Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      

 後頭部に髪の毛が生えていないという事象に気付いて一週間が経った。

 美容室で後ろ髪を見て初めて知った残酷な真実。布団に潜れば寝耳に水、窓を開けば青天の霹靂。正確な症状は診察していないので自分では分からない。

 なぜ自分がこのようにハゲてしまったのか。渡り鳥が雨空の下、落雷に撃たれたような突発的ショックで私は塞ぎがちになってしまった。

 何をするにも憂鬱でチアノーゼ気味の四肢は愚鈍たる重力を背負った肉体にぶらり繋がれている。それでも、深く息をついて座布団の上から立ち上がる。生きていかなければならない。毎日二十時四十分きっかりに駅前のスーパーで惣菜が半額になるから外出して食料を買出しに行かなければならない。

 時刻も遅く大儀ではあるが仕様が無い。毛根を、そして命を繋ぎとめるため。もちろん外出時にニットキャップを深く被る事を忘れない。思い起こせば今まで帽子を被る習慣なんてなかった。

 ああ、早く髪が伸びてこの荒れ野原と化した後頭部をそっと優しく覆い隠してくれやしないかしら。いや、その願いは無意味だな。なぜならその箇所は丸く地肌が露出しているからそこだけ髪が生えてこないから。さあ見てみろよ。今より惨めなパーフェクト・アル○ンドの完成だ。


 一月の夜空の下、風邪拾い除けのマスク越しに白い息を吐き出しながら会社帰りのサラリーマン達とすれ違う。

――人の頭を眺める機会が多くなった。

 ゲームセンターのコインコーナー、駅の改札、スーパーの店内。其処に居る彼らに向ける視線の先は自分が毛根を損傷している後頭部。ある人はつむじが真剣に渦を巻くのを諦めたのか、頭頂部が薄い。またある人は誰かと話していてこっちを振り返ると指四本分、生え際が高い。

 嗚呼、こうなって初めて気付いた。世の中には老いも若きも禿げている人は結構多い。禿げてしまった自分とこれから禿げていく若者と既に己の禿と共に人生を歩み始めている中高年。彼らとの比較で自分のハゲはあまりにも凡庸でありふれたハゲ方に感じられる事もある。

 そして彼らの輪に居ると私の心は平穏を取り戻す。こんなにも多くの禿げた人間に囲まれているとまるで大雨の平日を図書室で本を読んで過ごしているように我が身を肯定されている気持ちにも陥るのだ。


 しかるべき食材を手に入れて会計を済ませ、スーパーを出る。冬空の下をひとりで歩きながら窓に映るハゲ頭を発見し、慌てて脱いでいた帽子を被る。卑屈な性格は生まれつきであるが、どうしてこんなにも日常が下降弧線を描いてドラスティックに変貌してしまったのだろう。

 あの日、地肌がほとんど剥き出しになった自分の後頭部を見て私の世界は変わってしまった。侵食は緩やかに。音も無く静かに背後へと忍び寄っていた。

 幾度と無い友人の忠告に耳を貸さず『自分はハゲていない』という根拠の無い自信はあっけなく事実に覆され、意識は攪拌された。

『私は禿げている』。どこまでも逃げ延びようと画策した走者に肩を掴まれて貫き通した思いはとうとう跪き、わずかにそよいでいた一片の誇りは澱んだ地に捻じ伏せられた。

『I'm bald』。あの日からは私は自分自身をそう認識せざるを得なくなってしまった。


 夕食を終えて日課となっているネットの海への現実逃避。とある掲示板では毎日毎夜、薄毛煽りに余念が無い。

 気晴らしにつけたTVではときの人となった某議員の暴言が繰り返し取り上げられ、変えた先のチャンネルではハゲの芸人がネタを披露しているが、ハゲているので笑えない。

 私は深く溜息を吐き出して汚れた六畳間の中央に寝込んだ。現世空想天上天下、何処にも逃げ場なんて無いのさ、と説いたのは仏陀だったか。

 だとしたらこの世はなんと無情な箱の中であることか。思い違いである事を願おう。

 思わず手に取った携帯の広告ですら世の中に薄毛治療を促している。ここまで来ると社会的権力を持つどこかの組織が私を追い詰めて迫害しようとしているのではないかという重度の被害妄想に陥ってくる。

 それならば。私は舌なめずりをして自前のノートパソコンに向き直る。

 もはや失うものは何も無い。信じてやろうじゃないか。その最新技術とやらを。

 気がつくと私はその携帯画面にサムネイルが浮かび上がった企業のホームページを開き、診察予約のメールを発信していた。

 崖っぷちに追い込まれたと来たら最期の瞬間まで抗ってやる。

 胸の奥で燃えている炎の色は何色だ?

 まだまだ私は自分が薄毛になったという事実を嚥下するなんて出来ない。

 思い出してみろ。

 夕食は、

 夕食は、、

 半額になったカキフライ定食とオクラ入りの海草サラダ。

 そうだ、まだ、

 何も始まっちゃいやしない。


       

表紙
Tweet

Neetsha