Neetel Inside ニートノベル
表紙

アイドルジョッキーと女騎手
山乃木 志乃 編 一鞍目(H30.4.1)

見開き   最大化      

 砂埃の中が私の日常になった。
 スタートは三、四番手。外枠から先手を主張しようとするが、出来ないことは分かっていた。
 内の風岡さんの馬の方が速い。出負けしてくれれば、と思っていたが、風岡さんがそんな下手を打つはずもない。風岡さんは、ここ名古屋のリーディングジョッキー。並の腕ではない。私にとっては、同厩舎の兄弟子にあたる存在でもある。だからこそ、他の人間以上に風岡さんの実力の高さは理解しているつもりだった。
 そして、私の馬と風岡さんの馬は、同厩舎。それも、師匠の丘野先生の馬だ。このレースには二頭出ししていて、当然ながら風岡さんの方がより力のある馬に跨っている。
 だから、逃げられないのは分かっていたのだ。
 各馬が内側を空けて第一コーナーを曲がっていく。今はラチ沿いから一メートル幅の砂が厚く、最短距離を走るメリットなどはるかに上回るデメリットが発生してしまうため、皆避けているのだ。
 先頭は風岡さん。砂が薄くなる際を通って、馬を綺麗に操縦している。簡単そうに見えるが、私には真似の出来ない高等テクニックが、動作の一つ一つに詰まっている。
 風岡さんが厩舎の兄弟子として存在して下さったことが、私にとって何よりの幸運だった。初めから最高の手本が目の前にいることがどれほど助けになるか。お陰で、一年目の成績が多少良かったところで、慢心する暇もないのだ。
 向正面を過ぎて、第三コーナーに差し掛かる。ここでも同じように、皆外に膨らんで回っていく。今は砂質が重い。ここ一週間、全く雨が落ちていない。芝のレースであれば、好天が続くほど馬場が軽くなるというが、ダートレースはその逆だ。雨が降れば砂からの脚抜きが良くなり、馬にとっては走りやすくなる。すると当然、決着タイムも速くなる。
 風岡さんの馬に弱点があるとしたら、それは持ち時計の遅さだ。レースは上手で展開も作れる馬だが、最後の脚比べには弱いタイプ。名古屋の直線は日本の競馬場で最も短い一九四メートルであるため、セーフティリードを保って直線を迎えられればそれでも問題なく押し切れるのだが。
 それを許さないためには、攻めて行かなければ。
 三角から四角に入る間際、私は馬に気合を入れた。追い出して、鞭を一発、二発と叩き込む。
「けェええええええッ!!」
 人は十人いれば十人ともが別々の考え方を持っているものだと思う。それは騎手においてもそうである。『競馬』というギャンブルレースへの取り組み方。死力を尽くすか否か。長いものに巻かれるか、それを良しとしないかどうか。ファンの側を見るか、関係者の側を見るか。様々だ。
 私は、生き方として勝負する方を選んだ。この世界の外側に目を向けることにした。そして、それは風岡さんもそうだった。
 狭い競馬場の狭い人間関係。それは時に澱みを引き起こすこともある。その一方で、狭さゆえの濃密さも、またある。
 私は風岡さんと、濃密にやり合うのが、たまらなく愉しかった。
 このレースの大本命、風岡さんに真っ向から立ち向かったのは、私だけだった。
 直線を待たず、平穏に決着することが多いこの超小回りの名古屋で、紛れが起こるとすれば、激流を作ること。そうなってしまえば、他の騎手の眼の色も変わる。その先の展開は平穏とは程遠いものとなろう。
 手応えは悪くない。喰らいつける。四角で風岡さんに外から並びかける。
 風岡さんは--動かない。
 何故? どうして、応じてくれない?
 勢いのついた私の馬は、四角出口を先頭で迎えようとしていた。
 その筈だった。
 気付いた時には、内にいた風岡さんが外にぴたりと並んでいた。仕掛けを遅らせたのか、と思う間も無く、抜き返された。
 その時点で、私の馬の戦意は喪失した。限界スピードを発揮した後に抜かれるというのは、精神的にそれほど堪えるのである。ずるずると下がっていき、無難に乗っていれば死守できたであろう二着まで失ってしまった。
 レースは、絶妙の仕掛けを見せた風岡さんが圧勝。二、三着を展開に乗じた差し追い込み馬が占め、圧倒的一番人気が頭の割には三連単のオッズがつく結果となった。


 勝負しないことを選ぶ人達の気持ちも分かる。無理をしなければ、強い馬が巡ってきた時には勝ち、そうでない時は人気程度に走らせる、という騎手としては最も安全な立ち回りが出来るからだ。
 勝負することは、ハイリスクハイリターンだ。そうすることで人気薄の馬を勝たせることもあるだろうし、人気馬を大敗させることもあるかもしれない。そして何より、この環境でそれをやると、とても目立つ。
「見習いの身で無理に風岡に戦いを挑むからそうなる」
 師匠の丘野調教師は、決して声を荒げない。勝った時も負けた時も、そのトーンは一定だった。
 ただ、言葉の中身は、甘くはない。
「お前の乗った馬だって、決して弱い馬じゃない。それをこんな着順にして、馬に恥をかかせたと思わんか、山乃木よ」
 それは、私だって分かっている。私は、馬乗りの経験自体がまだ浅く、正直言って、馬を御すことさえ汲々としている。それに比べて、風岡さんは真の天才だった。弱冠二十九歳にして名古屋競馬のリーディングジョッキーを連続して獲得しており、名古屋の外でもその名が知られている。中央競馬にも度々スポット参戦して、行くたびに何かしら結果を残して帰ってくるので、中央競馬のファンからも評価されているくらいなのだ。そんな人を向こうに回すのは無謀この上ない。さらに、当然といえば当然だが、馬の質だって風岡さんの方が高い。
 丘野調教師は、名古屋のリーディングトレーナー。そして、丘野厩舎の期待馬、有力馬は、ほぼ全て風岡さんに集まる。私に回ってくる時は、厩舎内においてその馬の序列が落ちた時と、風岡さんの都合で乗れない時だ。そう、私は、おこぼれに預かって……『地方最優秀新人騎手賞』を得たのだ。圧倒的なのだ、名古屋においては。それほどまでに。
 元々、名古屋には女性騎手の先輩が何人かおり、他場ほど風当たりは強くないと聞いているし、実際身を置いていてもそう感じる。それでも、私の身の丈に合わない成績を見て、やっかみのような声が聞こえることも事実だ。そしてそれは、何も間違ってはいない。仰るとおりなのだから。
 下手糞ながら、馬の質がいいから勝てている。
 しかし、私は決して、それを表には出さないと決めている。『山乃木志乃は気の強い勝負師』というイメージを誇示したい。実際には自信がないとしても、悟られてはいけない。舐められる。
 私は女騎手。力では周囲に劣る。私の中にある可能性は、人より多く有力馬に乗る経験を得られること、そして、下手糞だということだ。
 砂を齧ってでも、上手くなる。騎手として、総合的に。
 そしていつか、風岡さんに勝つのだ。そのためなら、何だってやってやる。

       

表紙
Tweet

Neetsha