。ほかにも、バーボンハイムと硬質アルマイト(敬称略)は古参だ。もうひとり、「ヨ」これも古参。

だからなんだというのだ。あまり関係がないな。

ああ、拳銃がほしいなあ。

サブタイトルは「何度も振り返れ」。明日に向かって撃て。心は忘れていない。何をみても何かを思い出す。時計仕掛けのオレンジ。この連想の流れは感想とはまったく関係がない。

まず第一の問題。これは短編集か否か。

短編集である。僕の脳は勝手にそう位置づける。

題材は「バイク」であって、文面を流した感じでは快くこみいっている。ちょっと(あるいはかなり)とがったひとが日常で感じる想念。

日常をどう生きようが勝手だ。どう考えようと勝手だ。なにに注目しようと勝手だ。

しかし、例えばいきなり髪を金髪に染める。すると周囲のひとびとは口々に「どうしたの?」ときく。この作品に書かれている事柄は、そういったものではないと思う。

どう考えようと―自由だ。

他人には干渉されない。目にもみえない。意識の状態ってやつさ。

ここで第二の問題。これは作者の心情そのものか、否か。

さあ、それはわからない。作者はなんてたって古参だ。色々な引き出しをもっている可能性がある。しかし文面が僕に語りかける。「これはがちらしいぞ。」と。

文面、というのは文字とおり、文字のつらなり。意味にすらなっていない。意味の溶けこんだ模様のようなもの。まず、それが目にはいる。

文面という氷を上からすこしずつ溶かして、文章にしていく。すると意味になっていく。

基本的には、読みながら感想を書いていく僕だけど、この「何度も振り返れ」は、わりとざーっと最後まで読んでしまいました。登場人物は「俺」ひとり。

「俺」は仕事をしている。どんな仕事だ?

引用。「昼頃に診察が終わって、隔離病棟から自分の事務棟に戻る時」

まるで精神科の医者のようだな。しかし、どうみてもこの文面は、「俺」が精神科の患者のようだ。「バイクに見覚えがない。(中略)それが自分のものという気がしない。」

引用。「寄ってぺたぺたとシートやハンドルを触ってみるが、他人の持ち物に触るときの抵抗感はない代わりに自分の所有物だという直感が来ない。」

こういった感覚は僕にもあります。現実感が希薄なとき、(より原始的な)嗅覚や触覚によって、それをなんとか知覚しようとする。

ウィキペディア先生からすこし文章をもらってきましょう。項目は「離人症」です。説明は・・・

「自分が自分の心や体からはなれていったり(云々中略)、世界があいまいになり、現実感を喪失し、その意味合いを失ったと感じる。」

まさに、「俺」の症状に似通っていると思われます。

引用「薄い雑誌の表紙を見ているような気がする」まことに的確な表現です。つづいて、「俺は狂ってきているのだろうか。」「きている」というからには、症状がだんだんに重くなってきている自覚があるのでしょうか。(現実の実在性が軽くなっていく代わりに。)

現段階で「俺」を作者と同然とみなすのは早すぎる。しかしどうにも面倒だ。「俺」という言い方は。したがって、便宜的に作者と呼ぶことにしましょう。

作者はすこし特殊な仕事をしている。「死ぬ人間はよく見る」「霊柩車に乗ってお見送りされる方と接する回数も多い。」やはり、医者のように思える。文章の内容としては、精神科の患者そのものなのだが。

引用「いつか自分も死ぬのだと素人よりは理解している」

素人。ひとの死に触れる機会の少ないものたち。すなわち、コンビニの店員、トラックの運転手、美容師、工事現場の作業員、そんな人々のことだ。

リアリティの喪失。作者はそんな感覚に悩まされている。ぼんやりとしていて、生きているのかいないのかよくわからないような状態。

知的に明晰ではない、という意味ではない。あくまで感覚的な問題だ。

「リアリティ?」作者は自問する。

どうやら作者は外科の医者のようだ。「人を切り刻むのに抵抗感を覚えていてはメスは握れない。」こんな風に出てくる。親切丁寧な説明はない。ただ、思考がながれているさまを描写しているだけだ。

作者の手ににぎられたバインダー。モノ。そこには情報が記載されている。患者の情報か、今後のスケジュールか。

僕の感想をすこしさかのぼってみると、ちらりとこんな言葉が出てきている「心は忘れていない。」これ自体に元ネタがあるわけではない。ただの僕の感傷だ。

しかし、この場合は逆。「心は忘れている。なのに、モノ(バインダー)は忘れていない。」

作者はあまりにも多数の死にふれてきたらしい。よく、一般人はこんな疑問をもつ。「医者はメスをふるって人体を解剖したあとに、肉料理なんてのを平気で食べられるものなのか?」と。

回答はたいてい、「それとこれとは別」だ。

この作者の場合は?あまりにも人の死に触れすぎた。あまりにも人の死に慣れすぎた。

例えば、古い小説の一文を借りてみよう。

「今日では五五九のベッドで死んでいる。工場なみだ。」

この場合の「今日」というのは大昔の話、現代ではもっともっと工場なみにひとは死んでいっている。

コンビニに行くとしよう。そこではフライドチキンを売っている。微妙に成型された、四角いチキン。ときには山積みになっていることもある。値段は150円から200円あたり。

死というものも、それに似ている。しかしちがっているのは、フライドチキンはどこの店頭にも並んでいるが、死は巧妙に隠されているということだ。

ある特殊な職業の人間たちだけが、それにふれつづける。生かすためか。殺すためか。この患者は殺すべきだったんだっけ?それとも・・・なんだかわけがわからなくなってくる。

もし、この作品につくりものらしさを感じたとしたら、以下の一文はなかなか出てこないだろう

「俺は人が死ぬということをそんなに気にしていたんだろうか。」

つよいショックを受けたとか、我慢ならないほどのストレスを受けたとか、そんなんじゃない。ぼんやり、非常にぼんやり心が死んでいく。心が狂っていく。それを作者は自覚する。自分のバイクをながめて。

作家的だ。

とても作家的だ。

とても文学的だ。

はげしい発作、衝動、これはわかりやすい。しかし、おだやかな日常がおだやかな日常のままこわれていく、これはおそろしい。というよりも、おそろしいかどうかすらわからない。

作者は(自らのものであるはずの)バイクに乗ってみる。

僕はバイクの免許もない。なので、詳しいことはわからない。しかし、問題とされているのはそんなことではないのだ。

引用「ぼんやりと中庭を眺めてみる。陽光が草地に降り注いでいて、穏やかな午後。まるで天国みたいな職場だ。」

人の狂気の醗酵のしかたはじつに様々なのだ。上記の文章はおだやかなものじゃないか・・・。だから、なおさら、作者の胸のなかは空虚になる。

もし、なにかに追われていたら?緊急な事案に心を奪われていたら?とりあえず、それはない。すると、ふと流れる時間。「天国」ああ、これはなんて「地獄」と紙一重の言葉だろう。

この作者のほかの短編のことは知らない。しかし、まったくちがう作風のものをいくつか書いているとしたら。相当な手腕だ。なぜなら、僕はこの話に「共感」してしまっているから。僕のことのように感じてしまっているから。

これが作者の繰り出す多数の手品のレパートリーの一つにすぎないなら、おどろきだ。むろん、作者にはこういう傾向がある・・・そう考えることもできる。傾向はあるが、そのものではない。そう考えることもできる。

そして、すべてを引用したくなるような名文がつづく。とっても虚無的な名文だ。

「俺はここで一生を終えるのだ。人を切って、自分を喰わせて、人を助けて、自分を潰して。」

やはり作者(俺)の職業は医者、しかも外科だ。人を切って、自分を喰わせて、人を助けて、自分を潰して。なんとまあ実感のこもった言葉だろ。

しかし、自分というものは、どこまで潰せるものなのか。アルミ缶やスチール缶だったら、これ以上ないくらいにペシャンコにできる。でも心は・・・どこまで潰せるものなのか。

作者がひとの肉を切り、自分をつぶして、その終着点はどこだ?

具体的な死という意味ではない。具体的な死がおとずれる前に、心はつぶれきるものなのか?

昨日の自分より今日の自分のほうがつぶれているのだろうか。じゃあ、一年後は?一年前は、どうだったかな。この(作者は今、中庭でバイクに乗っている)バイクの手触りは、どうだったかな。こうだったのかな。よくわからない。

再び引用しよう。

「バイクに乗っている時の俺、仕事中の俺、コーヒーを買っている時の俺、ベンチでスマホをいじっている時の俺、音楽を聞いている時の俺、ベッドの上にいる俺。すべて切り刻まれてバラバラになっている。」

このなかに異常な行動はない。「尻を乱打しながら「びっくりするほどユートピア」と叫んでいる作者はいない。いたって普通だ。まわりからは、いたって普通にみえるはずだ。

なのに、ひとつひとつのピースは正しいのに、いびつな組み合わせ方しかできないジグソーパズルのような生活なのだ。

ここで取り扱われる「時間」と「空間」の概念。そして「行為」。

これを三次元軸のようにあつかってみようか。すこし配置をまちがえると・・・めちゃくちゃなことになってしまうな。作者が病院でメスをふるっているまさにそのときに、作者が自宅でくつろいで雑誌を読んでいるというふうに。

しかし、それは絶対に起こりえない。

いくら作者の認識が希薄であろうと、混乱していようと、現実はやはり合理的だし、作者の神経も合理的なレベルにおさまっているからだ。

もし、作者が完全な狂気にとらわれたのなら、起こりえないことも起こるのだ。つまり、作者が病院でメスをふるいながら、同時に、自宅でくつろいで雑誌を読むようなことが。なぜなら、世界というものは心の映し鏡にすぎないのだから。

ここまでの作品の内容を賞賛しつつ、ふたたび引用をしよう。

「あっという間にフランケンシュタインの完成だ。怪物は自分が壊れているなんてわからない。」

常人が思い浮かべる狂気というものがある。例えば、「私はナポレオンの生まれ変わりだ」と信じていたり、潔癖症で、手を何時間も洗っていたり。

この作者の狂気はそれとはぜんぜんちがう。常人にはわかりづらい狂気なのだ。めまぐるしく動いていく日常のなかで、自我、というものが混沌としてくる。

はて、俺は・・・さて、俺は・・・うん、俺は・・・。ぼんやりとゆがんでいく何か。それは「人を切りきざむ」という、(おそらく医者の)仕事によって起こったのだろうか?無数の肉が?無数の死が?肉屋がポークとビーフのちがいで悩むことがあろうか。

しかし、作者の感受性はおおげさでもなく、ひかえめでもなく、なにかを感じ取っている。

前半の、バイクの主題に戻る。

具体的な数字。「二年」。二年前までは、作者のバイクは作者のものであった。しかし、二年の歳月が作者の心を「精妙に(ここが重要なのだ)」こわした。それは、誰の目にもろくにみえやしない。

ここで映画「マトリックス」の台詞を引用しようか。

「君は、とらわれの身として、色もにおいもない世界に産まれた。心の牢獄だ。」


作者の心情はそれに近いものがないだろうか?

もうひとつ、「バラバラの世界」だ。作者は自分自身に外科手術を行った。おそらくそのときに使ったメスは「合理性」だ。手術はまことにうまくいった・・・。術後の経過も順調だ。まことに、「穏やかな午後。まるで天国みたいな」だ。

作者のなかの医者がいう「もう大丈夫ですよ。」肩をたたいて安心させさえする。しかし、病室をでて歩いてみると・・・なんだか妙だ。なんだろう、この感覚は?手術の結果は・・・。

引用「いつも誰かが騙してくる。一歩踏み出したら、ダメゼッタイ。」

この意味は僕にはわからない。しばらく考えてもわからない。ただ思うことは、作者がこの作品のような気持ちで生きているとしたら、それは悲しいことのように思われる。そして、同時に、それほど悲観することでもないように思われる。

ああ、また引用したい文章が出てくるよ。この作品のサブタイトルは「何度も振り返れ」だ。なぜ?わからない。僕だったら「半死半生のまま、またがるバイク」なんてつけたかもしれない。

面白いもんだ。人は死ぬ。つまり、人は生きている。

作者いわく、「半殺しなんて状態、俺は見たことない。」どんなにずたずたになろうとも!

病床の最後の場面で苦痛にあえぐ患者。医者がいう「ご臨終です。」パチリ、パチリ、とスイッチを切りかえるがごとく。ここで肉屋が出てきて「さあ、遺体の処理だ」と、こうなる。

事務手続きのための役人も出てくる。墓の石屋もずいずい出っ張ってくるだろう。「当方の最高の石の質は・・・。」関係ないのに焼き芋売りなんてのも出てくるかもしれない。「親族の皆さん、お腹が空いたでしょう。」

ここで死人が生き返ったら大変だ。役人も石屋もおおさわぎ。焼き芋屋はちょっと迷って、場違いを感じてそそくさと去っていく。あてのはずれた肉屋は、つまらなそうに二対の包丁をこすれあわす。

作品に戻ろう。

半死半生なんてありえない、と作者は言う。なのに、「でも俺は今、生きても死んでもいない気がする。」と言う。ほかのやつらはどうかな?病院のほかのやつらは?生きているのか、死んでいるのか?

孤独。

職場に戻ってこんな会話が繰り広げられることはないだろう。「俺は生きてるのか死んでるのか、わからないよ。バイクも俺のもんなのに俺のじゃないみたいなんだ。」

それとも、同僚はこうこたえるかな?

「誰だって、そんなもんさ」

「そんなもん」・・・。

比べあうこともできない心。

ああ、ここではじめて「何度も振り返れ」のサブタイトルの意味がわかった。

昼休憩が終わって作者は正気に戻る。そして、自分のバイクを何度もふりかえりながら職場にもどっていくのだ。

いや、作者は本当に正気に戻ったのだろうか。おおげさに言ってしまえば、この世界のすべてが狂気ということもありうる。すると立場が逆転して、作者のみが正気の世界を生きていたことになるのだ。

バイクを何度も振り返る作者が。



『作品感想』


①バイクという「主題」。

②(おそらく)「外科医」という仕事。

③たくさんの死を見てきた経験。

④離人症的感覚。

④-2分裂する自己。

⑤そして、彼を正気にしたてあげている「合理性」

これらの素材をもとに出来上がっている作品ですかね。

まあ、「当たり」

前回は「時代小説が苦手だから正当な評価はできないかも。」

今回は「共感しすぎて正当な評価はできないかも。」

正当な、ね。

笑わせるね(笑)どこにそんなものがあるのやら。

まあ、好きか嫌いかでいえば、「大好物」ですね。これ。つくりもののにおいはまったくしない。なので、「顎男(好ましいイメージになった)」先生のほかの作品を読んで、ぜんぜん毛色がちがってたら、びっくりですね。

作家ってすげえ、って。

なんだかんだいって、すげえやつばっかで困るな。魔窟じゃないか。鬼が出るか蛇が出るか。やぶをつっついたらぼろぼろくる。楽しいねえ!