溺れた男、見つけた女


「助けてくれーっ! 助けてくれーっ!」



 人が溺れているのを、エンプティは初めて見た。そして思う、これは果たして助けるべきなのだろうか……ふざけた花柄シャツに真夜中にも関わらずかけ続け(そして腹が立つことにどれほど波しぶきを浴びても外れない)ているサングラス、のたのたと蒸気船の横腹に向かって突き出される両手はこちらを挑発している可能性がある。もし本当に助かりたかったらもっとしっかりやれとエンプティは言いたい。もっとこう、みっともなく泣き叫ぶとか、鼻水を瀑布のごとく流すとか。そういうポイントがあってこそ、助けてあげようかな、という気持ちになるというものだ。

「見てよデミン、遭難だよ」
「そうねラグン、哀れだね」
「うん、本当にね」メイド服を着た赤髪の人形が気の毒そうにエンプティを見る。
「ここにも哀れな人がいるよ」
「そんなに助けにいきたいなら、さっさと飛び込めばいいのに」メイド服を着た青髪の人形が呆れたようにエンプティに言う。
「どっから持ってきたの、その横縞水着。そもそも、その浮き輪だけで戻ってこれると思ってんの?」
「デミン、ラグン」とエンプティは自分と同じ境遇の少女たちを、愕然として見やる。
「どうしてわたしが、あの可哀想な人を救助しにいくだなんて思うのですか?」
「そのシュノーケルは飾りか? あん?」ラグンが恫喝する。
「ヒーロー願望が脳天から揮発してんの見えてるぞ」デミンが威嚇する。
「エンプ……あんた、ちゃんとユーザーの許可取って動いてんの?」
「そんなもん取ったことないですよ」
「そんなもん……」
「おいたわしや……」
「もうすぐ大事な勝負なのに」

 二人が揃って顔を覆う。

「ああ、エンプ。あんた壊れたのね」
「おお、エンプ。あんたおかしくなったのね」
「急にミュージカル始めないでください……」

 うんざりしたように言ってから、エンプティはきちんとタグボートを下ろして海難要救助者を拾いにいった。
 その重装備はなんだったのだと問いたい。

 〇

「いやあ、助かったよ」

 シャツの裾を絞って水をだばだばと落としながら、サングラスの男が言った。

「沖合ってのは遠いんだな。泳いだって意味ない。よくわかった」
「ええ、ご理解頂けてよかったです。何事も遅いということはありません。馬鹿は治る病です! 一緒に治しましょう!」
「ああ、よろしく!」

 がっつりと固い握手をした二人を見て、デミンは泥と水を掃除するためにモップを取りに、ラグンは一円にもならない落書きを見せられた経済学者の顔をする役目をした。

「でも……こんなやり方でこの船に乗り込んだのは、あなたが初めてです。いったい、何者なんですか?」
「通りすがりの密航者さ」
「出て行ってください! この無賃乗車野郎!」
「おいよせやめろ! せめて! せめて乾燥してから!」

 甲板でぎゃあぎゃあやり始めた二人が飛び散らした汚れを清掃することになるであろうデミンが突き下ろしたモップの音で、バカ騒ぎは沈静化した。

「なにやってんの?」
「すみません」男が怯える。
「ごめんなさい」エンプが震える。
「暴れたいなら、あたしの管轄外でやってくれる? あんた」

 デミンが男を睨む。

「……死んでんのね。チケット持ってんの?」
「俺が死んでるかどうかは俺が決めるよ!」元気よく叫んだ鼻先をモップがかすめていった。潮風が髪を撫ぜる。
「土下座してもいいですか? その、ゆるしてもらうために」
「いらん。それより、何しにきたの? あんた、ほんとに何者? ……ここが死者の賭博船だって、知ってんの?」
「そりゃもちろん。知ってて乗り込んだ」男はパンパンと乾き始めたジーンズを叩き、
「チケットはないが、仕方ない。俺は死んでからとっとと成仏したからな。知ってるか? 人は死ぬと仏様になるんだ。つまり、俺は凄い! 偉い! ひれ伏せ!」
「どうがんばっても場の空気を整える気はないみたいね。ラグン」
「承知」
 モップを八双に構えた二人が、わずか数秒でサングラスの男を壁際に磔にした。モップの先端で脇下と膝裏を極められた男が「わかった、わかったから」とずれたサングラスを直す余裕もなく降伏する。
「俺は、人呼んでアルクレム。友達に頼まれて、この蒸気船に来た。……真実を知るために」
「真実?」とエンプが聞く。アルクレムは頷き、
「ああ、だから教えてくれ。……『リザイングルナ』は、どこにいる?」

 その名が、時を止めた。
 デミンとラグンがモップを下ろす。だが、その目は造眼じみる。

「さあ、どこかしらね。ラグン、知ってる?」
「まさか、デミン。それを知るためには、五つのパーツを集めなくちゃならない。……そうでしょう、エンプティ?」

 何か言おうとしたエンプティの唇を、男の人差し指が制した。
 人好きのする笑顔を浮かべて。

「固いこと言うなよ。教えてくれたっていいだろ?」
「それは……できません、だって、ルールが……」
「かまやしない」

 アルクレムは、エンプティの耳元に口を寄せて囁く。




「真嶋慶のこと、教えてやるよ」